麗爛新聞 六月号 三面
「……遅いな」
日光が雲に遮られている分だけ、いつも以上に薄暗くなった部室の中。
窓を湿った吐息で曇らせ、降りしきる涙の様な雫を覆い隠していた佐奈が、唐突に呟いた。
「天音君? 今日は取材の日なんでしょう?」
私は彼女に問う。いちいち色っぽくて、今日は直視出来ないと思っていたその人は、ため息混じりにこう言った。
「そうそう。だけどね、最後に報告してくれるって話だったから」
視線を流す様に時計に向ける佐奈。私も追う様に目を向けると、時間は既に五時半を過ぎていて、雲が空を覆っていなくとも日の傾きを感じる時間だ。
「遅くともこの時間には終わると思っていたんだけど」
「……何かあったのかな?」
「……さあね。文化部の取材で、何かあるなんて考え付かないけど」
佐奈はカメラを取り出して、今までに撮った写真の整理を始めた。
私は気晴らしに読んでいた小説に栞を挟んで、席から立ち上がる。
「ん、華蓮?」
「……天音君、探して来るね。何かあったら……その、困るもの」
「そうか。この空は――きっと、あたしを求めちゃいないし、丁度いいかもね」
佐奈はカメラを弄りながら、もう一度だけ曇天を白く掻き消した。
「時に華蓮」
部室から廊下へと繋がる扉に手を掛けた私に、佐奈が語りかけて来た。
「……なぁに?」
「天音君の事、どう思ってるんだ?」
「………………」
ぴたり、と。
予想だにしていなかった質問に、身体が硬直する。
「好きなの? あの子の事」
「…………多分、ね。その……好き、なんだと思う」
その想いに、きっと間違いはないと思う。
彼の隣に居るだけで。
彼と話をするだけで。
彼の事を想うだけで。
楽しくて、でも心がどきどきして、締め付けられる様に苦しくもなる。
こんな不安定な気持ちを覚えたのは、生まれて初めてだったけど。
今まで私に想いを寄せてくれた男の子達の、切ない様な表情から、同じ様なモノを感じ取っていた。
だからきっと――これは、彼への恋心なのだろう。
それは並木道で自分の事を話してから、『私』の心の中に在り続けた願いでもあった。
「……そっか。そう言えるなら、きっと大丈夫だろう」
窓際にもたれ掛る佐奈は、目を瞑りながら小さく安堵の息を漏らした。
「佐奈? いきなりどうしたの?」
「多分、あの子は――心の拠り所を探し続けているんだ。昔からずっと」
「……心の拠り所?」
「そ。苦痛を超えられるだけの安心に、頬を緩ませられる場所をね」
詳しくは言えないけど、と佐奈は大事な部分をはぐらかして言い放つ。
私の知らない彼の事を、佐奈は知っているらしい。
少しだけ嫉妬心を覚えながら、佐奈が言わんとしている事を頭の中で解こうとした。
「あの子は、時を止めてしまう程に辛い事を乗り越えても――まだ、見て見ぬフリが出来ない難題を残しているらしい」
花前佐奈との付き合いも、一年をゆうに過ぎている。
だから彼女が、言葉を歪めながらも伝えておきたい事がある時は、時間をかければなんとなく分かる様になって来た。
「……私に、彼の心の拠り所になる覚悟はあるかって聞きたいの?」
「端的に言えば、そうなるね」
私への忠告と言うか、意思の確認と言うか。どうやら気に掛けてくれている事は間違いないらしい。
しかし、まだそれだけでは無いような。全てが伝わり切っていない、どこか曖昧なやり取りだったと思う。
――でも。
「彼が……求めてくれるなら。私は、何にだってなるよ。だから――大丈夫!」
私は、自分の愚直な想いを、心のままに口にして、扉を開け放つ。
今や既に、生活の一部になってしまった様な彼の手を掴む為に、現実へと飛び出した。
意気揚々と駆け出したはいいけれど、私は彼が居る場所に見当が全く付かなかった。
かつて彼がしてくれた様に、学園中を走って探すのもいいけれど。
「……雨が強くなってる」
窓を力強く叩く雫が、私の心を囃し立てる。
何故かそう――これが誰かの涙だと、直感的に思ったのは、きっと偶然なんかじゃない。
そんなロマンチックで、幻想的な事ばかり考えている私だけれど。
『……ボクは、先輩の支えになりたいです。例えそれが……ボクの思い描く様な形じゃなくても』
思い出すだけで、耳が熱くなって、佐奈へ抱いていた劣情をも掻き消して行く。
――あんな事を言われて、心に来ない人は居ないと思う。
だから私だって、彼が求める様なモノを与えてあげたい。
そう考えるのは、先輩としておかしな事ではないだろう。
「……でも、本当にその役目を担うのは、私でいいのかな……?」
廊下を小刻みに鳴らす靴の音が、少しペースを落とした。
私は――純粋な女の子でもないし、かと言って常に男の子でいられるワケでもない。
彼の知る限りの身近で言えば、佐奈や絹糸君の様な存在に、なれないのではないか。
そう不安に思った事は、いくらでもある。
「……でも」
――この歩みを止めるワケにはいかない。
例えそれが、彼にすら望まれない行進だとしても。
もう、じっと待っているだけなんて嫌だ。
何時しか私は、一生懸命に頑張る背中を見続けて、そう思う様になっていた。
「あら、華蓮じゃない。いらっしゃい」
行く当てもなく辿り着いたのは、彼が訪れていたハズの生徒会執行部の部室だった。
何か絹糸君から話でも聞ければと思ったのだが、彼の姿は見えなかった。
部室の中に唯一居たのは、曇天の中でも、照明に照らされる眩い金髪の持ち主――天城マリアが、執務を行う机から立ち上がり応対してくれた。
「マリアちゃん。お久しぶり」
「うぐ……ちゃんはやめてよ。これでも副会長に就任して、カッコ悪い所見せられないんだから」
どこか憂いを含んだ笑みを浮かべて、マリアちゃん――もといマリアが応接用のソファに身を投げた。
「あはは、ごめんねマリア」
「そう言えば、四月に会ったきりかしら? 部活紹介の順番に手を加えて欲しい、なんて意味不明な事を頼んで来た以来だものね」
私も慣れた足取りでソファにお尻を沈めて、過去の依頼を振り返った。
「ああ、その節はどうも、です。ウチはここみたいに人が必要以上に集まっても――まともに部活が行える状況じゃなくてねぇ。数少ない部員も、諸事情で来なくなっちゃったし」
「――むう」
歯痒そうな顔をして唸り、足を組むマリア。
佐奈のアドバイスにより、私は部活紹介で注目を浴びない為に順番を意図的なモノに組み替えていた。
もちろん、一文化部の力すら持たない新聞部ではなく――生徒会執行部の力を借りて。
銀色よりも派手な金色の衝撃と魅惑で、私の存在を最低限に抑える。
それに協力してくれたのが他でもないこの人――新聞部の幽霊部員でもある、生徒会副会長の天城マリアだった。
「……それで、今日ここに来た目的は――って、そう言えば新聞部が取材に来るって言ってたわね」
マリアは見るだけでも分かる高価な時計にちらりと目をやり、手帳を開いた。
片手で持ちながら、その手の親指で手帳のページをめくって行く。
ぺらり、ぺらりと器用この上ない動きは、なかなか真似出来ない芸当だと出会った当初から思っているその所作。
――そう。彼女以外に出来る人間はいないと、勝手に思っていた。
でも今は、もう一人知っている。
気付けば目で追っていたから――否が応でも目に入った、繊細な指の動き。
同じ様に手帳をめくる彼の姿が、何故か目の前の美少女と重なった。
「……あら? 随分遅い到着なのね。確かに貴方はすっとこどっこいで失礼な人だけど、少し遅過ぎない?」
「あ、うん。ウチの記事担当の子が、もう取材させて貰ってると思うから、それは大丈夫。と言うか、結構酷い事言ってるよねそれ……」
そんな事より。
はやる気持ちをなんとか抑えつけながら、私は彼女にこう問いたくて仕方がない。
「あら、そうなの。それじゃあ一体……」
「ところでさ……片手で手帳をめくるその技って、どこで身に付けたの?」
雨が、だんだん強くなってきた。
悠長に構えている時間は、もう無いみたいだ。
だから話を断ち切って、私は単刀直入に尋ねる。
常に落ち着いているマリアが珍しく、目を見開いた。
「……別に、どこでもいいじゃない。案外手先が器用なのよ、私って」
ふう、と大きく息を吐いて手帳を閉じるマリア。
「それは、一年前から知ってる。ちょうどこのぐらいの季節に、同じ様な質問をして、『似た様な答え』が返って来てたし」
「じゃあなんで今更……そんな事を?」
小さく笑いながら、金髪碧眼の少女はふんぞり返る。
粗暴な仕草に上品さや艶やかさを備えている理由は――過去の彼女が語ってくれていた。
「それ、出来る子が新聞部に入って来たんだ。ショートポニーの男の子、なんだけどね」
「……そう。器用なのね、私と同じぐらい」
「そうかもね。マリアと同じぐらい――『親に似て』、手先が器用なのかな」
「……ッ!?」
一年前、彼女は自分でそう言っていたのだ。
少し誇らしげに、でもそれ以上に鬱陶しげに。
そしてどうやら、事の顛末に多大な関係があるらしい。
他でもない天音君がこの子に出会って、動揺しないワケが無いだろう。
強くなる雨と、叩く様な風が吹く。
そこに確かな悲しみを覚えたのはきっと、私が彼の心に少し近付けたから。
そう――信じたかった。
天城マリアは、あまり自分の生い立ちを語りたがらない。
私の決して取り除けない『汚点』だ。
かつて彼女がそう言い放ったのを、強く、強く覚えている。
だから、あまり触れない様に同じ時を共にしていたのだ。
『あの子、エリーズに似ているね』
部活の用事で、職員室を訪れたある日の事。
中年ぐらいの男性教師が呟いた、たったそれだけの小さな一言だった。
だと言うのに私はそこから、彼女の荒れ狂う様な運命の奔流の、小さな片鱗を垣間見る事になる。
その重みは――他者にひけらかすモノでも、同情を集めようとするモノにもなり得ない。
口にして良いモノか、否か。
迷いに迷った挙句、私が選んだのは――。
「――エリーズさんって、マリアのお母さんだよね?」
今も涙を流しているだろう彼と同じ様に、辛くても前へ進む道だった。
「「…………」」
重苦しい沈黙が部室全体を包む。
と言うよりも露骨に不機嫌になったマリアが発するプレッシャーが、私の居心地を悪くさせていた。
「……そうよ」
しかし、観念したようにマリアが口を開いたのは、それから数分も経たない内の出来事だった。
「伝説の娼婦。全世界の男の愛人。呼び方はたくさんあったけど……どれも、エリーズ――私の母親、パトリシアと同じ人を指し示す言葉だった」
私が教師の呟きを耳にした後、御付きのメイドにその名前を少しだけ調べさせた事がある。
直後、メイドが頬を真っ赤に染めて私を叱り付けたのは記憶に遠くない。
エリーズは、ポルノ業界で活躍した、世界的に有名な女性だった。
他にも、大富豪を相手に大金で一定期間の夫婦関係を結ぶ事も広く噂されていると言う、謎の多い存在。
麗しき見た目に、艶やかな肌。丘陵に富んだ肢体や、絶妙な手技や体技。
全てにおいて一級品のモノを持ち、世の男性を虜にしたと言う。
その見た目や手先の器用さを受け継いで生まれたのが――天城マリア。
そして同じ女性を母に持つ天音翼も男性離れした顔立ちをしている事から、遺伝子の悪戯に弄ばれているのだろう。
彼に初めて会った時に感じた、人を魅了する様なそれに、ようやく納得が行った瞬間だった。
「……って、その様子だと元々知ってたのね」
「……うん。マリアのお母さん、かなり有名だったから結構前に……ごめんね、黙ってて」
「結構前!? じゃあ……母の事知っていたのに、ずっと同じ様に接してくれていたの?」
それは勝気なマリアらしからぬ、不安を入り交えた声だった。
きっと、その事が原因で色々と大変な思いをして来たに違いない。
だから私は――。
「お母さんはお母さん。マリアはマリアだし……それに、世界的に魅力が認められるって、凄い事だと思うから。私の目には――二人共、特異に映らないよ」
私は表情を崩さず、彼女の目を真っ直ぐに見据えた。
心の底からそう思っている。その意思を、明確に伝える為に。
「…………変なの。やっぱり貴方、変わってるわ。新聞部に行かなくなって、正解だったかも」
「何それ、酷い!」
「でも、私も相当な変わり者らしいわ。だから、こんな風に気が合うのかしらね」
「……そうだね」
例え行く道が分かれても、生き方を違えるワケでは無い。
前に進む勇気をくれた彼が、その行動を持って教えてくれた、大切な事だった。
「っと、私他に行かなきゃいけない場所があるんだった」
つい話し込んでしまった事を反省して、ソファから跳ねる様に立ち上がる。
「まあ、相変わらずご多忙な事で」
「む。何それ、嫌味?」
「あら、そう聞こえたならごめんあそばせ♪」
母親の事を聞かれた腹いせとか報復のつもりなのだろうか。
ぺろり、と悪戯っぽく出したピンク色の舌に悪魔的な魅惑を感じたが、頭を振って思考から追い出した。
「また何時でもいらっしゃい、華蓮。貴方なら、どんな時でも歓迎するわ」
「ありがとう。他の子もいい?」
「……ええ。そう、伝えてくれる?」
マリアは少しだけ悩んだ後、なんとも思わない様な表情で憮然と言った。
「うん、任せて――と言いたい所なんだけど、実は今彼が行方不明で……」
自前の銀髪を弄りながら、私は苦笑いをする。
そう言えばここに来たのも何か手がかりが無いかと思っての事だった、と今更思い出していた。
マリアはそんな私を鼻で笑う様に、頬杖を突きながら口を開く。
「――屋上、かもね。ママ……いえ、パトリシアは高い所が好きだったから。私を見て姿を眩ましたのなら……その可能性は十分にあると思うわ」
「屋上かぁ。ありがとう、行ってみるね」
私は金髪の少女に背を向けて、廊下へと飛び出した。
「……華蓮、珍しくパンツ見なかったわね。あの子も変わったのかしら」
扉が閉まる直前、そんな失礼な驚きの声が聞こえた気がしたけれど。
他の誰でも無い――私自身が、自分の変化をハッキリと自覚していたモノだから、否定する気も起こらなかった。
彼は、待っているかもしれない。
彼は、待っていないかもしれない。
それでも私は、行く末の分からない未来へと駆け出した。
麗爛新聞 六月号 三面 終
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