麗爛新聞 六月号 四面
誰かの涙が、ボクの頬を濡らしていた。
曇天を見上げ、どんな光も差し込まない様な分厚い雲の向う側を夢見たのも束の間。
あの空は、ボクの原風景なのだと思い出す。
何があっても、何も無くても、心に映し出した寂しさは変わらなかった。
何をしても、何もしなくても、問うた質問の答えは帰って来なかった。
――だから光が、何時まで経っても見えてこないのだ。
錆び付いた歯車を動かしても、どれだけ前に歩を進めても、自分では変えられない天気と同じなのだ。
天気を変えられるとすれば、あの雲を吹き飛ばす様な、強い風ぐらいだろうか。
そんな、待っていても仕方がないモノをここで待つのも無駄だと、心のどこかでは分かっている。
それでも、ボクは。
取り払われる事の無いハズの暗闇の帳が、誰かに破られるのを期待してしまっていた。
ギィ――がちゃん。
部室棟の古びた屋上のドアが、重苦しく軋みながら開かれ、自身の重みで無造作に閉まる。
開かないだろうと思っていたその扉の前には。
「ここに居たんだね……天音君」
――幻想に揺蕩う姫君が、柔和な笑みを浮かべてこちらを見ていた。
「勅使河原先輩……すみません。部室に戻らず……こんな所に居て」
「あー、うん。それは、佐奈に言ってあげて。私は、天音君が戻って来るなんて、知らなかったから」
「……そうですか」
勅使河原先輩は小さな折り畳み傘を開きながら、雨に打たれるがままのボクに近付いて来た。
「問題です。じゃあなんで、私はここに来たでしょうか?」
「……え?」
ぴちゃん、ぴちゃんと上履きが水たまりを踏んで音を立てている。
ボクはその様子をただ見る事しか出来なくて。
――気付けば、勅使河原先輩がボクの目の前にまで接近していた。
「……」
勅使河原先輩は、何も言わずに呆気に取られるボクの目を見続けている。
その視線がくすぐったくて耐え切れず、目を逸らそうとした瞬間。
「――時間切れです。正解はね、天音君が心配になっちゃったから」
先輩はそう言って、ボクの視線を釘付けにする程の、明るい笑顔を浮かべた。
「……心配、ですか?」
「うん。天音君、あまり雨が得意じゃないみたいだったから」
だから麗爛新聞のテーマに取り上げようって思い付いたんだよね、と悟った様な表情で『彼女』は語る。
「……雨って、結構な人が苦手なんじゃないかって……ずっと、思ってました」
だから、ボクが雨を得意としていなくても、別に変な事じゃない。
そう自分に言い聞かせていた所もあったのだろう。
「ふふ、確かに湿っぽいと、全体的に気分も落ちやすいからね」
「はい……でも、知らない人に触れて、色々な話を聞いて……皆が皆、そう考えないんだなって、知って……」
――でも、今はもう違う。
ボクは世界を広げて、自分の原風景を省みて。
ぱつ、ぱつ、と絶え間なく雫が傘を叩く音をすぐ近くに聞きながら。
「…………ボクは、トクベツ雨が苦手なんだって、ようやく知りました」
狭い部屋の中の世界だけで生きて来た十数年間では気付けなかった、四角形じゃない空の広さを仰ぎ見た。
「……私は、結構雨の日って好きだったんだ」
そう呟く勅使河原先輩に、ボクは再び目を向ける。
「私、昔からインドア思考でね。雨が降っていたら、家の中に居るしっかりとした理由になってる気がして」
そう言えば、部室で花前先輩の耳掃除をしていた時も、随分と楽しそうだった。
そんな彼女には、きっと知る由も無いだろう。
「でも……この雨は、苦手な人にとっての涙でもあったんだね」
――そう、思っていたのに。
先輩の口から飛び出したのは、思いがけない一言。
それは間違いなく、かつての自分がずっと思って、独り言でのみ口にしていた――あえかな問いの答えだった。
「私も、今までたくさんの人に出会って、結構変わったと思う」
勅使河原先輩は、優雅に傘をくるくる回し始めた。
まるで運命の車輪を描く回転は、いくつもの転機を指し示す。
「好きだと言ってくれる男の子達に出会って、私はたくさんの素敵な愛の形と、自分の業を知った」
悲しみを乗り越えて、飲んだ涙の雫を忘れない様に。
「佐奈やマリアと出会って、外の世界の煌きと、自分の欲深さを知った」
喜びを抱きしめて、滾る熱意を思い出す様に。
「そして――天音君と出会って、心に抱えた鬱屈と、自分が本当に望んでいるモノを知ったんだ」
――痛みを乗り越えて、今と言う時を駆ける翼の羽ばたきに、憧れているかの様に。
そんな先輩が、眩し過ぎて。
「……ボクはただ、逃げられない過去から……逃げていただけですよ」
自分の作り出す暗闇で、直視出来ない光を覆い隠した。
でも。
「違うよ、天音君」
強い光が、無理矢理闇を切り裂いて行く。
こちらの意思に関わらず、ただ白銀の光が煌々と灯っていた。
「きっと君は、すごく謙遜しいなだけなの」
それはずかずかと乱暴なまでに心を浸して来る様な、力を持った言葉。
きっと、この人も気付いたのだろう。
ボクと勅使河原先輩は、似ていない様で、似た様な痛みを受けて。
――同じ様に、ここまで生きて来たのだと。
雨で凍えてしまったのか、気付けば何も言えなくなっていたボクに、先輩は言葉を掛け続ける。
「天音君はそう言うけど、君は誰よりも頑張って、今を一生懸命に生きようと、楽しもうとしてる」
冷えたハズの心が、身体が、熱を持つ。
怒りでもなく、悲しみでもなく。
強い何かの感情が昂って、眠っていた思いを呼び覚ます。
「……でも、いつまで経っても雨は止まない……!! どれだけ頑張っても、どれだけ走っても……空は曇ったままなんです……!!」
それは、誰にも聞かせた事の無かった――いや、誰にも聞かせられなかった、ボクの心の叫びだったと思う。
「今を必死に生きても、未来を必死に願っても……過去は、どうやっても変えられないんです……」
感情の高ぶりのままに、気持ちを吐露する。
「でもボクは、今までを無かった事なんかにしたくない……!!」
――どんなに辛くても、諦めたくなかった。
時間を止めないと乗り越えられなかった痛みからも、決して逃げなかった。
それはきっと、どうしても忘れたくない事があったから。
苦手なハズの涙の雫を降らす、あの厚い雲の向う側にあるハズの、今でも容易に思い出せるそれは――。
『ツバサが――女の子なら良かったのにね。そしたらママも……ツバサの事、こんなに大好きにならなかったかもしれないのに』
――あの大きな太陽の様な輝きが見せる、等身大の小さな笑顔だった。
手先とは裏腹に、恐ろしい程に不器用で、愛に飢えていた彼女の温もりを、知ってしまっていたから。
独白に一息をついて、ボクは少し弱まった雨に目を細める。
今こうして、目の前に居る『勅使河原先輩』。
彼とも彼女とも言えない――まるで、ボク自身を見ている様なその人は、真っ白な折り畳み傘を差して、雨に打たれるボクをジッと見ていた。
「……天音君?」
「……生徒会の副会長さんと先輩は、お知り合いだったんですか?」
「うん。天音君との関係は知らなかったけど――さっき、会って、ね。マリアにも言ったけど、『それ』を知っても、私は何も変わらないから」
「っ!!」
――そんな事を言われたのは、初めてかもしれない。
副会長――先程、先輩はマリアと呼んでいたか――も、母の名を耳にして帰って来るのは、快い反応では無かった。
ボクと同じ様な事を言われ続けて来たのだろう。
確かに母の職業と言うか、生き様は決して良い目では見られなかった。
けれど、ボクはその事を負い目に感じた事は一度も無かったのだ。
周囲の人が、どれだけあの人を悪く言おうとも、ボク達はいつだって家族だった。
あの人は、たくさん頑張れば褒めてくれた。
――それは、自分がたくさん努力して来たから。
あの人は、ボクの中性的な容姿を褒めてくれた。
――それは、自分が女性の髄を極めていたから。
『ママはね、世界で一番なんだよ』
そう自慢気に語っていた彼女が褒めてくれた自分を、ボクは誇りに思っている。
だからボクは、あくまで天音翼と言う『中性的な存在として』自分を求めてくれる事を望んでいたんだ。
かつて言い寄って来た子達は、それを聞いて離れて行ったけど。
ボクにとって、そこはどうしても譲れない部分なのだ。
そして出会ったのが――絹糸勇士と言う、家族に代わる心の拠り所だったのだろう。
でももう、彼に頼り切るワケにはいかない。
ボクは、彼に抱いていた感情が恋慕ではなく、親愛だと気付いてしまったのだから。
そう、ボクが初めて恋焦がれる様な思いを抱いたのは――何故か先輩が忌み嫌う現実としての姿だった。
見た目は変わらないと言うのに、ボクは感覚的に先輩が『どっち』で居るのかが分かる程に惹かれていて。
その相手は今、目の前に居るのに、遥か遠くに居るような気がした。
狂った遠近感に苛まれて、ボクはふと思う。
何故、ボクは姉に会って動揺したのだろう。
何故、ボクは今こうして雨に打たれているんだろう。
母が父以外の男性との間に、娘を産んだ事があると知っていたのに。
この原風景を、苦手と思えども、嫌だと思った事は無いと言うのに。
そう考えていた時――頬を濡らす雫が、途絶えた。
「……え?」
雨が降っているハズの空を見上げると、真っ白な世界が広がっていた。
それは現実の冷たい雨を遮り、暗い空を明るく染め上げる。
傘を差し出し、雨を遮ってくれたのは――。
「この涙を止める事は出来ないかもしれないけど……こうして、傘を差し出すぐらいなら出来るかな?」
――他でもない、すぐ近くに居る『彼女』だった。
――ああ、そう言えば。
この人は、優しい光そのものだった。
それが照らすのは、近くに居たボクも例外ではなかったのだろう。
耳かきと言う、直接的に甘える行為は見逃した癖に、こうして迎えに来てくれるのを待つだなんて。
――まるで、ハンカチを渡して来た勅使河原先輩と同じだ。
家族の二人が居なくなって、近所に住む父方の祖父母に同居を提案されても、頑なにあの家を離れようとしなかった。
病死してしまった父は帰って来ないけれど――いつか母が、帰って来るんじゃないかって、期待して待っていた。
また、太陽の輝きに金髪を煌めかせて、あの自然な笑顔を間近で見せてくれるんじゃないか、って。
雨が降ると、ボクと父を残して、母が去って行った日の事を思い出す。
輝きを覆い隠す様な暗い雲は、ボク達を阻む現実そのモノだった。
だからその向こうに、きっと彼女はもう居ない。
最初から――最後に額に受けたキスで、全部分かっていたんだ。
だからボクが、窓辺に寄り沿って待っていたのはずっと――。
「さ、行こう? 天音君は、ウチの大切な仲間なんだから」
――もう、一人じゃない。そう、実感させてくれる人の、温かい手引きだったのかもしれない。
雨は完全に止んでいなかったが、雲の切れ間から光が差し込んだ。
――――――
あの後、勅使河原先輩に連れられて新聞部に戻った。
びしょ濡れになったボクを、犬の様にタオルでごしごし擦られたり、一緒に銭湯に行ったりと騒がしい一日となった。
記事を書いて、訂正を食らって、紫陽花の写真を撮って。
慌ただしい毎日を送っていたら、いつの間にか梅雨前線が消え去っていた。
「そろそろ夏休みも近付いて来たね」
「よし、三人で海行くぞ!!」
「あ、じゃあマリアも呼ぼうよ。あと、絹糸君とかも一緒にどうかな?」
「いいですね、今度聞いてみます」
「くぅーっ!! 夏が楽しみで仕方がない!!」
気付けば熱気を増した風が、夏の訪れを教えてくれた、雨上りの六月の末。
窓の外に掛かる虹の橋を見て、前向きな気持ちで夏を待つ。
ボクは傍に居る二人のおかげで、雨がそこまで苦手じゃなくなっていた。
麗爛新聞 六月号 四面 終




