86話 帝国の刺客
暖炉から引き上げたリスターシャ王女は髪と肌が煤や粉塵に塗れ、蜘蛛の巣が絡みついていて酷く汚れていた。ドレスも所々引き裂かれており、尋常じゃない事態であると一目で察せられる。
しかし、彼女は取り乱すこともなく悠然と淑女の礼をとり、エドワード様と正面から向き合い、意志の強い紅と紫の双眸を輝かせていた。
(……まるで、出会ったときと別人だわ)
シャンと背を伸ばした威風ある立ち姿はリスタ王子を連想させるが、所作は女性的だ。いったい、この短期間の間に何が彼女を変えたのだろうか。
「……リスターシャ王女殿下なのか……?」
私たちの疑問を代弁するように、コンラートが困惑した表情で問いかける。
リスターシャ王女は、涙を堪えた顔で薄く微笑んだ。
「ええ、コンラート。わたくしはリスタではなく、リスターシャよ」
「何故、リスタ殿下のことを!?」
「……リスタが消えたから。わたくしは彼の記憶と経験を受け継いだ」
「リスタ殿下が消えた……?」
リスタ王子は何かに焦っていた。それはもしや、自分の残り少ない寿命についてだったのではないだろうか?
「……どうしようもなかったの。彼は消えることを拒み、消えることを望んでいたの。わたくしにできることは、リスタの意思を次ぐこと。だから、コンラート。忠誠を誓えなんて言わない。わたくしと一緒にリスタの望みを叶えて」
コンラートはリスターシャ王女に答えることなく、きつく拳を握り俯いた。
唯一と崇めていた主の死を急に告げられた彼の心の中を、推し量ることはできない。そして、決断を遅らせる時間もまた、与えることはできないだろう。
「……エドワード様。火急のお話があるようですが、淑女として最低限の身だしなみは整える時間をください。……マリー」
「はい、お嬢様」
今のままの格好でリスターシャ王女をいさせることは、淑女として許せないことだ。だが完全に身を清める時間もないため、わたしはリスターシャ王女に張り付いた蜘蛛の巣を払うと、ストールを羽織らせ、顔を濡れたタオルで優しく拭いた。
「ありがとうございます」
リスターシャ王女は控えめにわたしへお礼を言うと、エドワード様の向かいへと腰を下ろす。
エドワード様は今までリスターシャ王女に見せていた『理想の王子様』の仮面を脱ぎ捨て、足を組み彼女を見極めるように目を細めた。
「して、リスターシャ王女。サモルタの王宮に賊が侵入しているとのことですが、それは事実ですか?」
「事実です。賊の正体までは分かりませんが……」
リスターシャ王女は一瞬顔を強ばらせたが、すぐに揺れる瞳でエドワード様を見上げた。
エドワード様は面白いとばかりに口角を上げる。
「そして貴女は自身のことを王の名代と言い、俺に助力を求めた。王の名を語ることがどれほど重いことか理解なされているか?」
「無論です。わたくしは……サモルタ王国次期女王。この身に流れる血と命、そして言の葉がすべて国のものとなることは、魂に刻まれております」
「よろしい。サモルタ王国次期女王、リスターシャ王女殿下の詳しい話を聞こうじゃないか」
リスタの魂が弱まり自分と融合したこと、サモルタ王と面会して次期女王になることを決意したこと、賊が王宮に侵入して王の命令で隠し通路を使って逃げてここにたどり着いたことをリスターシャ王女は順に話していった。
(……やはり、賊の正体はディアギレフ帝国かしら?)
ちらりとコンラートを見れば、リスターシャ王女の後ろでヴィンセントに羽交い締めにされ、口元をリリアンヌに押さえつけられていた。
彼には先ほどレオノーレがディアギレフ帝国と繋がりがあることを教えてしまった。それをリスターシャ王女に話されてしまうのは、今はこちらにとって都合が悪いのだ。
「貴女が我らに求めることは?」
「どうか、王宮へ加勢に来ていただきたいのです」
「賊の人数も、素性も分からないのに、ローランズの力を借りたいと?」
エドワード様は不快そうに眉根を寄せる。
しかし、それは演技だ。ローランズ王国や自分にとって最良の結末を迎えるための布石。
「無理を言っているのは承知しています。しかし、王と王宮を守る可能性が上がるのであれば、わたくしはローランズの助力を願います」
「見返りは? 大事な俺の手駒たちを動かすんだ、そちらには相応の対価をお支払いいただきたい」
(本当に……わたしの婚約者は鬼畜腹黒王子様ね)
攻撃の手を緩めないエドワード様に半ば呆れつつ、交渉の行く末を見守る。
「……貿易交渉の内容を、できるだけローランズ王国の要望に添ったものにいたします」
「そんなものはいらない。貿易交渉は、実力でサイラスと俺が成果をもぎ取る。ローランズばかりが優位に立って、サモルタとの余計な不和を招くのも遠慮願いたい。良き隣国として関係を築いていくのなら尚更な」
「……では、どうすれば……?」
リスターシャ王女は声を震わせ、身体を強ばらせた。
対するエドワード様は、真っ黒に輝いた笑みを浮かべ、弾む声で告げる。
「それならば、貸し一つということでどうだろう? リスターシャ王女が俺個人にいつか支払うということで」
ちょっと待って! それって、リーアにしたことと一緒じゃないの!?
鬼畜腹黒王子はまったく成長していなかった。
「……分かりました」
リスターシャ王女が擦れた声で呟くと、コンラートの拘束が解かれた。彼はぜいぜいと息を乱しながら、リスターシャ王女を睨み付けている。
交渉を終えると、エドワード様は小さく息づいた。
「賊についてだが、一つ心当たりがある。ジュリアンナが持って帰ってきた情報の中に――――」
「エド!」
「リスターシャ!」
突如、窓が割れる音がしたかと思えば、エドワード様とリスターシャ王女に向けて、純白のナイフが放たれる。しかしそれらはキール様とコンラートが剣で弾いたことで惨事は免れた。
(何が……起こったの?)
マリーはわたしの前にナイフを構えて立ち、テラス窓を見据えている。
テラスからダンスを踊るように鮮やかなステップで現れたのは、白いドレスを赤黒い血で染めたレオノーレだった。
「あら? ギリギリまで殺気を潜ませて、絶好の瞬間に命を狙ったのに。とても良い護衛を連れているのね、エドワード・ローランズ第二王子」
「……レオノーレ・ダムマイヤーか」
エドワード様はわたしの元まで来ると抱き寄せ、レオノーレを威嚇するように剣呑な視線を向ける。しかし彼女は気にしていないのか、幼い子どものように頬を膨らませた。
「あまり、わたくしの登場に驚いていないのね? 残念だわ。最期ぐらい楽しませてあげたかったのに」
「リスターシャ王女殿下、気をつけてくださいませ。寵姫レオノーレはディアギレフ帝国の送り込んだ刺客です!」
わたしはそう叫ぶと、部屋を見渡して全員の様子を確認した。
キール様とヴィー、テオドール、コンラートは剣先をレオノーレに向けて警戒し、サイラス様はリリアンヌを背にかばっている。
(……とりあえず、全員無事ね)
一安心したいところだが、そうも言っていられない。レオノーレのこの余裕。まだ何かある。
「れ、レオノーレ様が……?」
リスターシャ王女は瞠目し、テーブルと壁に突き刺さったナイフを交互に見た。
レオノーレはきょろきょろと部屋を見渡し、わたしの顔を見ると熱っぽい笑みを浮かべる。
「まあ! 鈴蘭の君ではありませんか! またお会いできて光栄ですわ。わたくしのために、邪魔なエドワード・ローランズ第二王子とリスターシャ・サモルタ第六王女を用意してくれたのですね!」
今までの会話の流れからいって、彼女に話は通じない。
まるでシャロンとして接したレオノーレと人格が切り替わってしまったかのような錯覚さえ受ける。
「……訳が分からないわ。それにわたしを鈴蘭に例えるなんて不躾よ。わたしが毒女だとでも言うの? 無礼千万ね」
鈴蘭には毒があるのは有名な話だ。
確かに美しい花ではあるが、通常女性を褒めるのに使う花ではない。
「確かに鈴蘭には毒があるわ。でも扱いはそう難しくない。だから、鈴蘭は結婚式の花束にも重用される、純真と幸せの象徴なの! ローランズ王家の血とサモルタ王家の瞳を受け継ぐ貴女は、ディアギレフ帝国がかの二国を蹂躙した後、導師様に捧げるに相応しい供花なのよ」
レオノーレは、わたしをローランズとサモルタを治めるための道具にするつもりなのだ。
わたしは怒りに震え、彼女に殺意を向ける。
「きょ、うか……ですって? ふざけないで! わたしはルイス侯爵令嬢。王位継承権などないわ!」
「簡単なことよ。王族を皆殺しにすれば、貴女が一番になるもの」
「話にならんな」
エドワード様はそう切り捨てると、わたしを抱きしめる腕の力を強めた。
「レオノーレ・ダムマイヤー、サモルタの王宮を襲撃したのも貴女の采配ですか?」
サイラス様はエドワード様の側まで来ると、珍しく剣を抜いた。
「ええ、そうよ。今頃、わたくしの可愛い兄弟たちがサモルタ王を殺してくれているはず。だからリスターシャ・サモルタ第六王女を始末したら、この国は終わりね」
「……アーダルベルトお兄さまはどうしたのです?」
「アーダルベルト様なら、わたくしが殺したわ。とても幸せな最期だった」
神に祈るように腕を交差させ、レオノーレは恍惚にひたる。
「アーダルベルトお兄さまが……なんて酷い。狂っている」
「もはや話は必要ない。キール!」
「了解したぜ!」
エドワード様の命令と共に、キール様がレオノーレへと斬りかかる。
彼女はそれを最低限の動作で交わすと、頬に手を当てて深い溜息を吐く。
「情緒のない野蛮な人たちね。皆もそう思わない?」
レオノーレはテラス窓へと首を傾ける。
その瞬間、使用人の格好をした数人の男女が、武器を携えて現れた。そして彼らはレオノーレと一言ずつ言葉を交わすと、わたしたちへと襲いかかる。
「姉さんをお前たちの薄汚い手で触らせるか!」
「……私は文官なのですが、致し方ありません。テオドールはリリアンヌ嬢を頼みましたよ」
「はいはーい」
ヴィンセントとサイラス様が先行したキール様に続いて、襲いかかる刺客たちへと剣を交える。テオドールはリリアンヌを守りながら、時折ナイフを投げるなどして援護をしていた。
(武器は隠し持ったナイフ一本。……今のわたしでは、戦力にならないわね)
そう思いながらもわたしはナイフを構え、エドワード様もまた剣を構える。
本当はエドワード様には戦って欲しくはない。彼はこの中で一番生きなくてはいけない人だから。
刺客は一人、また一人と切られていく。
しかし、レオノーレは彼らの中でも別格らしく、キール様たちの攻撃をすり抜けて、一気にこちらへと距離を詰めてきた。
「死になさい、エドワード・ローランズ!」
狂気に染まったレオノーレが放った、純白の刃が降り注ぐ。
しかしそれらはエドワード様の場所まで届かなかった。何故なら、わたしの最強の侍女であるマリーの漆黒の刃が放たれ、すべての刃がはじき返されたからだ。
「大変不本意ですが……このド畜生が死ぬとお嬢様が悲しみますので、殺させはしません」
マリーはそう言うと両手にナイフを構え、レオノーレと刃を交えた。
(……レオノーレもマリーと同じでナイフ使いなの? とても……動きがよく似ているわ)
わたしが訝しんでいると、レオノーレは涙を流しながら嘆きの声を上げる。
「あらあら! なんて悲劇的で運命的な展開なのかしら! こんな時に、同じ楽園で育った生き別れの姉妹と刃を交えるなんて……!」
マリーは一瞬ビクリと肩を震わせた。