82話 忍び寄る魔の手
わたしはシャロンの姿のままセラディウス公爵家に入ると、マリーの手を借り、客室へと戻った。
もう、演技の時間はお終い。わたしは服と一緒にシャロンの仮面を脱ぎ、マリーにドレスを着せてもらう。
「……マリー、わたしがいない間、何かあったかしら?」
「お嬢様が予定の日にお戻りにならなかった以外は、特にありません。この部屋にはヴィンセント様以外立ち入らせておりませんし、情報収集も順調。会談でも、第二王子殿下がダムマイヤー伯爵側の要求をうまく躱しているようです」
「そう。心配をかけたわね、マリー」
「……ひとりで無理をするのはやめてください、お嬢様」
マリーはわたしの髪を結いながら、ぽつりと呟いた。
酷く心配をかけてしまったようだ。
「善処するわ。エドワード様たちにも心配をかけてしまったわね」
「それはご本人に直接聞いてください。すでに皆様、別室に集まっています」
「王族をお待たせするなんて侯爵令嬢にあるまじき失態ね」
わたしがクスクスと笑いながら言うと、マリーは眼を鋭くさせた。
「存分に待たせておけばよいのです」
「……マリー。貴女って本当にエドワード様が嫌いね」
手袋を嵌め、背筋を伸ばすと、わたしはカツンッと靴を鳴らし、一歩を踏み出す。
「さて、行きましょうか」
「ルイス侯爵令嬢の完全復活ですね」
マリーは部屋の扉を開けると、恭しく一礼した。
♢
マリーに案内されたのは、エドワード様に与えられた客室だった。
ローランズ使節団の中では一番広い部屋で、大勢が寛げるソファーとテーブルが置かれている。集まるのには最適な場であることは分かる。しかし、どうして彼がここにいるのだろう?
「どうした、ジュリアンナ。まるで害虫を見るような目でコンラートを睨んで」
「申し訳ありません、エドワード様。以後、顔に出さないように気をつけます」
「そういう問題じゃないだろう!」
コンラートは叫びわたしに詰め寄ろうとしたが、キール様とマリーが同時に武器へ手をかけて警戒したことで、彼の動作は半ばで止まった。いくら騎士とはいえ、ふたりを同時に相手するのは難しいと判断したのだろう。
「姉さん! 怪我はない?」
「大丈夫よ、ヴィー」
「本当に心配したよ」
わたしは焦った様子で駆け寄ってきたヴィンセントを抱きしめ、自分の無事を教えた。
「……おい、ヴィンセント。婚約者である俺を差し置いてジュリアンナを抱きしめるなど、いくら弟とはいえ許せることではないな」
「うわぁ、鬼畜魔王。僕に嫉妬したの? 器の小さい男だね」
そう言って、ヴィンセントはエドワード様を挑発するように、ふふんと鼻を鳴らした。
「お前が生意気なことは美点だと思っていたが、今ばかりはそうとは言えないな」
「美点だと思うのは貴方くらいですよ、エドワード様。さあ、テオドールもリリアンヌ嬢もお菓子を貪るのはやめて、ジュリアンナ嬢の報告を聞きますよ」
サイラス様は手を叩くと、テオドールとリリアンヌからお菓子を取り上げた。ふたりは手を伸ばしてお菓子を取り返そうとするが、身長の関係で無理だと悟ると渋々ソファーへ座り直した。
(さすがは長年問題児の保護者をしているだけあって、サイラス様は手際がいいわね)
わたしは関心しつつ、エドワード様の隣に腰を下ろした。
なんだか、エドワード様の隣に座るのが当たり前になっている気がする。
「エドワード様。一応聞きますが、コンラートがここにいるのは、理由あってのことなのですよね?」
「無論だ。セラディウス公爵家の縁者がいた方が話が早く済むと判断した」
「……優秀者の集まりであるローランズ使節団の内情がこんなだったとは……」
コンラートはマリーとキール様に挟まれながら、居心地悪そうに呟いた。
「なんて失礼な方なのかしら。ねえ、ヴィー。わたしたちの優秀さを確かめるためにも、貴方の諜報活動の結果を教えてくれる?」
「うん。もちろんだよ、姉さん」
ヴィンセントは口端を上げ、コンラートを一瞥した。
「まず、姉さんが風邪で寝込んでいることが嘘だったことは、セラディウス公爵家の使用人たちはもちろん、サモルタ側の誰にも見破られなかったよ」
「なんだそれ!? 私は聞いていない!」
「はぁ? 言う馬鹿がどこにいるんだよ」
コンラートは目を見開いて叫んだ。
ヴィンセントは酷く鬱陶しそうにコンラートを見たが、すぐに報告に戻る。
「セラディウス公爵家の使用人たちからは、結構いい情報を搾り取ることができたよ。セラディウス公爵家は、リスタ王子が言っていたように、ダムマイヤー伯爵やアーダルベルト王太子の味方のフリをしているらしい」
「ということは、セラディウス公爵家は本物の愛国者で間違いないのね」
「コンラートが拗らせているだけで、公爵自身はリスターシャ王女を推しているそうだ」
わたしの呟きに、同意するようにエドワード様が頷いた。
「拗らせてなど……!」
「主にやる気がないのに、自分の意思を押しつけるなんて馬鹿だと思うけどな!」
キラキラと爽やかな笑顔で、キール様が言った。
本人は自覚していないようだが、中々の毒舌である。
「脳みそ筋肉のキールに言われるようじゃお終いだね」
やれやれとヴィンセントは手を額に当てる。
コンラートは落ち込み、肩を竦ませた。
「私は……リスタ殿下よりも王に相応しい方はいないと思っている」
「でも、リスタ王子はそう思っていない。貴方の王の望みは……幸せは何?」
わたしが問いかけると、コンラートは顔を俯かせた。
「…………分からない」
「これから知ればいいのよ」
どんな主従関係であっても、最初からお互いに信頼し合い、気持ちを分かり合うことができるなんてあり得ない。
時に悩み、衝突し、それでも話し合い分かり合おうと努力する。そうやって、わたしもマリーも絆を深め、揺らぐことのない主従関係を築いたのだ。
エドワード様とサイラス様、そしてキール様だって、多くの困難を乗り越え、支え合って今の関係を築いているんだと、わたしは思う。
「気を取り直して、ダムマイヤー伯爵家潜入の報告をいたします。ちょっとしたいざこざがあり、こちらに帰るのが遅くなってしまい、申し訳ありませんでした」
「ダムマイヤー伯爵家に潜入しただと!?」
コンラートが再び驚愕を露わにするが、エドワード様はそれを無視して、真っ直ぐにわたしの瞳を見つめる。
「ジュリアンナ。いざこざとはなんだ?」
「寵姫レオノーレに襲われました。……性的に」
語尾は小さく呟いたのに、皆しっかりと聞き取ったようで、一部の者は興味津々に眼を瞬かせた。
「性的に!? じゅ、ジュリアンナ嬢の貞操が……!」
「落ち着け、サイラス。ジュリアンナが大人しく押し倒されるだけの女ではないことは、お前も分かっているだろう」
「そう、ですね。鬼畜で腹黒なエドワード様の執着を恐れず利用し返したジュリアンナ嬢ならば、寵姫に襲われても、襲い返すくらいのことはやってのけそうです」
「……わたしはサイラス様の中で、どんな姿をしているのかしらね……?」
一度しっかり話し合った方がいいみたいだ。
わたしは完璧な淑女と噂される、か弱い貴族令嬢だというのに。
「それでジュリアンナ。寵姫殿は自ら望んでお前を襲ったのか? それともダムマイヤー伯爵の指示か?」
「ダムマイヤー伯爵の指示です。……しかし、そうするように寵姫レオノーレが場を整えたようにも感じました。あくまで、わたしの個人的な見解ですが」
エドワード様は足を組み直すして考え込むと、眉間の皺を深くさせた。
「寵姫殿は随分と強かな女のようだな。それと、これは一番大事な質問なんだが……」
「なんでしょう、エドワード様」
わたしはその真剣な姿に気を引き締め、エドワード様を見上げる。
「お前の貞操は結局のところ無事なのか?」
「なんてこと聞いているのですか! 無事に決まっているでしょう! それでも、わたしの婚約者なのですか!」
わたしは声を張り上げると、エドワード様の胸をポカポカと叩いた。本当は鳩尾に肘を入れてやりたいが、悲しいかな彼はこれでも自国の第二王子。手加減はしなくてはならない。
「あっはは! 今のは殿下が悪いよねぇ」
テオドールが腹を抱えて笑い始めた。わたしはそんな彼を鋭く睨み付ける。
(わたしは見世物じゃないのよ……!)
わたしの怒りが伝わったのか、ヴィンセントがわたしの手をそっと握り、幼い頃から変わらない天使の微笑みを浮かべた。とても癒やされる。
「姉さん、今からでも遅くないよ。こんな思いやりの欠片もない変態王子なんて、廃棄処分してしまえばいいんだ」
「わたしの弟は、なんて可愛くて格好いいのかしら!」
わたしは勢いよく立ち上がると、ヴィンセントに抱きついた。すると背後でエドワード様が小さく「そろそろ教育的指導をしなくてはな」と不穏な言葉を呟いたが、わたしは聞こえていないふりをした。
「ねえ、アンナ姉様。ずっと気になっていたのだけど、その袋は何? もしかしてお土産かしら!」
立ち上がった拍子に袋が落ちてしまったようで、それを拾い上げたリリーが目を輝かせた。
「違うわよ、リリー。これはレオノーレから貰った宝石よ。絵具の材料になるのですって」
わたしはリリアンヌが持っている袋を開け、ラピスラズリを一粒取ると、皆に見えるようにかざした。
「……見たことがない宝石だな」
「サモルタ王国で産出している宝石ではないのですか?」
エドワード様とサイラス様が興味深そうにラピスラズリを見つめている。
「セラディウス公爵子息に聞けば早いんじゃないかなぁ?」
「……いいや、私も見たことがない」
テオドールの言葉に、コンラートは首を横に振った。
(どういうこと? サモルタ王国で産出される宝石ではないの?)
これほど美しい宝石であるラピスラズリが、原産国で無名のはずがない。なんだろう、嫌な予感がする。
「わたくしは知っているわ! ラピスラズリでしょう?」
「知っているの、リリー!?」
リリアンヌは得意げに鼻を鳴らすと、胸を張り上げ、自慢げにラピスラズリの解説を始めた。
「ラピスラズリの歴史は古く、千年前には既に特権階級の工芸品などに使われていたそうよ。聖なる石と崇められ、神事に使われていたこともあったみたい。別名、夜の星空とも言われているわ。ただ、険しい山脈でしか採れないから、パラフィナ大陸では一部の地域でしか出回っていないみたい」
「リリー、一部の地域ってどこなんだ?」
「ディアギレフ帝国よ、ヴィー兄様」
「ディアギレフ帝国ですって!?」
わたしは思わず叫んでしまった。
記録局副局長のリリアンヌの脳には、膨大な知識が正確に詰め込まれている。そんな彼女が述べた言葉が嘘だとは思えない。
「……リリアンヌ。些細なことでも構わない。他にサモルタ王国の中で、ディアギレフ帝国に関連することはあったか?」
エドワード様が険しい顔でリリアンヌに言った。
リリアンヌは、うーんと唸ると「大したことはないと思うけど」と前置きをして、エドワード様の質問に答える。
「露出の多いドレスと大ぶりの宝飾品……貴族女性の流行が、全盛期のディアギレフ帝国と一緒なことぐらいよ」
「セラディウス公爵令息。サモルタ王国の貴族女性の流行発信源は誰ですか?」
すぐさまサイラス様がコンラートへ疑問を投げかけた。
コンラートはしばらく考え込むと、自分自身信じられないという顔で言葉を紡ぎ始める。
「……レオノーレ・ダムマイヤー伯爵令嬢です」
予想していたが、当たって欲しくない回答を聞き、わたしは頭が痛くなった。
(……でも、確かめなくては。サモルタ王国にも、ローランズ王国と同じでディアギレフ帝国の手が伸びているのかもしれない)
先のローランズ王国大粛清の元凶となったマクミラン公爵は、ディアギレフ帝国と手を結んでいた。国王派と教会派に分かれて政争を行っているローランズ王国を見逃さず、ディアギレフ帝国はマクミラン公爵を利用し、不和の種を撒き散らしたのだ。
(ディアギレフ帝国は今も昔も変わらない、侵略国家なんだわ……!)
直接侵攻するのが難しいサモルタ王国を内側から攻めるのは、あり得ないことではない。しかし、わたしは僅かな望みを賭けて、コンラートに問いかける。
「ねえ、コンラート。寵姫レオノーレは、春になると鈴蘭が咲き乱れるような、自然豊かな孤児院の出身なのよね……?」
「いや、彼女は確か……王都の外れにある孤児院出身のはずだ。あの辺りは大きな町もあり、自然はそう多くない」
じっとりとした冷や汗が、わたしの背中を伝っていく。
思っていた以上にサモルタ王国は危うい状況にあるらしい。
「これは非常によくない事態だな」
エドワード様は立ち上がると、サイラス様とテオドールに目配せをした。
「……寵姫レオノーレはディアギレフ帝国の工作員かもしれない。急ぎ、サモルタ王とリスターシャ王女にこの事実を伝えろ」
エドワード様が命令したのと同時に、部屋の中にある使われていない暖炉から、何かが崩れ落ちる音がした――――