麗爛新聞 六月号 二面
あの印象的な雨の日から、およそ一週間の時が流れた。
花前先輩が取り付けてくれたアポイントによって、ボクの体当たり取材が始まった。
彼女が持つ人脈は相当なモノの様で、どの部活に顔を出しても、部員の人が快く話を聞かせてくれたのだ。
つい今しがたお邪魔していた茶道部の部室から出て来ながら、ボクはメモ帳にペンを走らせる。
「……雨の音を楽しみながら、いつも通り楽しむ……か」
茶道の稽古着に身を包んだ女子生徒が、少し迷いながら口にした言葉を反芻してみた。
雨が嫌い。それもまた一つの考えだけれど、そんな事に気を取られない人も居る。
当たり前の事の様で――実際に、そう考える人の言葉を聞かないと、実感する事が出来ない境地。
かつて古代ギリシアに、各地の賢者を尋ねて、対話を行って回った哲学者が居たらしい。
無知の知と呼ばれる地点に至るまで、彼は何を考えていたのだろう。
――もしかしたら、今のボクと同じで。
「……ただ、自分が知らない事を――世界を、実際にその目で見たかっただけだったりして」
彼の事を、正直に行ってボクはよく知らない。
けれど、こうして自らの見識を広めると言うか――自分が見ている世界を少しずつ広げて行く事は、前に進んでいると強く実感出来る。
立ち止まって居たら、短い人生が勿体ない。
そう、ボクは思い始めていた。
「えっと、次で今日の約束は最後か……って言うか、これが全体の最後なんだ」
手帳を取り出し、自分が話を聞いて回った部活の数に驚く。
それぞれの場所で新鮮な話を聞けて、楽しかった時があっという間に過ぎ去っていた。
止まっていた時が動き始めて――ボクの時間は、明らかに速度を増し続けている。
老いると言う事なのか、はたまた大人になったと言う事なのか。
――それとも、逆行しているのかは、分からないけど。
こうして歩いて、色々な人と触れ合って。
――アブノーマルな恋をして。
勇士と過ごすだけだったボクにとって非日常に近いそれらが、急にボクの世界を彩って魅了する。
でも、それより前は、どうだったっけ。
勇士と出会って、心を痛める程の優しさに寄り添われる前は――。
「……あ、ここか……」
蘇りかけた記憶を遮るかの様に、目的地の室名札が目に入る。
「生徒会、執行部」
生徒会での取り決めを実際に管轄したり、実行したりする、生徒による政治活動と言えば良いだろうか。
他の部室よりも重厚な黒塗りの扉が、外界との隔たりを強く意識させる。
「……よし」
でも、今のボクは重圧を受けていても歩を進められた。
迷いなく扉を叩き、隔壁を押し開いて、内部へと侵入する。
前に進む事を恐れていない――不思議と、そんな確信がボクの心を突き動かしていたから。
「いらっしゃい、翼」
中は他の部室よりも広く、多くの机が並べられている。
出迎えてくれたのは、少し豪壮な雰囲気を感じさせる様な、艶のある家具達。
そして――。
「……あっ、そうか」
執行部の腕章を付けた眼鏡の男子生徒――と言うか、親友の絹糸勇士だった。
「……お前、今まで俺が生徒会執行部に身を置いていると言う事、忘れていなかったか?」
「いや、そんな事ないけど……」
当然、そんな事はあった。
来る日も来る日も知らない場所に顔を出していて、初対面の人達を訪問してばかりだったので、顔見知りに会うと言う可能性を考えてもいなかったのだ。
「ホントかどうか怪しいが、まあいいだろ。しかしすまないな、今日は俺以外出払ってしまっている日なんだ」
勇士に促され、革張りのソファに座る。しっとりと包み込む様な上等な感触に、臀部と背中がびっくりした。
その様子を見て、彼がけらけらとからかう様に、どこか上品な笑い声を上げる。
「ははは。このソファは備品の中でも値が張る部類だからな」
いつの間にか紅茶の用意をしてくれていた勇士が、卓上に簡素な茶会の様相を広げてくれた。
そして完全に慣れた身体運びで、ボクの座るそれと同じ価値のモノに、堂々と座り込んだ。
「いやあ、大切な客が来ると聞いてみれば、新聞部に入部したばかりの一年生だと聞いてな」
そんな物好きは一人しか居ないからな、と勇士はカップを口に運びながら言った。
「悪かったね、どこぞの上客じゃなくて、ただの物好きでさ」
「いいや、どこぞの上客なんぞより、お前が来てくれる方が嬉しいに決まっている」
「……………………あっそ」
――困った。
カップが小さくて、紅潮した頬と耳が隠せないではないか。
この男は、平気でクサい事を口にする。それは本性を偽っていた当初から変わっていないと言うのに、一年以上も一緒に居て、未だに慣れない。
寄り添う様な言葉にドキドキするのは、彼を恋慕う気持ちがあるからではない。
今なら、理由が分かる気がする。
――きっとそれは。
「まあそれで、先日佐奈先輩に聞いた。何でも、梅雨に明るく過ごす方法をあちこち聞いているんだってな」
勇士はそんなボクの様子に気付いているのか気付いてないのか、淡々と話を進めて行く。
「あ、えと、うん。と言っても、執行部はそんなにラフな活動はしてないよね」
ドギマギしながらの受け答えになってしまった。しかし勇士は返答に困ったのか、あまり気に掛けずに首を捻り始めていた。
「……まあ、なあ。部室の雰囲気の割にはみんなフランクなんだが、それでも他の部活よりかは、幾分か真面目だな」
幾分か、の辺りで眼鏡を押し上げた動きに、何かの含みを感じる。
生徒の模範となるべき存在の生徒会。その実際の活動を担っている執行部は、なかなか軽率な行動をする事は出来ないのだろう。
「ん、そうだよね。だから、違う質問を用意しました」
「成る程、用意がいいな」
目を細める様な笑みを浮かべる勇士を見ながら、ボクはメモ帳を取り出す。
質問の内容は大体頭に入っているけれど、一応不慣れな事をする際には順序を確認する様にしていた。
手帳を持った方の手の親指でぺらぺらとページをめくり、生徒会執行部の欄を視線で一なぞりする。
「……似てるな」
いざ質問を。
そう考えた次の瞬間に勇士がぽつりと言ったそれが、やけに大きく聞こえた気がした。
「……え?」
――聞き間違いであって欲しかった。そんな願いを込めた、聞き直し。
「ああいや、その手帳のめくり方さ、副会長にそっくりなんだ。親指でぺらぺらーってさ」
「……ッ!!」
思わず、息を呑んだ。
恐れを抱いていなかったハズの心が、急激に揺れ動き始めた。
ボクは逡巡する。
それは確かに、あまりよく見る光景ではないが、誰かを特定出来る様なモノでもない。
何の変哲もない――ただの、器用な癖でしかないハズだ。
ボクは生まれつき手先は不器用ではなかったし、この手技もなんとか練習して身に付ける事が出来た。
生まれながらにして持っていた――母親から少しだけ受け継いだ、天性の至妙の欠片。
ただ――それに似たスキルを持つ人物像が問題なのだ。
「……副会長って、確か金髪なんだよね?」
ボクの声音から何かを察したのか、勇士が真面目な目付きに変わった
「ああ。金髪碧眼で、かなり良いルックスをしている」
――おおよそ、赤の他人とは思えない。
外見だけならば、そして手技だけならば、それぞれであの人と結び付くとは思わなかったのに。
「……そっか」
小さく呟いて、遥か彼方の記憶に眠る、その姿を呼び覚ます。
――かつてこの手技を見せて、自分と同じ事が出来ると喜んで貰いたかった、母親の姿に。
勇士が何も言わずに、ボクをただ見続けていた。
――そうだ、今はもう、昔じゃないのだから。
揺れる心を必死に抑え込み、一つ大きな咳払いをした。
「……ごめんごめん、そんな素敵な容姿で手先が器用なんて、スゴイ人が居るなって思っただけだから」
ボクの言葉に面を喰らったかの様な勇士の表情は、すぐに内側へと溶け込んでいく。
分かった――そう言わんばかりに、絹糸勇士は普段通りの笑顔を浮かべた。
「……そうか。確かに、他の特技とかも含めれば、鬼に金棒なんてレベルですまないかもな」
気を遣わせてしまっただろうか。
それでも――今は詫びる事は出来ない。
「さて、気を取り直して質問させて頂きます」
「あいわかった。謹んでお受けしよう」
新聞部所属のボクは、生徒会執行部所属の絹糸勇士にいくつかの質問をした。
それは紛れもなく、今でしか見られない光景。
過ぎ去った時よりも、たくさんの経験をした遥か先の出来事。
だと言うのに――心の空模様はあの時と同じで、雨雲がかかったままだった。
「……これで全部かな。ありがとう勇士、とっても参考になったよ」
雨の日に気を付ける事や、執行部として行っている活動のピックアップを中心にした質問に、全て解答して貰った。
これで六月の記事は大体の形になるだろう。もし花前先輩がこれ以上の約束を取り付けられずとも、ネタは十分あると言える。
「いやいや、こちらこそ新聞部の活動を、と言うか麗爛新聞の作成の工程を見れて面白かった」
「質問していただけだけどね」
「その質問がいいんじゃないか。ひたすらに前向きで――嫌な事でも楽しもうとする気概と、それを広めようとする優しさの片鱗を味わえた」
勇士は満面の笑みを浮かべてそう言った。
きっとこの優しい男にも、勅使河原先輩の慈しみが伝わったのかもしれない。
その一端を担えた達成感を胸に抱き、ボクは手帳を閉じて立ち上がった。
「もう行くのか?」
「一応、全部行ってきましたって花前先輩に報告する予定だから。このソファでもっとゆっくりしたい気持ちもあるけどね」
「ははは。また何時でも来るといいさ。新聞部とウチは、何故か蜜月の関係にあるらしいからな」
「情報操作とか、何か後ろ暗い話なのかな?」
「それは分からん。まあ、今の部長さんが率いている今なら、絶対に無さそうだけどな」
「あはは、確かに。それじゃ、お邪魔しました。また明日、勇士」
「お疲れさん。また明日な」
彼に別れの言葉を残して、ボクは部室を後にした。
黒塗りの扉から部室の外に出て、ボクは廊下の空気を久しぶりに感じた気がした。
やはりと言うか、ボクにはこんな質素な着飾っていない雰囲気が似合っていると思う。
いつの間にか、空にはどんよりと沈み込みそうな雲が敷き詰められていた。
一雨来るかな。そんな事を思った時の事。
その瞬間は、唐突に訪れる。
「全く……部活動同士の大切な会議だと聞いてわざわざ出向いたと言うのに、ただのお茶会だったわね」
「まあ、仕方ないですよ。あれもあれで、親交を深めると言う趣があるようですし」
「……そう言われると、言い返せないわね……貴方、本当に口が上手ね」
「お褒め頂き、まこと恐縮の至りで御座います」
「相変わらずかったいわね……あとそれ、ホントに日本語あってるの?」
ボクが歩いていた廊下の前方から、二人の女子生徒が談笑しながら近付いてくる。
片方は御淑やかな見た目で、かなり緩く編んだ髪が特徴的な、ボクと同学年の女子生徒。
そしてもう片方は――。
ボクの前から唐突に姿を消した、母の面影を遺す美貌と肢体の持ち主――生徒会・副会長だった。
「あら、こんにちは」
「こんにちは」
向こうは気にも掛けず、すれ違う。
それはそうだ――ボクは、死んだ父親に似て、真っ黒な髪をしているから。
緩くウェーブのかかった、煌びやかな金髪の残光が、ボクの視界を横切った。
それは、かつて見た母のそれと同じ輝き。
物心がついた頃、まるで夢の様に、唐突に姿を消してしまったあの人と。
間近で見て確信した。
そうでない事を心のどこかで願っていたが、今更だろう。
故に、その名を口にした。
「――パトリシア」
軽快に刻まれていた靴音が、不意に止んだ。
「貴方、どこでその名を?」
冷たく言い放つ様な声。あまり、触れて欲しくない話題なのかもしれない。
「……ボクの、母の名前ですから」
だがもう、見てしまったから。口にしてしまったから。
「そう。お互いに、複雑な母を持ったモノね」
引き返す事は出来ない。ただ前へ進む事だけが許された。
例えそれが――過去への逆行だとしても。
それ以上の言葉を交わす事無く、ボクと彼女は――種違いの姉は、その場を後にした。
姉は一緒に居た女子生徒から色々と聞かれているが、適当にはぐらかしているのが聞こえる。
少し申し訳ない事をしたな。
そんな事を思いつつ、ボクは窓の外を見た。
ぽつり。
一滴の雫が、窓を叩いた。
やがてそれがいくつも、いくつも張り付いて、いつの間にか雨音が校内を包んでいる。
震えながら窓辺に寄り沿い、間近に見えるそれは、かつて一人でよく見た――ボクの原風景とも言える光景で。
重ねる様に、生徒会室の前で感じた事を思い出す。
それもそうかな、と吐く息で窓を曇らせた。
そう、ボクは前に進む事を恐れていないのではなく。
――過去に戻る事を、ただひたすらに恐れ続けていただけなのだから。
麗爛新聞 六月号 二面 終
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