麗爛新聞 六月号 一面
昔から、雨が得意では無かった。
雨が降ると、一人ぼっちだと言う事を強く意識させるから。
まるで世界から隔離されているかの様に下りている帳は、自然と阻む心を加速させて行く。
窓辺に吊るしたてるてる坊主が、苦しげに呻く様な音を立てて、雲は涙を流した。
誰が泣いているの。
そんな問いに答える人は、家に居なかった。
だからボクは思っていた。
泣いているのは、ボクの心だと。
一人を悲しんでいるから、雨を誰かの涙だと無意識に感じ取っていて。
そうして、冷えた窓辺に寄り沿って、涙を流す誰かに心を近付けた。
「一人じゃないよね」
そんな問いに答える人は、いつまで経っても――帰って来なかった。
しとしとと窓を叩く雨音に目を覚ます。
苦手では無い朝も、雨のせいで少しだけ気持ちが落ちていた。
テレビを付けて、ほぼ日課となっている今日の天気を確認する作業をこなす。
『今日は一日、雨が続く見通しです。傘が手放せない一日となるでしょう』
少しでも明るい気持ちにさせようとしているのだろう。いつも明るい天気予報士の声が、何時にも増して跳ねていた。
気怠い足取りで朝食の用意をする。祖父母からの仕送りで届いた米を昨日の内に炊飯器にセットしていた為、主食は事欠かない。
冷蔵庫の食材とにらめっこして、悩んだ末に卵を二つと、小分けにされたベーコンを取り出す。
フライパンに油を引いて、加熱してから食材を並べる。油の跳ねる小気味の良い音が、雨音を紛らわしてくれた。
昨晩に作って置いた味噌汁を温め直し、用意した食事を卓上に並べる。
こんな簡素な食事でも、作るのには意外と時間が掛かる。その為、ボクの朝は同級生より少し早いらしい。
とは言っても、親友が住む絹糸家は別格だ。煮物や焼き魚など和食の定番料理が並ぶ為、台所は早朝から良い香りが立ち込めているらしい。
勇士曰く、腹が減って二度寝が出来ないデメリットもあるのだとか。それはそれで贅沢だが、切実な悩みなのだろう。
一度御相伴に預かってみたいモノだが、なかなかタイミングが掴めなくて未だに味わった事が無い。
単純に、無意識下で避けていただけだろうなと思いながら、ボクは朝食を摂る事にした。
「頂きます――」
「――ご馳走様でした」
両手を合わせ、腹を満たしてくれた食材達に感謝の言葉を告げる。
確かに、朝食を惣菜パン一つなどで済ませれば、もう少し長い時間の惰眠を貪れるだろう。
それでもボクはその道を選ぶ事は無い。
簡易な食事は余計な事を思い出すし、何よりボクはこの満たされる朝の時間を好いていた。
満腹感の心地よさにうっかり船を漕ぎそうになったが、登校時間が近付いた事を告げる時計を見て、慌てて立ち上がる。
食器を片づけ、身支度を整えて、靴を履く。
忘れ物が無いか一瞬だけカバンを漁り、外界に繋がる扉のノブを握って、呟いた。
「……行ってきます」
帰って来る言葉も無いと言うのに、毎日毎日飽きもせず口にする言葉。
未練があるのかと聞かれれば、あると答えるに決まっている。
別に好き好んで、一人を選んだワケでは無いのだから。
ただ、一人にならざるを得なかっただけであって。
余計な事を考えながら扉を開け放ち、外の様子を見て一言呟いた。
「……やっぱり、雨は得意じゃない」
雨が降ると、一人ぼっちだと言う事を強く意識させるから。
「おいっす翼。この季節は雨が多くて嫌んなるな」
「おはよう勇士。でも、バス通学だとあんまり関係無くない?」
雨の中の登校を終え、無事に教室で勇士と挨拶を交わしたボクは駐輪場に吊るした合羽を思い出す。
あのじっとりとした感覚をどうにも好きになれないが、背に腹は代えられない。
自転車を漕ぐために用いたそれや、道中の気苦労などバスでは無縁の様に思えた。
「ところがどっこい。雨が降ると露骨に混むから、俺は苦手なんだ」
「……成る程。確かにそれはあんまり好ましくないなあ」
やれやれと肩を竦める勇士は、心底恨めしいと言った表情で手に持った小説を見やる。
通学中に読むつもりだったのだろうが、混雑の荒波に揉まれて阻害されてしまった様だ。
「今日は執行部の活動があるから、読める時間も少ないと言うのに」
そう言いながらも、ボクとの雑談を止めない所が勇士の良い所だと思う。
勇士と出会って、学校に居る間は一人じゃないと強く思える様になったのは、とても嬉しい。
けれど、いつか窓辺で眺めた雨はボクの中にしっかりと焼き付いていて、離れる事のない原風景なのだ。
ボクは前に進んだ様で――まだ、拭い切れていない何かのしがらみに囚われているのかもしれない。
そんな陰鬱な空気はボク達の間だけにとどまらず、いつもは賑やかな教室の中も、決して活気に溢れているとは言えない状況だった。
誰かが窓際に干した靴下が何とも言えない侘しさを演出している中、ホームルームの開始を告げるチャイムが鳴り響いた。
放課後になり、ボクはいつも通り部室に向かった。
「こんにちはー」
なるべく暗い気持ちを押し隠して、せめて部活を楽しもうと開けたドアの向うには予想だにしなかった光景が広がっていた。
「あ、天音君。こんにちは」
「おはよーさーん……ああー……」
部室の中には部員全員が――即ち勅使河原先輩と花前先輩がくつろいだ時間を過ごして居た。
外は変わらず雨が降っていると言うのに。
「……何やってるんですか?」
「佐奈のお耳掃除だよ。ほら佐奈、動いたら危ないでしょ」
「あーい……ああ、そこ……あはああぁあぁ……!!」
勅使河原先輩の膝枕の上で、花前先輩が蕩けている。
ボク達のクラスだけでなく、校舎全体に漂う湿気の混じった空気をものともせず、ひたすらに和んでいる二人の姿は、ボクにとってかなり異質な光景に見えていた。
ただ、敢えてそれを口にするモノでもあるまい。
そう判断したボクはカバンをいつもの場所に置き、筆箱を取り出す。
今月発行予定の麗爛新聞のネタ出しをする為だった。
「天音君、今月書いてみたい題材とかある?」
「あっ、華蓮それヤバい奴!! あっ、あっあ、あ、あ、あっ!?」
「えっと……」
平気な顔をして耳をほじりながらボクに話しかける勅使河原先輩とは裏腹に、ちょっとヤバ気な声を上げる花前先輩。
どう答えるのが正しい反応だろうか。数瞬考えた後、ボクは悩みながら開口する。
「……取り合えず、今の所は無いですね。イベントらしいイベントも無いですし……」
「そうだよね。なんて言うか、梅雨の季節事態がマイナスっぽくなっちゃってて、題材に何かを取り上げるって難しいかも」
「あ、紫陽花がき、き、きれあああああ華蓮それああんっ!!」
「……うふふ♪」
「……」
取りあえず、耳かきをされている花前先輩の話は後で聞こう。そう強く思った瞬間だった。
しかし勅使河原先輩の言う通りで、麗爛新聞に何を取り上げるか難しいと思う所がある。
何より、ボク自身が雨を得意としていないし、梅雨は何かとイライラしてしまう事も多いだろう。
先月の球技大会でなんとなくコツを掴んだとは言え、苦手分野が唐突に来られると手も足も出ないんだなと歯がゆい思いをしていた。
「はい、キレイになったよ。やり過ぎもよくないみたいだけど、あんまり溜めちゃダメだよ佐奈」
「あー……気持ち良かった……また華蓮にやって貰うからいいや」
「もう……♪」
少しだけ嬉しそうな息を吐いて、勅使河原先輩は耳かきをしまった。
如何にも高級そうな入れ物に入ったそれは、もしかしたら一級品なのかもしれない。
「あ、天音君もやってみる?」
ボクの視線を感じ取ったのか、勅使河原先輩は耳かきの入った丸い筒を見せて来た。
「あっと……その……」
正直な話、興味はあった。あの花前先輩があそこまで蕩ける程甘美な瞬間に、思わず涎が湧き出るぐらいには。
しかし、麗爛新聞の記事作成には余裕を持っておきたいのは事実。今日で何かが決まるとは思えないが、この意気込みを蕩けさせたくなかった。
「こ、今度! 是非、お願いします……」
だから、ご褒美にでもやって貰おうかな。そんな事を考えて、泣く泣くチャンスを手放した。
「はーい」
くすくすと笑う勅使河原先輩は、どう見ても年相応、或いはそれよりも年下の少女にしか見えない。
だが、花前先輩は元々知っていて、ボクも本人の口から直接聞いた真実がある。
それは、勅使河原華蓮の性別が男性だと言う事。
女子生徒用の制服に身を包み、長く伸ばした銀髪はおおよそ男性のモノだとは思えないし、言動だって生粋の淑女のモノにしか見えない。
ただ、ボク達は勅使河原先輩の性別を気にしていない。
その触れれば消えてしまう幻想こそ、勅使河原華蓮と言う花の魅力を最大限に披露している事も分かっている故に。
そう。だから、これがボク達新聞部の日常風景なのだ。
例え雨が降っていて、心に染み付いた涙の跡が疼いても。
「佐奈、さっき何言おうとしたの?」
「ん? ああ、えっと……ゴメン、忘れた。耳垢と一緒に抜け落ちたかも」
変わらない温かさをくれるこの人達に、ボクはいつの間にか雨の陰気を忘れてしまっていた。
「そうだ」
そんな温かさが、ボクにヒントをくれたのだ。
一人では思い付かなかっただろう、大きなヒントを。
「んーっ!! 天音君、何か良いアイデアでも浮かんだ?」
花前先輩が伸びをしながら、身体のメリハリを強調したポーズでボクに尋ねて来る。
ふるん、と揺れたそれに一瞬意識を取られたが、咳払いをして誤魔化した。
「えーっと……いっその事、梅雨の中で明るく過ごせる話題とかを他の部に聞いてみたりするのどうですかね?」
花前先輩は面喰った様な表情を浮かべた後、にやりと口角を釣り上げた。
「ほほー。なかなか面白い事を言い始めるな、一年坊主」
「佐奈。もうちょっと言い方があるでしょう?」
嗜める様な物言いで勅使河原先輩が花前先輩にじっとりと目を向ける。それを気にする事無く、妖艶な肢体の少女は屈託の無い笑みでこう言った。
「褒めてるんだよ。進んで取材形式を取ろうとするなんて、勇気とガッツに溢れてる証拠だからね。褒美におっぱいを触らせてあげよう」
「え、マジですか!?」
「……むう」
「あ、いや……ま、またの機会に」
花前先輩に向けられたそれよりも鋭く厳しい視線を感じ、ボクはあっさりと折れた。
「あっはっは!! あんた達はいつ見ても面白い関係だよなー」
心底楽しそうな言葉でボク達を笑う花前先輩はポケットから手帳を取り出し、帰り支度を始めた。
「あれ、もう帰るんですか?」
「まあねー。天音君、取材のアポとかは、あたしが取ってあげるから。続報はまた明日以降だね」
「あ、ありがとうございます!」
「うん、良い返事だ。また素晴らしい記事を書いてくれるのを期待してるからね」
ぱちりとウインクを決めて、花前先輩は部室を後にしてしまう。
怒涛の展開に心が追い付いていないボクは、しばらくそのままで居た。
「佐奈って、面白いよね」
「……ええ。とても」
勅使河原先輩の呟きに、ボクは首肯して同意した。
その瞬間、一度閉じたハズの扉が再度開かれる。そこには噂の面白い人の姿があった。
「あ、一つ言うの忘れてた。華蓮、あんたも同じ穴のムジナだからな」
「……え? どういう事ですか?」
「耳かきしてる最中、その子ずっとあたしのおっぱい見てたから。天音君の事強く言えないよー、ってね」
「ちょっ!?」
じゃあバイバイ。そんな爆弾と別れの挨拶だけを残して、嵐が過ぎ去った。
「……」
「……」
ひたすらバツの悪そうな勅使河原先輩と、そんな彼のやきもちでむざむざと胸を触るチャンスを逃したボク。
二人共、何を言い出していいか分からず、ただ嵐の気まぐれに翻弄された放課後の出来事。
雨が降っていた事など、ボクの心からすっかり抜け落ちていた。
麗爛新聞 六月号 一面 終
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