88話 陥落する心
セラディウス公爵家の襲撃から一週間が経った。
レオノーレが死んだ後、ローランズ使節団はエドワード様の命令により、サモルタの王宮へと隠し通路を使って潜入した。
王宮ではレオノーレの仲間が奇襲をかけ、軍の一部がそれに追随していた。しかし、王の住まう場所の守りは堅く、攻めあぐねていた所にローランズ使節団が逆に奇襲をかけ形勢を大きくサモルタ王側へと傾けたのだ。
(……わたしは伝え聞いただけだけれど)
さすがに侯爵令嬢のわたしが他国の王に加勢する訳にもいかず、リスターシャ王女と共にセラディウス公爵家でエドワード様たちの帰りを待っていたのだ。
サモルタ王もリスターシャ王女も無事、ローランズ使節団も死人は出ていない。国王側と争っていたダムマイヤー伯爵側は旗頭のアーダルベルト王太子を失い、レオノーレと共に自壊した。
貿易条約は両国にとって利のあるものとなり、今回の一件でサモルタ王国に大きな貸しをつくることができ、最良の結末を迎えることができたと言えるだろう。
「……それなのに、この胸の奥がもやもやするのは……何故かしらね」
眠れぬ夜が続く。月はずっと高い場所にあるというのに、わたしの目は冴え渡り、逆に頭の中はぐるぐると思考が巡り痛みを訴えている。
「……気分転換に散歩でもしようかしら。今なら起きている人は殆どいないでしょうし」
与えられた客室から忍び足で抜け出す。そしてフラフラと外を歩きながら彷徨っていると、セラディウス公爵家の敷地内にある、古いレンガ造りの小さな時計塔が見えた。
わたしは吸い寄せられるように時計塔へと足を向ける。
「時計塔の中なんて、初めて入ったわ」
内部は僅かに油の匂いが広がり、大小様々な形の歯車が絶えず動く。逆向きに時計盤が見えるのも新鮮で、わたしの心は好奇心に満たされる。
「……悩みなんて、吹き飛べばいいのに」
どれほど心を躍らせようと、胸の奥で疼く感情がある。
それは恐怖。
レオノーレの仲間たちは自分たちの不利を悟ると、彼女と同じように笑いながら自ら命を絶ったという。
「……わたしは本当に王族になれるの……?」
レオノーレたちは幼少期から洗脳を施されて送られてきた、ディアギレフ帝国の刺客だろう。残忍で無垢。被害者で加害者。そんな歪な彼女たちを作り上げて利用する帝国は、とても恐ろしい存在だ。
そんな帝国の悪意を一身に受けることになるのは王族である。今回の訪問で、エドワード様やリスターシャ王女が生まれながらにそれを背負っていることを初めて知った。
「侯爵令嬢のわたしに、それを背負いきれるの……?」
エドワード様の妃になれば、わたしはディアギレフ帝国の悪意と戦うことになる。それはとても恐ろしい。けれどわたしの中に流れる愛国者の血は、戦うべきだと言っている。マクミラン公爵家へ復讐を誓ったときのように、命をかけるべきだと。
しかし今一歩、わたしの心が躊躇していた。
「……綺麗な星空」
時計塔の一番上まで上ると、窓越しに満天の星が広がっていた。
肌寒さに震えながら、星空に魅入られていると、ふわりと暖かなブランケットが肩にかけられた。次いで耳元に低く甘い声が囁かれる。
「ああ、そうだな。しかし、お前の美しさの前では星さえも霞む」
「……エドワード様……?」
見上げれば、エドワード様の顔が間近にあった。就寝前だったのか、セットされていない髪はいつもより無造作で少しだけ幼く見える。
わたしは少し気まずく思い、ぷいっとエドワード様から顔を逸らす。
「なんですか、その恥ずかしい口説き文句は」
「やはり、柄ではなかったか? 使い古された言葉ではジュリアンナには響かないか。せっかく、夜の散歩に出かけるジュリアンナを捕まえることができたのだ、他の策を考えるか……」
「ふふっ、貴方という人は」
「笑ったな」
エドワード様はそう言うと、ぽんっと優しくわたしの頭に手を置いた。
気恥ずかしさと申し訳なさで、わたしは自然と俯いてしまう。
「……気遣わせてしまいましたね。侯爵令嬢にあるまじき失態です」
エドワード様は、わたしが悩んでいることを気づいていたのだろう。
彼の観察眼が憎らしいのと同時に、ふわふわと温かな感情が胸に渦巻く。
「お前は俺の妃となるのだからいいだろう? 夫婦とは支え合うものだ」
「まだ、わたしはエドワード様の婚約者でしかありませんよ?」
「ならば、今ここで誓おうか?」
「……健やかなる時も?」
冗談めいた顔でそう言えば、エドワード様は熱を帯びた空の双眸でわたしを捕らえ、誓約条文の続きを口ずさむ。
「病める時も」
「よ、喜びの時も……」
エドワード様の気迫に負け、わたしも続きの条文を口にする。
ここは神聖な教会でもない。誓約を見届ける神父も招待客もいない。ただのお遊び。それなのに、泣きたいぐらいに心の奥に言葉が刻まれていく。
「悲しみの時も」
「富める時も」
「貧しい時も」
いつしかわたしも求めるように、自らの望んでエドワード様へ言葉を投げかける。
「これを愛し、これを敬い」
「これを慰め、これを助け」
いつの間にかブランケットは床に落ち、エドワード様の手がわたしの両肩に触れている。
するとまた温かな感情が胸の奥で苦しいぐらいに疼き始めた。
「死がエドワード様とわたしを分かつまで、愛し慈しみ貞節を守ることを誓いましょう」
「命ある限りジュリアンナを愛し、真心を尽くすことを誓おう」
視線が交差する。艶めいた雰囲気を感じ、わたしは自然と瞼を閉じた。
次いで額に柔らかな感触がしたかと思うと、すぐにそれは離れていく。
「……まあ、お前の言う通りまだ婚約だからな。こちらのキスで勘弁してやろう」
「……そう、ですね」
(……って、どうして物足りないなんて思っているの!?)
てっきり唇に触れると思っていた感触は、額に落とされた。期待していた、満足できなかった。それはおろか、未婚の令嬢だというのにすんなりと男性にキスを許してしまった。これは侯爵令嬢として、絶対にしてはいけないことのはずなのに……!
(……いいえ、本当は分かっている。親愛以外のキスをして欲しいなんて思うということは……)
「どうしたんだ、ジュリアンナ」
エドワード様は無言になったわたしの顔を、心配そうにのぞき込んでいる。
年下の女の子にポーカーでイカサマをするような腹黒で、侯爵令嬢を使えそうだからと手駒にするような鬼畜、わたしがこの世に生まれ落ちる理由になった人で、作られた運命の糸で結ばれた婚約者。そんな彼に……わたしは……
(……わたしは、恋に落ちてしまった)
知らず芽生え花開いた思いを自覚してしまえば、世界はガラリと変わる。
しかし、わたしは気づいていた。恋を知ってしまったのは、エドワード様の策略だ。
愛に飢えたわたしへ先手を打つようにプロポーズをし、優しさを見せ、わたしが彼にとって特別な存在であると愛を示してきた。それは気づかないうちにわたしの心にある氷を溶かし、染みこんで、やがて浸食していった。
「……エドワード様は本当に鬼畜腹黒王子ですね」
わたしは忌々しげにエドワード様を睨み付けてしまう。
「嫌みを言う元気が出たなら安心だ」
彼は変わりない笑みをわたしへ向ける。
そのことに安心するのと同時に、彼に優しくできない自分に腹が立つ。矛盾した、論理的ではない感情。わたしはそれを持て余し、扱いきれずにいる。
「最初から落ち込んでなんていません。……明日はリスターシャ王女の戴冠式と条約の調印式があるのですから、早く身体を休めてくださいませ。エドワード第二王子殿下」
演技の仮面を被り、わたしは完璧に『いつもの可愛げのないジュリアンナ』を咄嗟に演じてしまう。
本当は今すぐにこの恋心を打ち明けたかった。でも、勇気がでない。リリアンヌのように素直に甘えられるような女の子であれば、こんな面倒なことにはならなかったに違いない。
「真面目だな。マリーが離れた場所から護衛しているんだろうが、ジュリアンナも早く部屋に戻れ。夜は危ないからな」
「キスをした貴方がそれを言いますか?」
「違いない。一人でいるのもほどほどにな。ではジュリアンナ、良い夢を」
エドワード様はヒラヒラと手を振りながら、時計塔の階段を降りていく。
わたしは彼の姿が見えなくなると、がっくりと膝をつき、真っ赤になった顔を隠すようにブランケットへ包まった。
「……ああ、なんてこと……一生覚めない恋教えてくださいと言ったけど、こんなに早く知るなんて思いもしなかったわ。馬鹿……アホ……腹黒……鬼畜……無駄に優秀なんだから」
悩み事なんて吹き飛んでしまった。
何故なら、わたしにとって恋とは命を賭けるに値するものだから――――