76話 わたくしだけの夢人 中編
世界は、わたくしの想像なんて及ばないほどに広い。人の一生程度の時間では、すべての地を訪れることなどできないだろう。
「ブローベル侯爵! サモルタ王国はどこなのですか!?」
わたくしは床に広げられた地図に乗り上げ、ワクワクする気持ちを高ぶらせながらブローベル侯爵に問うた。
ブローベル侯爵は優しげに目を細め、地図の右端を指し示した。
「サモルタ王国はこちらですぞ、リスターシャ王女殿下。北はディアギレフ帝国、東はローランズ王国、南はオリバレル神国と国境を接しております」
「……ディアギレフ帝国。たしか、侵略で大きくなった強国ですよね」
わたくしはブローベル侯爵に教わったサモルタ王国の歴史を思い出しながら言った。
「左様でございます。サモルタ王国は幸運にもディアギレフ帝国との国境を、高い氷山に囲まれておりますので、戦争になったことはございません」
「でも、隣国のローランズ王国とディアギレフ帝国は、何度も戦争を行っているのですよね」
「ええ。ですが、いずれもローランズ王国がディアギレフ帝国を退けております。かの国は強国ですぞ。侵略は行いませんが、豊かな資源とそれを守り切るだけの軍事力をお持ちですからな。サモルタが何百年と鎖国を続けていられたのも、ローランズ王国の影響が大きい」
「……それは、もしもローランズ王国がディアギレフ帝国に敗れたら、このサモルタは地図から簡単に消されてしまうのですね」
わたくしはローランズ王国とサモルタ王国の国境をゆっくりと指でなぞった。
「それを理解できているのは素晴らしいことですぞ。我が国は決して、神に守られた国ではありませぬ。少しばかり運が良かっただけ。それ故、油断してはならないのです。人の技術は日々進歩しておるのです。自然の要塞を破る手段ができることだって、十分にありえますぞ」
「……変わらないものなんてない。人も、国も絶え間なく求め続ける」
ブローベル侯爵に何度も教えられた言葉をわたくしは紡いだ。
サモルタ王国は近隣の国々に比べて国力が低い。特に軍事力は、長い間戦争がなかったせいもあって、危機感を抱くほどだ。
これ以上鎖国は続けてられないとサモルタ王国上層部も判断したようだ。すぐには無理だが、徐々に他国との親交を取り戻していくことになるだろう。
「そう言えば、リスターシャ王女殿下。ローランズ王国の神目の姫をご存じですかな?」
「し、知りません。サモルタ王とわたくしとアーダルベルトお兄様以外に神目を持つ人間がいるのですか!?」
神目はサモルタ王国の限られた王族にしか出ない特徴だ。ローランズ王国にも同じ神目を持った人がいるなんて、わたくしには想像もつかなかった。
(しかも、わたくしと同じ性別だなんて……!)
僅かにわたくしの心は期待してしまう。
「現王陛下の大叔母にあたるジュリエット様は、ローランズ王国の公爵家に降嫁しておりますからな。彼女自身は神目持ちではありませんでしたが、その娘と孫は神目を持って生まれてきたようです。不幸か幸いか……」
「……サモルタに生まれなかったのなら、それはきっと幸いでしょうね」
「ローランズ王国の神目の姫ならば、リスターシャ王女殿下の友人になれるかもしれませぬな。年の頃も近うございます」
『ともだち』というものはよく分からない。物語の中にだけ登場する、わたくしにとっては実感のない存在だ。
わたくしは生まれたときから蔑まれてきた。ブローベル侯爵を経由して、ほんの僅かに父様から配慮していただき、王女の扱いを受けるようになった今でも、わたくしに人はほとんど近づいてこない。
(……わたくしにはリスタがいるもの。でも……)
「いつか……ローランズ王国の神目の姫に会ってみたいです。わたくしなんかと友達になって欲しいなんて、図々しいことは言いません。でも、もしも許されるのならば……わたくしと一緒に御茶会をして、お話をして欲しいです」
「リスターシャ王女殿下は、私目が育て上げたサモルタ王国の誇りですぞ。心惹かれぬ者はおりますまい」
「……ありがとうございます、ブローベル侯爵」
お世辞だったとしても、わたくしはブローベル侯爵の言葉が嬉しい。
母を失って以来、わたくしという存在を肯定してくれる人はいなかった。今はリスタとブローベル侯爵のふたりがいる。
(……わたくしはもう一人じゃない)
狭く苦しかったわたくしの世界は広がりだし、日々は色づき始めていた――――
今作、侯爵令嬢は手駒を演じるが舞台化されます。
さらに7月12日に書籍2巻が発売。
詳しくは活動報告で。