ユメノツヅキ/キヅツノメユ
その日は雨が降っていた。
駅前に呼び出されたオレはそこで彼女を待った。特に傘も差さないで待った。多分何を言われるのかは決まっていたし。
「あんたなんて最低よ!」
と、叫びながら駆け寄ってくると思い切り振り上げた手をオレの頬に向かって振り下ろした。
自分で言うのもあれだけど、かなりいい音がしたと思う。頬が冷たい空気と相まってピリピリと痛む。けれど表情は崩さない。
笑顔すら浮かべ彼女に手を伸ばす。その手を振り解き、女性は走り去っていった。多分オレの顔を殴りたくて呼びつけたんだろう。
心底うんざりだった。何とも面倒なことになった。溜息をついてUターンする。オレの住んでいるマンションは駅のすぐ近くにある。帰宅するのに十分とかからない。
暗証番号を入力しなければ開かないセキュリティの玄関を潜り抜けエレベーターに乗り込む。
ぽたぽたとカーペットに染み込んでいく水滴。全身びっしょりで髪からは定期的に水滴が零れ落ちている。
何ともいえない心境のまま自分の部屋に向かう。カードキーのロックを解除して中に入った。
一人暮らしするには広すぎる異常な規模の玄関に乱雑に靴を脱ぎ捨てる。自分で言うのもあれだけど洒落た内装のダイニングに入り、ソファに腰掛けた。
「はー・・・・ずぶ濡れだよ」
「ふうん?で、何だって?」
部屋はテーブル脇にあるスタンドライトのみで照らされていた。薄暗い部屋の中、灯りに照らされながら本を読んでいる女が一人。
家主であるオレが帰ってきたというのに挨拶一つしないどころかオレが冷蔵庫に入れておいたビールを勝手に飲んでいる有様だ。
盛大に溜息をついて女に歩み寄り読んでいるハードカバーを引っ手繰った。目を細め、不満を訴えかけてくる。
「一応、お前のせいでふられたんだけど、オレ」
そう、それもこれも全てはこいつがオレの部屋で寝ているのを見られたのが全ての発端だ。
だというのに当の本人はなんら気にもせず平然と笑っている。
「本気で付き合ってなかったくせによく言うよ。それよりねえ、それ返して。今いいところなの」
「返さないし、本気で付き合ってなかったわけじゃないし。あとおかえりなさいとか、それくらいは言え」
女は立ち上がってオレの手から本を強引に奪い返し、冷ややかな瞳で笑いかけてくる。顔と顔とが異常接近し、彼女の瞳しか見えなくなる。
吐息が頬にかかる距離。爪先立ちでオレの身長にあわせ彼女はわざわざ息を吹きかけていた。恐らくわざとだと思われる。
「自分に嘘をつくのが好きだねクレイ。僕にそんなこと言っても無駄だって判ってるくせに。そんなこと、言われたくないって思ってるくせに」
テーブルの上に転がっていた眼鏡をケースに閉まって背を向ける。全体的に短いくせにそこだけ妙にながいもみあげがくるりと風に揺れる。
ソファにかかっていた紺のレザージャケットを羽織ってグローブを装着。床に転がっていたヘルメットを拾い上げて玄関へ向かっていく。
「どこ行くんだ?」
「コンビニ。傷心なんでしょ?クレイの元気が出るようにお酒買ってきてあげる」
「自分が飲みたいだけだろ」
「そんな事無いよ。こう見えてもね、結構尽くすタイプなんだ、僕」
ヒラヒラと手を振って去っていく。あれがあいつの性格なので今更とやかく言うことでもないし、言うほど不愉快でもない。
ソファに身を沈めた。このままだと風邪を引きそうだったのでしばらくそうしてぼんやりした後、シャワーを浴びに浴室に向かった。
服を直接洗濯機に突っ込んで蛇口をひねる。ユニットバスとは言えちょっとした広さのそこで浴びるシャワーは当然悪くはない。
髪を結んでいた女物のリボンを解いてシャワーを浴びる。長い長い髪が視界を遮り、少々不愉快だ。
そろそろ切ったほうがいいと思い続けて早半年。いつになったら髪を切る日が来るのだろうか。些か疑問になってきた。
「ま、別に困ってないからいいけど」
ユメノツヅキ/キヅツノメユ
Side:RED
オレ、赤井クレイがこのマンションに住み始めたのは今から一年ほど前のことだ。
それまではここよりも何段階も降下したランクの場所に住んでいたのだが、見知らぬ女性にマンションを買ってもらったのでそこに転居したというわけである。
判りやすく言うとオレはホストで、序に言うと結構な人気者で。勿論女性にもモテモテで至れり尽くせりで。
お金を貰う方法もモノを貰う方法も客から金を搾り取る方法もそれなりに手に馴染んできて、プレゼントも増えてきて。
まあそんなわけで金にも生活にも困っていない。女性関係のいざこざは絶えた事がないけれど、毎日続いているとそれも慣れてしまう。
今は仕事は休み。丸半月ほど休みを貰った。今までろくに休みがなかったし、まあなんとなく仕事もしたくなくなってきたのが理由としてあげられる。
現在は高級マンションで二人暮し。いや、1.5人暮らし。同居している女はこの部屋にいたりいなかったりする風来坊だからだ。
シャワーを浴びて髪をバスタオルでがしがし拭いてとりあえずパンツとズボンだけ穿いて脱衣所を出る。着替えを用意していなかった。
廊下に出たところでばったり帰宅してきたあいつと遭遇した。上半身裸のオレを見ても全く動揺する気配は無い。
「シャワー浴びてたんだ」
「ああ・・・・それで、何買って来たわけ」
「うん、カップラーメン」
酒っていってなかったっけか。しかもオレのためとかなんとかいってなかったっけか。
意気揚々とダイニングに去っていく後姿を呼び止める事もしかりつける事もしなかった。そんなことはハッキリ言って無駄だから。
彼女の名前はユカリ。紫と書いてゆかりと読むと彼女は自慢げに語っていたが何がすごいのかはよくわからない。
いつも寝ぼけているのか全てを見透かしているのかよくわからない目をしている。そしてやる事なすこと取りとめが無い。
幻影のような存在。そして我が家の居候。もう彼女と暮らし始めて二年になる。絶対的な正体不明。
年齢不詳。苗字不詳。職業不詳。経歴不詳。ただ一つハッキリしているのは、ユカリという名前と、一人称が僕だということだけだ。
オレにとって彼女はそんな情報が全てであり、それ以上のことは必要ない。とにかく彼女はかわいい女の子で、ユカリというだけのこと。
問題はその変わった性格であり、彼女でも妻でもないくせに平然と男の部屋に寝泊りしていることなのだが。
テーブルの上にカップラーメンを並べてお湯を注いでいる姿を何となく眺めていると視線に気づいた彼女が顔を上げた。
「なあに?もしかして惚れた?」
「それはない」
「ひどいな。全否定はないんじゃない?これでも結構カワイイっていう自覚はあるんだけどな」
「カワイイ女の子なんて世の中案外有り触れてるよ。お前みたいな変なのと比べれば大分マシそうなのがゴロゴロね」
「僕とんこつね。クレイは塩でいいんでしょ」
「聞けよ・・・」
彼女の中でその話題はもう終わっていた。オレは溜息をついてそれに従う。
カップラーメンが出来上がるのを待ちながら彼女は本を読んでいた。コンタクトレンズを外したのか、今はスタイリッシュなデザインの眼鏡をかけている。
暖房の温度をより高くしてオレはテレビのリモコンを手にした。深夜の番組はどれも面白いのかつまらないのかよくわからないが、無音よりはいくらか気休めになる。
全く面白くないお笑い芸人たちが漫才を披露している番組を眺めていると、ユカリは割り箸を割りながら言った。
「ねえ、賭けない?」
ユカリの口癖だった。
ユカリはとんでもないギャンブラーで、事あるごとにオレに賭けを持ち込んでくる。
「いいぞ。ルールと賭け品は?」
「今日はそうだなあ・・・・じゃあ、キス。キス賭けよう」
「・・・・・・・・・・内容は?」
呆れながら箸を割った。ノリノリで話を進めるユカリ。こういう話をしている時だけは本当に無邪気に楽しそうに笑う。
「早食いでどう?勝ったほうが相手にキス出来る。勿論、拒否したいならしてもいい。無論勝ったなら、だけど」
「開始の合図は?」
「あのコントが終わったら」
無言でカップのふたを外して両手を合わせた。最初からそのつもりだったのか、オレたちの前に並んだ二つのラーメンは同じサイズ。味は違えと同じラーメンだった。
二人して無言で箸を片手にTVを眺める奇妙な図が続く。コントが終了し、採点結果が表示されると同時にオレたちはラーメンを口に運んだ。
黙ってひたすらにラーメンを食う。何とも奇妙な映像だった。しかしそんなこと気にしている場合ではない。
気合を入れて食う。結果は見えていた。何せユカリは小食であり、結局早く食べるどころか食べきらずギブアップしたからだ。
その結果は見えていた。確かにユカリはギャンブラーだったが、自分が勝てる賭けはしないというとんでもなく愚かな主義を掲げていたから。
今まで幾度となくこいつと勝負してきたが、オレが負けた回数なんて数えるほどしかない。容赦なくスープまで飲み干して空になった容器をゴミ箱に投げ込んだ。
「・・・・・・・何してんだ?」
「キス待ち」
目を閉じてにこにこしている。呆れた。一体何がしたかったのやら。
完全に無視して立ち上がった。もうなんだか起きているのも面倒になったので寝ることにした。時間はとっくに日付を変えている。
寝室に向かって歩き始めるとその後ろをぴったりとユカリがついてきた。振り返るとユカリはそれが当然であるようにオレの手を取って笑う。
「今日は一緒に寝ない?」
「・・・・・・・・・・」
額を抑えた。こいつの相手をするのは疲れる。一々真面目にやっていたら身が持たない。
だからオレは言った。『勝手にしろ』と。
「じゃあ、勝手にするね」
寝室にはシングルベッドが一つだけ。普段はユカリはダイニングのソファで寝ているのでベッドは必要ない。
そう、普段から一緒に寝ているわけではない。着替えるのも面倒だったので外出用の格好のままベッドに入った。とりあえず上着だけ脱いで床に放置する。
ユカリは枕を半分奪って仰向けに寝転んだ。オレはもう全然気にせず寝る。いちいち気にしていたら身が持たないから。
「ねえ、手、握っててもいい?」
溜息をつくのも面倒だった。反応するのも馬鹿馬鹿しい。だからオレは無言でその手を取った。
ユカリはきっと笑っているだろう。薄っすらと微笑を浮かべて、静かに天井を見つめているだろう。
その瞼がゆっくりと閉じて、静かに呼吸を抑えて眠るだろう。そんな姿が目に浮かぶようだった。
本当に眠かったのは事実であり、だからオレは目を閉じて冷たい手を握っていた。
殴られた頬の痛みも、最低だといわれた事も、何もかもその頃には忘れてしまっていた。
ユメを見る。
子供の頃から何度も何度も繰り返し見る。
そのユメの主人公は小さな少女だった。本当に小さな、小さな少女だ。十歳くらいだろうか。
ユメの中の少女はいつもドレスを着用していた。いついかなるときもドレス。そしてそのユメの中の少女はいつも部屋に閉じ込められていた。
薄暗い洋館の一室。そこで少女は手足を鎖で拘束されていた。それが当たり前の日々だった。少女は涙も長さなった。
毎日毎日少女は目隠しをされ、両手足を拘束されていた。週末になると呼び出され、メイドに連れられて食卓に向かう。
広い広い食卓には仮面を被った正装の男女がずらりと並んでいて、彼らは拍手で少女を迎え入れる。
食卓に並んだ数え切れない高級な料理によだれが溢れそうになるほど少女は空腹だった。それも我慢して頭を下げる。
少女の身体はいつも包帯だらけだった。いつも怪我をしていた。マイクの前に立って歌う。
食事が始まった。食事が始まっても少女は歌い続ける。芸を繰り返し客を楽しませる。仮面の人々はソレを見て楽しそうに笑う。
少女はただ歌う。ずっとずっと歌う。休むことは許されない。汗を零し、ひたすらに踊る。
やがてメイドに再び両手足を拘束される。両手を後ろで縛られ、即席で用意された寝台の上に寝かされる。
寝かされると、客はそれぞれ代金を支払う。テーブルの上に並んでいく札束の山。少女は目隠しをされる。
足音が近づいてくる。それから良くわからないけど刃物の気配。そうして少女は・・・・。
「・・・・・・・・・・」
そこでいつも目を覚ます。それから先のことも、それまでの事も何もわからないまま。
うなされていたかもしれない。額の汗を拭って再びベッドにもぐった。とてもじゃないが目覚めたい気分ではなかった。
何度も深呼吸をする。見慣れているはずのユメなのにどうしても忘れることが出来ない。いちいち気にして憂鬱な気分になるのもそろそろ言い加減にしなければならないだろうと思う。
目を覚ませば隣で寝ていたはずのユカリの姿はなかった。いつもどおりだ。あいつはきっとオレより早く目覚めてとっととどこかへ行ってしまう。
毎日毎日どこで何をしているのやらさっぱりだが、とにかくあいつはどこかへいった。けれど枕に微かに残る自分のものではないシャンプーの香りが彼女の存在が幻ではなく現実なのだと物語っていた。
朝食を早々に済ませて部屋を出ようとした時だった。備え付けの電話がやかましく鳴り始める。仕方なく靴を脱いでダイニングに戻る。
「はい、赤井ですけど」
電話に出たというのに反応は返ってこなかった。何分も待ってみたが返事が来る様子は無い。
オレは黙って電話を切った。これでも人に恨まれている回数だけは自信がある。誰かのいやがらせだとしてもなんら問題はない。
どうせ仕事で使うのは携帯電話なのだから、備え付けの電話回線は引っこ抜いた。これで気持ちよく外出できるだろう。
外出したところで何をするというわけでもない。歩きながら髪をリボンで縛っていく。
容姿も妙に中性的なオレは髪を縛っているとよく女に間違えられる。それだけ自分の顔がいいというわけなのだが、女に間違えられるというのはあまりいい気はしない。しないというのに何故かわざわざ髪を女物のリボンで結ぶのだから自分でもよくわからない。
オレが住んでいる町ははっきり言って田舎だ。都会にくらべればずっと田舎。ただ何もなわけではなくて、多少はにぎわっているところもあるというだけ。
そのにぎわっている部分に住んでいるというだけで、少し歩けばだんだんと町並みは閑散としてくる。しかしそれなりにこの街がオレは好きだった。
一体じゃあ何が好きなんだと言われると答えに詰まるのだが、まあとにかくこの町は好きだった。そのことは理解してもらいたい。
だから仮に、オフィス街を歩いていたら唐突に頭上から人が落下してきたとしても。
オレは驚く事も無く、この街から去ることもない。
「・・・・・・・・・・・・・・・ん?」
悲鳴が上がった。女性のものだった。オレの進行方向、歩道のど真ん中、他にもたくさんの通行人が居る場所に、人が、人間が落ちてきた。
それは目の前でつぶれたトマトみたいにはじけ飛んで何か中身をぶちまけていた。それは少女だった。高校の制服を着ている、女子高生だった。
何が起きたのかいまいち理解出来ない。頬についている飛んできた血を親指でなぞって指先で擦り合わせてみる。
「・・・・・何だ?」
頭上を見上げた。そこには誰も居ない。無論、居る方がおかしいのだが。
見上げた空には大きなビルが建っていた。当然オフィス。しかし現在は何の意味も持たずテナント募集中の。
誰もいないビルから少女は飛び降り、オレの目の前でトマトになった。人間だったはずの何かは、今は人間ではない何かになった。
その落下してくる少女はオレを見ていたような気がした。だって、落ちてくる瞬間、目の前ではじける直前、目があった気がしたから。
周囲は騒然となった。すぐに大騒ぎになる。オレはその醜い死体を、四肢がおかしな方向へ向いてしまっている頭がはじけた死体を見下ろした。
哀れだと思った。それは死んでしまったからではない。こんな風に醜い状態になってしまったことがあわれだった。
彼女もまた少女であり人間であったのならば生きている間はそこそこお洒落に気を使ったりする普通の学生だったんだろうと何となく思う。これが自殺だったとしても、その死の直前まで彼女は普通の人間だったはずだ。
それが死んで、きれいだったものから汚い何かに成り下がった瞬間を見て、オレはそれを哀れだと思ったのだ。
隣を通り過ぎる。別にオレは関係ないのだから構わないだろう。誰かに呼び止められた気もしたが振り返らなかった。
指先についた血。ポケットの中で何度か擦り合わせて、それから何か妙だと思った。その理由にはすぐに気づいて、少しだけ振り返った。
「血・・・冷たかったな」
驚くわけでもなく。恐れるわけでもなく。ただ単調にそう思った。
その時思考を過ぎったその疑問がオレの全てを捻じ曲げていくとは、全く予想もしないままに。
それが全ての始まりだとは、全く予想もしないままに。