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54階  作者: 微睡 ゆう
2/2

39階

最新式の洋式トイレに、胃の中のものを5回に分けて流した。

喉に突っ込んで汚れた手と口の周りトイレットペーパーで拭い、丸めて水に投げ込む。


リビングからかすかに美久の泣き声が聞こえる。

摩実が吐くための食材を過食をしていた時は床でおとなしく寝ていたのに、目覚めて母親の不在に気づいたのだ。

唇から舌打ちがもれ、立ち上がると足元のビールジョッキが倒れた。

無理やり吐くときには、たくさん水を飲む必要がある。

ほんの少し残っていた水が、床に広がり靴下にしみゆくのをぼんやりと眺める。


国内の全ての道の起点があるこの町で、ひときわ高い地上54階、地下3階の超高層ビル、ヒスイタワー。

商業利用されていない23階より上の階は、クリスタルパレス日本橋と名付けられた住居になっている。


そこの39階に、摩実の城はある。

2年前、勤めていた会社の役員だった夫との間に子供を授かり、新築であったのと39階=サンキューという語呂が2人で気に入り(感謝は大事)入籍してすぐに購入したものだ。

3LDK、価格は億単位。

にもかかわらず、募集開始から間もなく満室となった。


ものおじしない性格の摩実は、すでに同じフロアの住人とも親しく話すほどの間柄になっていた。


世帯主の主な職業は大企業の重役、開業医、外資系企業の駐在員など。

あるファミリー世帯のママに聞いたところによれば、専用エレベーターを使わなければならない50階以上はワンフロア一邸であり、オーナーは芸能関係者や海外の資産家なのだという。

摩実も数度、エレベーターで不自然に顔を隠す、洗練された身なりの住人と一緒になったことがある。

セキュリティの高さがウリなせいか、賃貸物件も多い下層部にはアイドルグループの少女などが住んでいるようだ。


トイレつづきの洗面所で、丁寧に手を洗い、口をゆすいだ。

長く交換していない手拭き用タオルで、水がこぼれたトイレの床をふく。

いつもの流れで、体重計に乗る。

25歳、152cm、34kg、体脂肪率14%。

まだまだ体脂肪率が、摩実の基準では高い。


夫は関西に本社のある、主にホテルへ向けた人材派遣会社の関東支社専務をつとめている。

ブライダルも扱う大型ホテルでは、披露宴の際にホテルのスタッフだけでは手が回らないため、配膳や雑用係を派遣アルバイトに委託することが多いのだ。


4年前東京に支社を開設する際、同時に新入社員を募集し、短大を卒業した摩実は一期生として入社し彼と出会った。


当時清治は家庭をもっていたが、若々しく華やかな見た目とリーダーシップで一回りも年下の女性社員たちの憧れの的となっていた(男性上司の分母が少ないせいもあったが)。

さらに、出身が大阪のせいもあってか飲みの席などで気を抜いた時に繰り出すコテコテの関西弁とオープンな当たりが、関東女子たちのハートをがっちりとつかんでいた。


幼い頃両親の離婚を経験していた摩実は、当初妻子のある彼にひかれつつも憧れだけにとどめておくことにした。

しかし入社2年目には摩実と同期で入社した女子社員との不倫がばれ、清治も離婚。

それならば、と猛烈なアタックで彼女を出し抜き、簡単に交際に至ることができた。

なぜならば摩実は彼女よりも美しく、清治が本来いちばんそそられるという小学生のような体型により近かったからだ。


身体の関係を持ってからは、清治は毎日摩実を抱いた。

わざと子供ものの下着を装着すれば、その日の行為はとても激しいものとなった。

そんなわけで、交際から2月とたたず、腹には清治の子供が出来た。


総額1000万を超える指輪。

下界を見下ろす最高の新居。

ドイツ製の高級外国車。

買い物は高級マーケット。

最愛の人との間に生まれた愛娘。

清治にとって3回目の結婚であることを考慮し、披露宴と新婚旅行をしなかったことだけが心残りだが記念日など事あるごとに、今まで摩実が自分では絶対に買うことのできなかった高価なものを与えてくれる。

妊娠を知った日からは、摩実は誰もが羨む生活を手に入れてきた。


ただ、清治の女性好きについては彼の口から聞かずとも、主に彼のさらに上司にあたる人間たちから散々聞かされてきた。

専業主婦の手本のように子育てに励み、栄養バランスの完璧な弁当まで持たせ、夜の相手もこなす好みの体型の14歳年下の美しい妻がいるとはいえ、その生まれ持った下半身のだらしなさを身体に思い出させぬため、極限まで自分を追い詰め細い身体でいなければならない。

夜のテクニックをインターネットの動画で仕入れることも怠らない(もちろん胸痛む小児性愛ものだ…)。


昼下がり、南向きほぼ全面ガラス張りのリビングには最高潮の日差しがさしこむ。

ゴールデンウィークすぎあたりからは電気代がはねあがる。常に微弱に冷房をかけていなければ暑くて仕方ないからだ。

赤ん坊のいる今年はなおさらだろう。

それでも闇夜に広がるネオンと東京タワーの素晴らしさ、夜明け前の朝もやに包まれた寝ぼけ眼の東京の美しいながめには変えられないものがある。

ぐずる美久を抱いてゆすりながら、レースカーテン越しに大都会を見下ろす。


39階。

摩実より高い位置に住む知人はいない。


49階までの共有エレベーターでも、摩実より美しく若く、さらに40階以上のボタンを押す女とは遭遇しなかった。

だから、ホールの奥にひっそりとある噂の50階以上へのエレベーターを待つ彼女見かけた時は、全身の血が逆流するような感覚を味わった。

かつて体感したことのない感覚。

硬さを失った地面を歩くようによろよろと進み出て、抱っこひもに両手に買い物袋という姿で思わず呼び止めた彼女は、摩実が待ち焦がれていた人だった。

持ち前の図々しさを発揮し、なかば強引に接触を持つことでその思いはすぐに確信へと変わった。


インターホンが鳴る。

モニターをちらと確認し、摩実は部屋の生活感を隠すことなくまっすぐ玄関へと向かう。

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