麗爛新聞 三月号
麗爛新聞 三月号
桜の咲く季節が、今年もやって参りました。
春の息吹が吹き渡り、徐々に桜の花びらが舞うだろう日々が訪れるのもすぐ近く。
桜は別れと出会いの両方を象徴するかの様な、儚く、故に美しい花なのでしょう。
美麗で憂鬱なそよ風の中、上級生が卒業し、その後を追う様に、私達は一つ歩を進めます。
旅立つ背を見送り、新たに訪れる迷い子を迎える為に。
来年もまた、同じ様な季節は巡り来るでしょう。
そして、同じ様に別れと出会いを象徴する花が咲き、私達はまた一つ歩を進めます。
眼前には、全く同じ様で、全く異なる景色が広がっている事でしょう。
旅立ちの時に戸惑ってしまわぬ様に、旅支度はしっかりとしておきたいですね。
見送る人達が、その背を追いたくなる様な姿に、来年も出会えると信じて。
(勅使河原華蓮)
序章
~side 翼~
「はあっ……はあっ……!!」
桜がちらちらと舞う坂道を、自転車がぎしぎしと駆け上る。
額から滴る汗を零し、着慣れないブレザーの袖を窮屈に感じながら、車体を左右に振った。
苦しい思いをするぐらいなら、自転車から降りて押せばいい。
誰かが見ていれば、きっとそんな言葉を掛けて来たと思う。
でもボクは、例え正論を突き付けられても、自転車から降りなかっただろう。
車体を揺らし、腕を左右に振った際にちらりと見えた腕時計が指し示す時刻は、分針が五と六の間。寝坊をしてから急いで支度をし、がむしゃらに自転車を漕いで来た為、これまでに時間を確認する余裕が無かった。
そして今も、余裕が無い状況は変わっていない。ホームルームが開始するのは八時三〇分。入学式の翌日に遅刻を仕掛ける人間はきっと、非常識なのだろう。坂道に人影は、当然の様にほとんど無かった。
唯一例外だったのは、ボクの少し前を、制服に身を包んで悠然と歩いている女子生徒のみ。
彼女はもう、ホームルームに間に合わないと察して歩いているのかもしれない。
それもそのハズだ。もし坂の残りを数分で上り切って学校の敷地内に入ったとしても、校舎に辿り着くまでにかなりの距離が残っている。ボクがこの春から通う事になった麗爛学園は、それ程に大きな学校なのだ。
潰えそうになる心意気を立て直して、ペダルを強く踏みしめる。
ばきん。
「……えっ?」
何かが壊れた音がした、と思った次の瞬間には、足の力が空回りしていて、身体の右側に衝撃が走っていた。
大きな音を立てて地面に横たわる自転車と、バランスを崩して地面に放り出されたボク。
生ぬるいインターロッキングブロックの感触が、マヒした身体にじんわりと痛みを伝えて来る。
地に落ちていた桜の花びらが、ボクを嘲笑う様に風に舞ったのを、ただただ眺めていた。
「……あの、大丈夫?」
どれだけそうしていたのだろう。
いつの間にか前を歩いていたハズの少女がボクに近寄って来ていて、屈んで様子を窺っている。
艶やかな銀色の髪を揺らし、ボクを覗き込むぱっちりとした碧眼。
その少女を認識して、ようやく自分が地面に伏せたままだと気が付いた。
「あ、はい、大丈夫です……よいしょっと……」
痛みを訴える身体を起こし、手を握ったり足を動かしたりする。確かに衝撃の影響で痛いが、動かないと言う事はなさそうだ。覗き込む少女に、手で良好の意を伝えた。
「……すごい汗。ちょっとじっとしててね……」
人形の様に幻想的な外見の少女は、制服のポケットから真っ白で花の刺繍が成されたハンカチを取り出し、ボクの額に押し当てる。そのまま拭うのではなく、ぽんぽんと優しく叩く様に汗を吸い取ってくれた。
すぐ近くに見える美しい顔と、布から漂う優しい香り。どんな顔をして待っていればいいかわからず、ドギマギしながら視線をあちらこちらに動かして事の終わりを待っていた。
「これで汗は拭えたかな。はい、もういいよ」
銀髪の少女は立ち上がり、ハンカチを折り畳んでポケットにしまおうとした。ボクは慌てて立ち上がり、その手をそっと掴む。
「……ありがとうございます。その……ハンカチ、洗濯して返しますから、貸して貰えませんか?」
「いいよ、気にしなくて」
「そう言うワケには……ちゃんと、お返ししますから! その、みっともない所見せるだけではアレですし……お礼ぐらいは、させて下さい」
「……そう? ふふ、なら、お願いしちゃおうかな?」
はい、と手渡されたハンカチは汗を吸って少し重たくなっていた。それでもわかる、このハンカチの手触りの良さ。かなり上等品だと言う事は、一般的な所得の家に住むボクにだってわかる。
こんなに汗臭くなってしまったハンカチを少女に押し付けるのは気が引ける。丁寧に折り畳み、ポケットの中に入れた。
「あの……気に掛けて下さって、ありがとうございました。えっと……」
銀髪の少女の名前がわからず、容姿を一通り確認してしまう。明らかに育ちの良さそうな髪に、上品な佇まい。制服のリボンは、新入生の自分と違う為、間違いなく上級生だろう。
困っているボクの様子を見かねたのか、少女は髪を弄りながら口を開いた。
「勅使河原。私の名前は、勅使河原華蓮。二年生だから、一応貴方の先輩になるのかな」
「勅使河原、先輩。あの、ボクは……天音翼って言います。声かけてくださって、嬉しかったです」
銀髪の少女――勅使河原先輩は、花が開いたかの様な笑顔で笑いながら、いいえ、と優しく答えてくれた。
「天音君、かぁ。昨日入学式だったばっかりなのに、随分早く登校してるけど、何か用事だったの?」
「そうだ! 遅刻……って、先輩、もう遅刻ギリギリの時間じゃあ……」
「ううん。ほら、君がしてる腕時計で時間、確認してごらん?」
勅使河原先輩の言う通り、時間を確認する。すると、分針はやはりと言うか、六を遥かに過ぎた位置にある。しかし、時針が示すのは、七と八の間――つまり、現在は七時半過ぎ。ホームルーム開始まで、小一時間の余裕があった。
「……急いで損しました」
ボクは張りつめていた肩を落とし、落胆する。勅使河原先輩の気の毒そうに笑う声に少しばかり癒されて、坂道に横たわる自転車を引き起こした。
遠目で確認するが、どうやらチェーンが外れているようだ。この程度ならば自力で直せると安心し、自転車を転がす。
「さて、私はここら辺でお暇しようかな。じゃあね、天音君。もし身体に異変があったら、すぐに保健室に行くんだよ?」
「ありがとうございます……あ、先輩!!」
クラスは、と聞こうとしたボクの呼びかけも虚しく、銀色の少女は柔らかな香りを残して、学校へと続く坂道を軽やかに上って行ってしまった。
自転車を押して校門を過ぎた所にあるロータリーで、ストレッチをしている運動部員を見かけた。ボクの時計が正しい時刻を示していた事を裏付ける様に、焦る姿を見せずにウォーミングアップを続けている。
駐輪場まで辿り着く頃には再び額に汗をかいていた。ポケットから借りたハンカチを取り出し、思い返す様に汗を拭う。
ふわり、と勅使河原先輩を想わせる香りが鼻孔を擽った。
「……勅使河原先輩、か」
幻想的な外見で、お嬢様で、先輩で。
ハンカチと優しさを差し伸べてくれた少女に、運命的な何かを感じてしまった。
先程は急いで損だとか行ってしまったが、通常通りの時間帯に登校していれば、彼女に会う事は無かったのだ。それを考えれば十分にプラスなワケで。
「早起きは三文の得、って奴かな」
聞く相手も居ない独り言を呟きながら、チェーンに指を掛ける。
どこか上の空で続けた作業は、結局ホームルーム開始時間にギリギリまで差し迫る事になった。
~side 華蓮~
「華蓮。珍しく遅かったじゃん」
待ち合わせ場所に決めてあった、部室棟の入り口。そこでは女の子が、デジタルカメラを弄りながら、私を待っていた。
「ごめんね佐奈。ちょっとその、色々あって」
この子は花前佐奈。新聞部の写真担当で、私のお友達。メリハリのある身体付きが特徴の、新聞部のせくしー担当でもある。
「ふーん。って事は、良い事があったんだ」
「な、なんでそうなるのよ……」
動揺してどもった辺り、隠せるワケも無いのだが、一応抵抗の意を示す。
「華蓮は悪い事があったら、すぐに嘘吐くからね。しかも、悪びれもせずにしれっと」
佐奈の言葉に、少しだけ心が痛む。胸を手できゅっと抑えて、言い返すように答えた。
「……嘘を吐く事に慣れちゃってるのかも。私、こんなだし……」
「ははっ、ごめんごめん。別に意地悪言ってないから……あたしも、華蓮の事情は分かってるつもりだし。今は単純に言い淀んだから、秘密にしたい良い事があったんだろうなって、思っただけだからさ」
「……もう。佐奈は『どえす』だよね」
にしし、と笑う佐奈に皮肉交じりの微笑みを返す。私は、佐奈とのこう言った気兼ねの無いやり取りを好んでいた。
「華蓮、裏の桜並木に行こう。早めに行かないと、散っちゃうからさ」
そう言って屋外の階段を昇って行く佐奈に私は付いて行く。ずんずんと先へ進んでしまう彼女を追いかけると、自然と見上げる姿勢になってしまった。
「……ッ!?」
腹部で折り込まれたスカートは私の履くモノより短く、淡い黄色に彩られた臀部が見えてしまっている。視界に入ったパステルカラーを振り切る様に、首をすぐさま横に向けた。
油断していた。朝の出会いに、いつもとは違う感覚を見出してしまっていたのかもしれない。
ばくばくと、いつもの頼りなさ気な鼓動を忘れたかの様に、高鳴る心臓。
これは階段を昇ってるせい。そう自分に言い聞かせ、そっぽを向いたまま階段を昇って行く。
少し考えれば、その厚意がどれだけ危険なのか分かったハズなのに。
「わぷっ」
「おっと、どうした華蓮、何故突進して来たん?」
いつの間にか階段を昇り切り、カメラを弄る佐奈の背中に顔を埋めてしまう。私の制服に染みこんだ香りとは違う、もっと女性らしい――フェミニンな芳香が、肺をいっぱいに埋め尽くした。
それは血流にのって、身体の隅々まで行き渡り、私の本能を呼び起こす。体温が上がり、耳まで熱くなっている。きっと顔も隠せない程に、赤く染まっている事だろう。
「華蓮、返事はどうした……って、アンタはホントにウブだなあ……それじゃあいつもと違って、『女の子らしくない』よ、華蓮」
いつの間にか振り向いていた佐奈に、このみっともない顔を見られてしまった。それが余計に恥ずかしくなってしまって、私は指を噛んで俯く。
彼女の女性らしさを認識してしまうと、私の中に押し隠していたモノがずるりと這い出て来ようとする。その感覚が、とてつもなく苦手だった。
「予定外だけど……まあ、早く来ちゃったし、やってみるか。よーし、華蓮、今日はこれで写真を撮ってみよう」
「……こ、こんな顔で……?」
「まあ、確かにあたしの撮りたい写真ではないけど……折角だしさ。今の華蓮だって、一般的な女子から見れば、恥ずかしがってカワイイ所を見せてる、って解釈も出来るかもしれないし」
「……えっと……」
これは新聞部の為の写真撮影では無い事はわかっている。そして佐奈が誰かに披露する為に私の写真を欲しているワケでもないと知っている。
だから、いつもなら喜んで写真に撮られていた。彼女の役に立てるなら、と。
だけど、何故か今日はそんな気分になれない。彼女だって、どこか不本意そうにカメラを構えている。
それもそのハズ。
彼女が欲しいのは、『幻想的な外見の女の子のモデル』なのだから。
普段の私は、佐奈にとって最高の被写体なのだとか。
自然な表情で笑む私の写真が欲しい、と定期的にねだられ、私は了承していた。
しかし今の私は――どうしても、自分が女だと思い込めなかった。
私は、佐奈の下着やはみ出たお尻の肉を見て、顔を赤らめてしまったのだ。
彼女の強い女性の香りが、今でも高鳴る鼓動に拍車をかけている。
唐突に与えられた女性らしさの象徴に、私は昂っていた。
当然と言えば、当然なのかもしれない。
私は――そう。
私は、佐奈と同じ様な、女の子ではないのだから。
いくら髪を伸ばしても、いくら女の子の格好をしようとも、いくら香りに気を遣おうとも。
決して、生まれ持った身体の性別を、超える事が出来なかった。
この学校関係者の中で唯一、佐奈のみが私の事を知っている。それでも気兼ねする事無く接してくれる彼女の恩に報いる為に、写真の協力を承諾している。
それが勅使河原華蓮と、花前佐奈の取引とも言える様な……とても歪な関係だった。
でも、今はその取引すらも放棄したい気分だった。
「……ごめんなさい、佐奈」
風に煽られるスカートも、伸ばした髪にすらも、私は違和感を覚えてしまっている。
いつもなら意識する事無く整えられるこの身なりが、どこかズレている様に感じて仕方がない。
今はこの、どこかちぐはぐな私を、カタチに残して欲しくない。
そう、思ってしまった。
その様子を悟っていたのか、佐奈は私が謝るのよりも先にデジカメをしまい、ひらひらと手を振っていた。
「ん。別に構いやせんよ。さあ、ちょっと早いけど、教室に行こう」
佐奈は私に問い詰める事無く、桜が舞い散る通りを後にする。
今日を逃せば、満開の花を背景に撮れる機会は無いかもしれないと言うのに、惜しむ事無く。
私は彼女の、そんな優しい所が――ずっと前から好きだ。
でも、何故だろう。
佐奈の事を考えれば考える程、私が私でなくなっていく様な、そんな感覚。
その想いの意味が分かる事はなく、桜の花びらを乗せた風が、私の頬を撫でて吹き去った。