麗爛新聞 四月号 一面
ホームルームの始まりを告げるチャイムが鳴る数分前、ボクはようやく自分の席になったばかりの机に辿り着いた。廊下からの扉に近いその場所に、眼鏡を掛けている見慣れた姿の男子生徒が近寄って来る。
「おーっす、翼。今日は随分ギリギリだな」
「おはよう勇士。さっきまで駐輪場で自転車のチェーン直してたんだ」
「チャリ通は大変だなあ。まあ、朝からご苦労さん」
絹糸勇士。ボクと中学からの同級生で、友達だ。勇士はバスで通学している為、駐輪場に居たボクの姿を見なかったようだ。
「朝ロクに時間も確認せずに出たら、時計読み間違えてたんだよ」
「成る程ね。独り身だとそう言う所苦労するよな。翼に同い年の幼馴染でも居れば起こして貰えたんだ道が、そう甘くはないか」
「別に近場に住む親戚とかでもいいと思うけどなぁ。それか、ボクと一緒に日本に残ってくれる兄弟とか!」
「……お前にはまず、ロマンを追い求める心の方が必要かもな」
ボクの肩に手を置く勇士の言葉に首を傾げていると、チャイムが鳴り響いた。彼はまだ何かを言いたそうにしていたが、渋々と言った表情で自分の席へと戻って行った。
「おらー、席に付けー。チャイムもう鳴ってんだからさー」
スピーカーから流れ出る音の終わりと共に教室の引き戸が開き、やる気の無い声を上げながら女性が入室した。
ボクの所属する一年一組の担任を務める山藤先生だ。二十代後半らしいが、実年齢よりも若く見える。勇士曰く、化粧っ気の無さから察するに彼氏は居ないだろう、と推測出来るらしい。
山藤先生は教卓に出席簿を置き、欠伸をしながらクラスを一望する。
「……よし、みんな居るな。今日の一、二限は部活紹介があるから講堂に移動ね。そんでここに戻って来て、三限から授業。はいこれでホームルーム終わりだから、教室の外に並んでねー」
出席簿に何かを書き込みながら用事を終わらせた先生はそのまま廊下へと出て行こうとする。彼女を呼び止める為に、一人の生徒が声を上げた。
「先生、並び順はどうすればいいですか?」
「適当でいいよ。めんどっちいから早く、ダッシュで廊下に並んで。ほら、マッハマッハ!」
「流石に音速は無理ですよ……」
生徒からの問いに足を止めず、山藤先生はさっさと廊下に出てしまう。クラスメイト達はどよめきながらも、バラバラと廊下に出始めた。
前もって示し合わせていたワケではないが、勇士と合流して廊下の不揃いな列に並ぶ。
やがて全員がバラバラと列に並んだのを確認し、山藤先生は先導して歩き出した。
一年に一度クラス替えが行われるとは聞いていた。しかし、最低でも一年間はこのメンバーで過ごす事を考えると、先行きが不安になる程、心も身体もバラバラな行進だった。
「山藤ちゃん、ルックスはそんなに悪くないのにな。アレだけガサツだと、男っ気の無さも納得って感じだよ」
動く列の一員に溶け込んで歩いていた時の事。腕を組みながら難しい表情を浮かべて呟く勇士に、ボクは相槌を打った。
「そう言うモノなのかな?」
「そりゃそうだろ。若い内はルックスだけでも充分モテるだろうけど、アラサーにもなると内面とか経済面とか、色んな所で互いに評価し合うらしいぜ。それが良い成績だと、やっぱり結婚しやすいんだろうな。結局、点で競うのは子供時代から何も変わらねえんだろうなあ」
「……ふぅん」
勇士の話は少し興味深かった。彼女が一度も出来た経験の無いボクは、漠然と『付き合う=ゆくゆくは結婚する関係』の様な考えを持っている。
当然、そんなに軽い気持ちで女の子と関係を持ちたいと思っているワケでも無い。外見の見た目だけで言い寄る浅はかな男の姿は、幾度も目にしている。
「まあ、俺はもっとフレッシュな同年代付近の子を狙うから関係無いけどな! 若者らしく、世界の理に反抗した態度を貫くよ」
と言うか今ボクの目の前で、それでも赤点は御免だけどさ、と如何にも学生らしいセリフを吐くこの男が代表格だ。
軽薄で、軟派で、人の話をあまり聞かない。
そんな彼の存在は、少なくとも自分だけはもう少し身持ちを固くしておきたいと思わせてくれる。
でも。
『君に一目惚れしたんだ。だから、俺の恋人になってくれ!!』
かつて耳にした、あの告白。人前だと言うのにも関わらず、彼はこう言っていた。
そう言った真っ直ぐさや熱さは、少しだけ、けれども確かに、ボクの心を動かしていた。
行動に辿り着き、しばらくも待たずに部活紹介が始まった。
ラグビー部がボールを弾ませて観客席に飛び込んだり、弓道部の弓の弦が立て続けに切れたりと波乱が巻き起こった。最初は緊張していた一年生の心をほぐし、部活動の良い所を語り合うまでに盛り上がりを見せている。
休憩を挟み、文化系の部活の紹介が始まる頃には、近くの生徒同士が談笑し、講堂内はどよめきが漂っていた。
「女子バレー部の副部長……いや、バスケ部のマネージャの子も良かったな……」
配られたしおりに不埒な書き込みをしている友人の姿を尻目に、ボクも部活動の一覧を確認する。
運動部だけでもかなりの数があったが、文化部も同じくらい時間がかかるだろう。新聞部から始まり、ゲーム同好会に至るまで様々な活動が認められているらしい。
『それでは文化部の部門を始めたいと思います。新聞部の皆さん、宜しくお願いします』
しん、と。
舞台袖からその姿が露わになった瞬間、講堂内から一切の音が消え去ったのだ。
「……あっ」
幻想的で、優雅で、談笑をするには恐れ多い。
そんな雰囲気を纏っていたのは、早朝に坂道で出会った少女――勅使河原先輩の姿だった。
――――
――
「――さ。おい、翼って!」
「……んあっ、何?」
唐突に声を掛けられ、肩を震わせた。声のした方を見ると、勇士が心配そうにボクを覗きこんでいる。
「いや、何じゃなくて……もう部活紹介終わったぞ」
「……え?」
そんな馬鹿な、と辺りを見回す。確かにそこには、生徒達が談笑しながら席を立つ光景が広がっていた。
「お前、大丈夫か?」
「う、うん……ごめん、ボーッとしてたみたいで」
「そうか、それならいいけど。体調が悪くなったらすぐに言うんだぞ」
「そんな子供じゃあるまいし……」
勇士に軽口を叩きつつ、状況を整理した。勅使河原先輩が出て来て、それから新聞部の発表があった事までは記憶がある。しかしそれ以降の文化部の発表も見ていたハズなのだが、全く頭に入っていなかった。
「いやー、でも麗爛に入れて良かったな! 新入生のレベルの高さは元々知ってたが、まさか上級生まで粒ぞろいだとは思わなかった!」
「……まあ、そうだね。キレイな人、多かったと思う」
多かった、と口で言う割に銀髪の少女の事ばかり考えている。つい先程まで隣に居る悪友の事を軽薄だのなんだのと目下に見ていたにも関わらず、だ。彼女の外見は、ボクを恐ろしいまでに惹き付けていた。
勇士の気持ちがわかった事と、自分も彼と同類なのだと自責の念が芽生えた事が重なり、これからは彼の話にきちんと付き合ってあげた方が良いと思った。
「おっ、珍しいな。翼がこう言う話題に食い付くとは。目ぼしい人でも居たか?」
「……まあ、色々あるんだよ、ボクにも」
「ははっ、ジジイみたいな事言いやがって。そのかわいらしい顔じゃ、貫禄も何も無いけどな」
「うっさい!」
が、しかし。勇士のいつも通りの茶化しに苛立ち、早速決心が揺らぎそうになる。
彼の様に外見を重視するのではなく、ハンカチの恩や優しくして貰った事を理由に惹かれたのだと、自分の事を棚に上げようと試みた。
しかし、彼女の魅力はそれで覆い隠せない程にボクの心を埋め尽くしていた。
如何に素晴らしい内面を持っていたとしても、あの輝かしい笑顔を覆い隠す事は出来ないだろう。
一目惚れ。
ボクの心にずっと引っかかって、離れない言葉。
みんなそう言ってボクに近寄ったクセに、勝手に夢から覚めた様に離れて行く。
あんな明らかな一時の気の迷いを、認めたくなんてなかった。
けれど、他の言葉でこの気持ちが表現出来るとは思えない。
長い時間をかけて、分かり合えた時にやっと芽生えるハズの感情が、一目見ただけで掻き立てられてしまう現象。
まだ良く知らないからこそ、もっとその人の事を知りたいと思ってしまう。
それはきっと、恋と呼ぶに値するモノなのだろう。
今まで知らなかった感情の芽生えを自覚して、胸が高鳴った。
教室に戻る途中、階段を昇りながら勇士が心底楽しそうに口を開いた。
「しかしまあ、文化部の発表はバランスが良くなかったよな」
「まあ、ねえ」
一番最初にあの勅使河原先輩を配置してしまったのだ、ボクの様に他の発表を聞いている余裕が無くなってしまった人も多かったのではないだろうか。
「あれじゃあ新聞部の人がかわいそうだ、話題の持ち去り方が実にエグい」
「……え?」
しかし、勇士の語る言葉は ボクの意に反したモノだったのだ。彼の言葉に納得が行かないボクは、少し食い気味に反論する。
「いや、勅使河原先輩がかわいそうって……あんなに注目されてたのに、どうしてそんな」
「……ははあ、成る程。お前さん、あの銀髪の先輩に一目惚れしたのか」
「……い、いや、そんな事は……」
自覚したばかりの好意を言い当てられ、口ごもるボク。勇士はボクを慰めるでもなく、からからと笑いながら続けた。
「それなら、逆に好都合だったんじゃないか? 新聞部のすぐ後に、生徒会の執行部員の募集したから、あの部長さんよりも副生徒会長の方が目立ってたからな」
「生徒会の執行部員?」
聞き慣れない単語に首を捻ると、前を歩く悪友はこちらを見ながら肩を竦めた。
「翼、お前意外と熱い所あるな。男子生徒の関心の九割を持って行ったあの副生徒会長すらも眼中に入れてないとは。真面目少年は恋も真面目なんだな」
絹糸勇士は、感服だと言わんばかりに満足そうに頷いた。
「副生徒会長か……全然覚えてないや」
「そんな不運な君に、この絹糸勇士がわかりやすく説明してやろう。ありゃきっと、どっか違う国とのハーフだ。輝く様な金髪に、遠くからでもわかる翡翠色の瞳! そして日本人離れしたプロポーション! いやあ、あの人のお近づきになりたくて執行部員に志願する人は多そうだ」
「ふうん」
「いや、ふうんってお前……ダジャレじゃないんだからもっとこう……まあ、新聞部の部長さんとは違うタイプだし、お前の好みじゃないかもな。なんつーか……ちょっと、平坦な感じだったしな」
勇士が身振り手振りで説明した内容が、頭に入っていないワケではなかった。ボクだって男だ、それだけ魅力的な人ならば一度は見てみたいし、グラマラスな肢体と聞けば心も踊る。
そして彼の言う通り、勅使河原先輩は線が細く、フラットな身体付きと言う印象が強い。
好みは人それぞれなのかもしれないが、健全な男子高校生ならばメリハリの効いたボディラインの方が受けやすいのだろう。
どちらが魅力的か、などと下世話な議論を引き起こすつもりは皆無なのだが、人一倍外見にうるさいこの男が平静を失う程に推しているのだ。
副生徒会長の方が、パッと見の魅力と言うモノは、大きいのかもしれない。周囲から聞こえる喧噪も、生徒会の話題は多く感じる辺り、気のせいではないだろう。
金と銀の宿命めいた争いに、何かしらの故意を感じるのは、ボクが彼女をひいき目に見ようとしているからなのだろうか。
価値で言えば金の方が貴重で、強く輝くし、富める証でもあるけれど。
他の人は金色の輝きの強さに目が眩んでいる様だが、今のボクは、銀色が魅力的に感じて仕方がない。
歩を進めれば進むほど、階段を昇れば昇るほど、心の中の想いが逆巻いた。
その日の授業は、まるで身が入らなかった。
ボクの席は廊下寄りだが、わざわざ教室の反対側から見える山を眺めていた程だ。
緑を眺めて、風に舞う桜の花びらが視界に入る度、揺れる銀色の輝きを思い出して、溜め息を吐く。それをひたすらに繰り返していたら、幾度もチャイムが耳の奥に響いていたのはなんとなく分かった。
気付けば日は傾き、ホームルームも終わりを告げている。自らの異常に気付いてはいたが、どうする事も出来なかった。
「きりーつ、礼。はいさよならー」
山藤先生のやる気のない号令に応えた後、帰り支度を進めていると、肩を叩く手の感触。
「翼、今日から仮入部期間だし、一緒に部活見て回らないか?」
「あ、うん……いや、ごめん、ちょっと行きたい所があるんだ」
「安心しろ、一番最初に新聞部寄るから」
「わかった、すぐに行こう」
一度振り払おうとした手をがっしりと掴み、バッグを引っ提げて教室の外に出た。
他の生徒達も感心は部活の話題で持ち切りらしい。広い廊下は、入学式終わりの昨日とは比べ物にならないくらい、ざわめきに溢れていた。
「生徒会か……いや、部活を女目当てで決めるってのもちょっとアレか……? 新聞部も地味そうだし、生徒会の真面目さも敷居高いし……」
「いや、実際金銀美女の目当てって奴も少なからず居るとは思うぜ。ただ、やっぱりそんなに多くは無いかもしんねえけどさ。俺も最初はいいかな、って思ったけど、競争率高そうだし、何より三年間続ける部活は、一時のテンションで決めたくないしな」
「私、テニス部に入ろうかな! 一緒に見て見ない?」
「えー、ここのテニス部厳しいって噂だし……やるにしても、軟式テニス同好会みたいなふわっとした奴がいいな」
喧噪に塗れながら、ボクと後ろを付いてくる勇士が歩を進めて行く。道行く生徒達の声に耳を傾けていたらしい勇士が感慨深げに切り出した。
「ふむ、意外とみんな考えているみたいだな。翼、お前は本当に、新聞部に直行するのでいいのか? 別に新聞が好きって事は無いだろ?」
勇士が意地悪ではなく、心配してくれているのはわかっている。
確かに新聞が特別好きだと言う事は無いし、部活動に興味があるかは自分でも疑わしい。
しかし、だからこそボクは足を止めず、今の想いをそのまま口にした。
「別に、新聞部に即決するワケじゃないよ。でも、もう少しあの人の事が知りたいんだ」
「……知らない方が幸せな事もあるかもしれないけどな。実はああ見えて性格が最悪とか、変な噂が絶えないとか、ありえない話でもないだろうし」
「……もしそうだとしても、知らないで心を囚われたままの状態よりはずっといい。ボクは、そう思うよ」
「真面目だねえ、ホントに」
それにこのままじゃ授業料が無駄になる、と付け加えると、勇士は何かを含んだ笑い声でこう言った。
「翼。俺も、その通りだと思う。お前の事を知ったから、こうして同じ立場に居られるんだからな」
見た目が優先なのは変わらないけどな、と続ける辺り、彼らしいとは思ったけれど。
「……ばーか」
やっぱり、勇士とボクは全然違う。そんな思いをはぐらかす様に、少しだけ彼を見て、微笑んだ。
この男は、本当に変わっている。
最悪な出会いをしたハズなのに、あの時から何故かボクは。
軽薄で、軟派で、人の話をあまり聞かない、そんな男を嫌いになれず、ずっと時を共にして来たのだ。
文化棟は先程までボク達の居た教室棟とは違って廊下が狭い。動けないと言う程ではないが、気を付けなければすれ違う人と肩がぶつかってしまいそうだ。
「すげえ人の数だな……確か新聞部の部室は4階だから、その階段で先に昇っちまおう」
後ろにいる悪友の言葉に首肯し、少し角度のキツイ階段を昇って行く。
「うおおおっ……!! ここは天国か……!?」
「……っ!!」
勇士が鼻息を荒げている理由は、すぐにわかってしまう。
現時点の文化棟は階段も混み合っている為、女子生徒の関心も前を行く他者にぶつからない様に、注意を前方にのみ向けていた。
加えて傾斜も、昇る事に支障が出ない程度ではあるが、それなりに急なのだ。本来気を付けるべき下からの視線に疎くなっている。
勇士以外の道行く男子生徒達も察しているようで、階段付近に居る者はみんな視線をちらちらと上に向けているようだ。
詰まる話、ここは――。
「……こっちはピンク、薄紫……うわっ、おい翼見ろ! 今踊り場抜けた人、赤のTバックだ! あんなの初めて見たぞ!」
「う、うるさい! ボクを巻き込むなぁ!」
ここは、破廉恥の花園だった。
ひらひらと動きに合わせて翻るスカートも、肉感の漂う瑞々しい素肌も、その間から見え隠れする色とりどりの下着も、目に毒だ。
まだ結ばれてもいない勅使河原先輩に操を立てるのもおかしな話なのかもしれないが、ボクにとっての誠意のつもりだった。
しかし、見てはいけない、見てはいけないと自分に暗示をかければかけるほど、背徳感が増し、視線が勝手に向いてしまう。
これが本能と言う奴なのだろうか。確か、闘牛が赤いマントに向かって突進するのは、動いているモノに反応しているからだと言う話を聞いた事がある。性欲に塗れた者を『ケダモノ』と呼ぶ理由が、微妙にわかった気がした。
「うわっ、今度は青のОバック!? なんでガッコーであんなの履いてんだ!? 流石に撮るワケにはいかないし、目に焼き付けておくしかないな!!」
後ろで騒いでいる正真正銘の獣が、つい先程まで何を言っていたのか、もう思い出せない。ボクはこいつの事をどんな風に思っただろうか。
今はもうひたすらに、せめてこんな輩と一緒にはなりたくないと言う思いしかない。ボクは文字通り下を向いて、無心で階段を昇る事にした。
急勾配に足を取られない様に、慎重に歩を進める。
「んふーっ、眼福がんぷ……って、翼、止まれ! 列の動きが遅くなってる!!」
「えっ、わぷっ!」
勇士の声に反応して、慌てて顔を上げた先は、真っ暗だった。ワケもわからずそのままの体勢で立ち止まっていると、前方から女性の声が聞こえて来た。
「うん? 今日はよく後ろから追突されるなあ。流行ってるのかな」
「もご……はっ、ごめんなさい!」
自分が前に居た女性の背中に顔を埋めているのだと理解した瞬間、ボクは跳ねる様に後ろの下段に飛び退いた。
ボクが目を白黒させていると、ぶつかってしまった女性がこちらを振り向いている。肩口まで伸ばした茶髪に、鳥の羽の様な形のヘアピンを付けている。
リボンの色は、朝に目撃した勅使河原先輩のモノと同じ。つまり、ぶつかった彼女は上級生だったのだ。
「ごめんなさい、ちょっと余所見をしていまして……」
「うん、全然構わないよ。この文化棟、教室棟よりも前に建てられたから許容人数が少ないんだ。いつもはこの半分も人が居ないから改修も進まないし……折角みんな文化部を身に来てくれてるのに、混んでいて、なんだか申し訳ない気分だ」
「いえ、そんな事はないと……ぐえっ」
ボクが言葉を言い切る前に腕を引かれ、後ろの輩と立ち位置が入れ替わった。勇士は仰々しく腕を振るいながら、芝居がかった声で上級生に絡みだした。
「美しい先輩、この阿呆が失礼しました。何分、こうして女性に囲まれるのに慣れていませんで……おけがはありませんか?」
「全然。そしてあたしは花前佐奈って名前があるから、せめてそっちで呼んでくれ」
「これは失礼致しました。お詫びに、この後お茶でもご一緒にどうですか? ご馳走しますけど」
「あらあら、随分と思い切ったナンパだ。そう言うの嫌いじゃないけど、ゴメンね。あたしこれから、部活の説明会があるから、また今度ね」
「成る程、では我々も用事を終えたらそちらに向かってお待ちしますので、先輩が所属する部活動の名称をお教え頂けませんでしょうか?」
断りを受けてなお、食い下がる勇士。先輩は顎に手を当て、興味深げに微笑んだ。
「へえ、あたしがここまで執拗に声を掛けられるなんて久しぶりだなあ。オッケー、ネタになりそうだし、後で奢って貰おうかな」
「よっし!」
先程前の芝居はどこへやら、ガッツポーズを決めて喜ぶ勇士。彼のこう言う行動力には、頭が上がらない。別に羨ましくもないし、真似もしたくないけれど。
「えっと、ここは……おっと、もう四階か。ちょうどこの階なんだ、ウチの部室は」
「奇遇ですね! 俺達もこの階に用事があるんですよ!」
「へえ……って事は、そこの彼らと同じ理由かな?」
「そこの彼ら?」
そこ、と指を指された場所――と言うよりもだらだらと力無く歩く男子生徒の列が、ボク達とは逆の方向に向かって続いている。勇士は何かにショックを受けた様な表情を浮かべて立ち竦んだ。
「ま、まるでゾンビ……!! 先輩、あの無残な男子達はどうして……!!」
「まあ、このまま行けばわかるんじゃないかな」
不敵に笑む彼女の後ろに、ボク達は続く。そして彼女の言う言葉の意味がわかるまでに要した時間は、それから幾何もかからなかった。
「ほら、アレだよ」
目的地付近で先輩が指し示したのは、新聞部と掲示された一室。その場所と廊下を繋ぐ扉に、屍を量産した殺戮兵器が待ち構えていた。
『私、勅使河原華蓮は許嫁が居る為、男子生徒と私的な交友関係を持つ事は出来ません。新聞部に純粋な興味がある方のみ、是非お立ち寄り下さい。新聞部部長・勅使河原華蓮』
「……こ、これは……」
他の部室と扉の形状は変わらないのに、デカデカと貼られたその紙が何とも異質な雰囲気を漂わせている。
その文言を見て、ばっさりとボクの中の何かが切り捨てられた様な気がした。それこそ、生気を失った顔で撤退する、男子生徒達と同じ様に。
「あ、はは……そうだったん、ですか……」
口から零れるのは、乾いた笑いと拙い言葉のみだった。覚めるのが随分と早い、うたた寝の中の夢の様な。人生の中では、刹那に満たない時間なのだろう。
そろそろ、分不相応の妄想を止めて、現実に帰るべき。彼女に直接そう突き付けられた様な……そんな気がした。
「あたし達二年生の間じゃ、結構有名な話なんだけどね。一年生は知らない人がたくさん居そうだから、書いておいたんだ」
「えー、その……書いておいたと言うのは、もしかして先輩がこれを書いたんですか?」
勇士がボクを憐れみの目で見ながら、花前先輩の言葉に受け答えしている。ボクはこれからどうしようか、と迷いながら指遊びをして時が過ぎるのをまっていた。
「そうだよ。きっと華蓮目当てで部活説明にまで来る男の子が居ると思ってね。いやあ、効果テキメンって奴だね!!」
けらけらと笑いながら言う先輩。悪友がバツの悪そうな顔でこちらを見ていたが、ボクは顔を背ける事しか出来なかった。
『佐奈? 帰って来たなら準備手伝ってよ~』
不埒な輩を締め出す、地獄の門よりも重そうな扉がいともたやすく開かれる。その扉の内から聞こえる声と、空いた扉の隙間から見えた銀色は、ボクの心をきつく締めつけた。
「「……あっ」」
期せずして、声が重なった。目の前から聞こえた声の主は、一瞬だけ驚いて、朗らかな顔へと表情を和らげた。
「……天音君、いらっしゃい」
「……ど、どうも」
彼女の言葉に応える様に、慌てて頭を下げた。我ながら、ぎこちない挨拶だったと思う。これならばまだ出会ったばかりの方がまともなリアクションは出来ていただろう。恋心と言うモノは、自覚するだけで身体の正常さを奪う厄介な代物らしい。
「なんだ、君、華蓮の知り合いだったのか……の割には、あの貼り紙に驚いていたみたいだったけど」
「今朝知り合ったんだ。それより佐奈、貼り紙って何の事?」
「今アンタが支えてる扉に貼ってある、表の紙の事」
勅使河原先輩は目を真ん丸にして、部室の扉の裏側を覗き込む。しばらくして、跳ねる様に勅使河原先輩が部室の外に飛び出した。
「えっ……ちがっ……ええっ!? 佐奈、一体これはどう言う……!?」
「え? 前に華蓮そう言ってなかったっけ?」
「言ってない! お母様がフィアンセの方と結婚した話はしたけど!!」
「フィアンセ? あー、それでフィアンセって何って聞いたら許嫁だって……ああー、ごめん勘違いしてたわ、あはは」
「あはは、じゃないよ、も~!! 佐奈はそう言う所でどうしていつも勝手に……!!」
勅使河原先輩は、ボクに向けていた顔とは全く違う、生き生きとした表情で花前先輩に詰め寄っている。
女性同士。それならば近くても、問題の無いハズの距離感だと思う。けれども、ボクは二人の姿に、何故か貼り紙の文言よりも残酷な現実を見せつけられている気分だった。
一頻り怒り終えた勅使河原先輩が小さく咳払いをする。少しげんなりとした佐奈さんよりも前に出て、威厳をアピールしているかの様だった。
「すみません、取り乱しました……。えっと、私には許嫁は居ないので、どうか誤解なさらず……って、君たちに言っても仕方ないか……」
「あ、いえ……」
色々な事が起こり過ぎて、少し気疲れしたボクは力無く答える。後ろで一部始終を目撃していた勇士がひそひそと耳打ちをしてくる。
「まあ、良かったじゃねえか。これでライバルはグッと減ったみたいだし、終わりよければ全て良しって奴だぜ」
友人の言葉にそそのかされて辺りを見ると、確かに廊下から人の数が圧倒的に減っていた。勅使河原輩目当てだった男子は既に文化棟から移動し、生じていた渋滞も解消されたようだ。
ひしめいていた女子も目当ての部の部活説明会に参加したらしく、あちこちの部室から楽しそうな声が漏れ出ている。
「しかし、今年も新聞部はあんまり人気が無いな……折角華蓮の力で話題性を手にしても、門戸を叩くに至ったのは実質二名だけか。女子も料理部とか合唱部とかに流れて行ってしまっているし……今日はもうダメかもしれんね」
「半分以上は佐奈先輩のせいだと思いますけど……でも、そんな傍若無人な所も素敵ですね」
「あはは、君はホントに面白いなあ。あたしを名前で呼ぶ男なんて、久方ぶりだ。世代を跨いだラブコメでも滅多に耳にする事はないだろう台詞回しと言い、実に興味深い」
「ははは、恐縮です」
漫才の様な、噛み合っていなさそうで微妙に噛み合っているやり取りを目にして、勇士の女子に対するポテンシャルを再認識する。流石に場数をこなしているだけあり、手馴れている。
「……なんだか佐奈、楽しそうだね。やっぱり私じゃ……ダメ、なのかな」
「……先輩?」
「あ、ごめんね……なんでもないよ……ホントに、なんでもないから」
一方で、彼を軽薄だと見下していたボクは、少し寂しそうに笑む勅使河原先輩に何て声をかければいいのかすらもわからない。
勇士の様に、少しでも手を伸ばせばきっと、届いてしまう距離なのに。
花前先輩の様に、少しでも行動を起こせばきっと、何かしらの反応は得られる距離なのに。
その間を埋める言葉を、頑固で窮屈な偏見を持ち続けていたボクは知らなかった。
それならばきっと、許嫁が居ようと居なかろうと、関係なかったのかもしれない。
結局、ボクはこの人に相応しくない。
心のどこかで、そう思ってしまった。
四月号 一面 終
この記事は二面に続きます。