93話 いってらっしゃいませ
わたしの後に続いて、灰猫とモニカが窓から飛び降りた。
二階の高さからだったが、演技のために修練を重ねているわたしからすれば、造作もないことだ。
わたしは危なげなく地面に降り立つ。
「し、死ぬかと思いました……」
モニカも無事に着地したというのに、青い顔で蹲りながら胸を押さえた。
「マリー直々に鍛えられているのに、小心者ね」
「へえ、それは興味あるな。ねえ、モニカちゃん。俺と一戦交えてみる?」
「断固拒否します!」
からかうわたしと灰猫に、モニカは顔を真っ赤にさせた。
和やかに話すのも程々にして、わたしは走り出した。
使用人たちの声は遠くから聞こえるが、まだわたしたちを見つけてはいないようだ。
しかし、安心はできない。
物置小屋の近くや木々の影など、なるべく一目につかないように慎重に行動する。
「この後、どうするの? 正門からは離れているみたいだけど。裏口とかあるのかな?」
訝しんだ灰猫がわたしに問いかける。
するとモニカが、うーんと唸りながら続けた。
「業者や使用人専用の出入り口は、ジュリアンナ様が捕らえている時から警備は厳しかったですよ」
「今回は今までと違って、使用人たちの隙を見て逃げ出す訳じゃないから、裏口に回っても捕まるだけでしょうね」
「それって、かなり難しい状況にいるってことですか!?」
モニカは目を大きく見開き、驚愕の表情を浮かべる。
「でも、俺が警備している使用人を倒せばいいんじゃないの?」
「ルイス家の使用人たちを嘗めないで欲しいわ。貴方の戦い方はもう知られている。対策を練ってくるでしょうね。その状態で大勢を相手に、わたしとモニカを連れながら脱出できるほどの技量と熱意が、灰猫にあるのかしら?」
「あははっ、どっちもないねー。俺、本職は暗殺者だしぃ」
灰猫は歌うように言った。
それを聞いてモニカは眉を釣り上げる。どうやら適当な灰猫の態度が、真面目なモニカは気に入らないらしい。
「軽いですよ!」
そうモニカが言ったが、灰猫は面倒だと思ったのか無視をして、わたしを見るとこてんと首を傾げた。
モニカは益々腹が立ったようで、「この軽薄軟派男!」と罵っている。
「それなら、お嬢様はどうするの?」
名前の通り、猫のように灰猫は気まぐれだ。
(……先が思いやられるわ)
一応、エドワード様に会うまでは協力してくれるようだが、いつ気まぐれにいなくなるか分からない。
わたしは小さく溜息を吐くと、目的地へと目を向ける。
「王宮まで向かう足を確保し、グレースたちが攻撃できないようにしながら、正面突破するわ」
見えてきたのは、ルイス家の厩舎。そこには十数頭の馬と数台の馬車がある。
あれらを強奪し、ルイス家を出て一気に王宮まで向かうのが、わたしの計画だ。
「……いいときに来たわね。馬車が準備されているわ」
「へえ、考えたね」
厩舎にあったのは、買い付け用の馬車ではなく、ルイス家の紋章があしらわれた二頭立て馬車だった。
御者や他の使用人たちの姿は見えない。
怪しい……怪しすぎる。しかし、この馬車を利用しないのはあまりにも勿体ないため、わたしたちは警戒を強めつつ近づいた。
案の定、わたしが近づいた途端、厩舎から使用人が数名出てきた。
厩舎を任されている使用人たちのようで、手に武器は持っていない。どうやら、わたしたちが現れるのは想定外だったようだ。
「ジュリアンナお嬢様、お戯れはもう……お止めください」
年嵩の使用人が代表して、わたしへ苦言を呈す。
それは心からわたしを思って言っているようだったが、もはや止める気はない。
「戯れじゃなくて、本気よ。ごめんね」
「だってさ。失礼しまーす」
わたしが目で合図したのと同時に灰猫が動く。
彼は獰猛な笑みを浮かべると、あっという間に使用人たちを縄で縛りあげる。
僅かに罪悪感が胸を刺激するが、わたしは気にしない振りをした。
「馬車が準備されているなんて……ジュリアンナ様が逃げ出したことを、旦那様に報告するつもりだったのでしょうか?」
「何にせよ、都合がいいわ」
馬車に細工がないか確認すると、わたしは扉を開けた。
すると、馬車を強奪しようとするわたしたちに気がついたのか、複数の足音が近づいてくる。
「……もう気がついたのね。モニカ、灰猫、乗って! 急ぐわよ」
わたしは御者台に乗り込むと、手綱を操り、馬を走らせる。
「御者なら私が……」
馬車に乗り込んだモニカが扉を開けたまま、おずおずと申し出た。
もう馬車はかなりの速度を出しているし、途中で御者を変えるには一度止まらなくてはならない。そんなことをすれば、すぐにグレースたち捕まってしまう。
そして何より……。
「わたしがやることに意味があるのよ」
馬車は慣れた敷地を順調に走り、庭を抜けて正門を目指す。
途中、使用人たちが目に入ったが、彼らは一切攻撃をしてこない。
それもそのはずだ。
動く馬車に衝撃を与えて、脱輪したり、馬が錯乱したりしたら大変だ。
まして、御者は無防備で一番深い怪我を負うに違いない。
だから、彼らは攻撃できない。
わたしを害することは絶対にしない。その信頼につけ込んだのだ。
(……卑怯だったかしら)
そう思いつつ、正門を抜けから後ろを振り返った。
使用人たちは整列し、こちらへ深々と頭を下げている。
その姿は、普段わたしが出かける時の見送りの風景と同じで、酷く泣きたい気分になった。
彼らは父に絶対的に従う敵ではなく、わたしの味方でもあったのだ――――
#
王宮へと向かう途中、追っ手が来ないことを確認し、わたしはモニカと場所を交換した。
馬車は順調に王都を抜け、城壁近くまで進んだ。
ディアギレフ帝国と緊張状態にあるためか、そこでは検問が敷かれていて、馬車の列ができている。
「……面倒ね」
わたしがそう呟くと、灰猫が悪戯を思いついた子どものように、にんまりと笑みを浮かべる。
「このままじゃ捕まっちゃうかもねー。ああ、良いこと思いついた!」
「え? はっ……ちょっと!」
「ジュリアンナ様!」
気がついたときには、わたしは灰猫に抱き上げられていた。
そしてあろう事か彼はそのまま外へ出ると検問する騎士の隙を見て、城壁に備え付けられたを雨樋に足を引っかけながら、軽い身のこなしで登っていく。
城壁を越え、庭園の隅へすとんと音もなく着地する。
わたしは暴れて灰猫の拘束から逃れると、彼の胸ぐらを掴んだ。
「灰猫! 何してくれてるのよ!」
「ええー、王宮に潜入できたのにー」
「わたしがなんのために、ルイス家の紋章が付いた馬車を使ったと思っているの! 門の検問があった場合、穏便に突破するためよ!」
「いいじゃん。侵入できたんだし」
灰猫は反省する様子もなく、口を尖らせた。
わたしは額に手を当てながら、深く溜息を吐く。
「わたしは堂々とルイス侯爵令嬢の身分で入りたかったのよ。これでは、不法侵入した賊と変わりないわ」
「でも、ルイス侯爵令嬢じゃなくて、ただのジュリアンナとして来たんだろ? それなら、この入り方で問題ないじゃん。正式な手順を踏んだからって、王子様が会ってくれるかも分からないし」
「……屁理屈よ。まったく、モニカともはぐれてしまったし、どうしたら……」
わたしがこれからどうするべきか考えていると、少し離れた場所から男性の足音と、擦れるような小さな金属音が聞こえる。
「……見回りの騎士かしら? もう感づかれたのね」
自分のあまりの運のなさに舌打ちしたい気分だ。
「俺一人なら、気配を察知されることなんてないのになー。お嬢様が足手纏いだからー」
「黙りなさい、馬鹿猫!」
わたしは小さく怒りの声を上げたが、どうやら地獄耳らしい見回りの騎士は感じ取ったらしい。
足音がどんどんこちらへと向かってくる。
(どこかに隠れなきゃ!)
辺りを見渡し、漸く隠れられそうな生垣を見つけた。
そこへ走りだそうとするが、それよりも先に見回りの騎士がわたしたちを見つけてしまう。
「お前たち、何をしてい――」
見回りの騎士は紺色の瞳を大きく見開き、呆然とわたしを見る。
「……ジュリアンナ様が何故ここに……」
(この人はわたしを知っている……?)
彼と夜会で踊ったことがあっただろうか。
わたしは失礼になることも構わず、ジッと見回りの騎士を見つめる。
そして、漸く彼の正体に気がつく。
最後に会ったとき、彼は拷問を受けてボロボロの状態だった。
だから、騎士服を着た彼に気づくのが遅れてしまった。
「久しぶりね、アルフレッド」
彼の名はアルフレッド・マーシャル。
教会派に囚われた妹を救うために、王都教会へ単身で乗り込んだ勇敢な騎士。
そして、わたしと復讐を共に遂げた者である。