70話 儚げな妖精
ジュリアンナの部屋の前にまで行くと、来るのが分かっていたように、彼女の侍女が待ち構えていた。名はマリーと言っただろうか。
その万人が美しいと褒めるであろう容姿のマリーは常に無表情だ。しかしその目は鋭く、俺に良くない感情を持っているのが分かる。とても、自分の主の婚約者に向けるものではない。
「ヴィンセント様の差し金でしょうか。断腸の思いだったのでしょうね」
「ジュリアンナに会わせてもらえるか?」
「かしこまりました」
間髪入れずに是と答えたマリーに、俺は素直に驚き、眼を瞬かせる。
「……意外だな。身体を張って止めるのかと思ったぞ」
「……お嬢様のためならば、私の第二王子殿下に対する感情など些末なこと。たとえ、お嬢様を死地に送った外道であろうとも」
「エド、すげー嫌われてやんの!」
マリーの殺気が充満する中、キールが笑い出した。……こいつは、本当に脳天気過ぎる。
「お前がなんと思うと構わないが、俺はジュリアンナを守る……というよりは、共に戦って欲しいと思っている」
「……お嬢様は、第二王子殿下のそういう憎みたいのに憎ませてくれないところが嫌いだと思います」
「そうか。それで、ジュリアンナに取り次いでくれるのだろう?」
「……はい。お嬢様を……どうかよろしくお願いいたします」
「任せろ」
俺がドアノブに手をかけると、後ろでキールの「ぐぅぇっ」という声が聞こえた。後ろを振り向くと、キールがマリーに羽交い締めにされて捕まっていた。
「貴方はこちらで待っていなさい」
「……ぐるじい……で、でも、護衛が……」
「剣を振るうことしか能のない貴方と、私を一緒にしないでください。半径50メートル以内であれば、私はどんな音も人の気配も察知出来ます。お嬢様が安全であることは把握済み。襲撃される前に片付けることが出来ます。……貴方など馬に蹴られてのたれ死ねばいいのです」
大の男が妙齢の美女に締め上げられる姿は、なんて滑稽なのだろう。
……まあ、キールも楽しそうだし、放っておくか。
「キール。そこで侍女と待っていろ」
「分かった!」
……お前は番犬か。
「……お嬢様に不埒な真似をしたら許しません」
こっちは忠犬……いや、狂犬だな。
「さて、約束しかねるな」
軽く鼻で笑い、俺はキールとマリーを置いてジュリアンナの部屋に入った。
本来日当たりが良いはずの部屋は薄暗く、カーテンが閉め切られている。
「……マリー? 何かあったの?」
天蓋付きのベッドから聞こえたのは、いつもよりも少し弱ったジュリアンナの声だった。マリーには、こんな弱さもさらけ出すのかと思うと、どうにも面白くない。嫉妬という感情は厄介だ。せめてもの救いは、相手が同性ということだが。
「残念だったな、俺だ」
天蓋のレースを手荒くかき分け、ベッドに丸まったジュリアンナを見つけた。白のゆったりとしたドレスを身に纏い、髪はいつもと違って下ろしたまま。淡い金色の波打つ髪がシーツに広がり、まるで妖精のようだ。
「え、エドワード様!? うそ、なんで!?」
妖精は鮮やかな紫の瞳を見開き、驚きの表情を見せた。突発的なことで対応できなかったのだろう。いつものすました表情はなりを潜め、少しだけ間抜けに見える。だがそこも愛しいと思える俺の心は、完全にこの妖精に囚われている。
「ジュリアンナに会いに来た」
「か、かか、帰ってくださいまし! 淑女の部屋に勝手に入るなんて、紳士ではありません! この腹黒王子!」
ジュリアンナが手近にあった枕とクッションを俺に投げつけた。俺は片手でそれらを軽くいなすと、ジュリアンナに極上の笑みを向ける。
「元気そうだな、ジュリアンナ。折角の安息日だ。一緒に過ごそうじゃないか」
「……何を考えているのです? 真っ黒に輝いていますよ……」
猫のように警戒心むき出しのジュリアンナが面白い。俺はジュリアンナをさらに戸惑わせるべく、ベッドに上り、ゆっくりと彼女を追い詰めていく。
「ひぃうっ」
ジュリアンナを追い詰めた俺はヘッドボードに両手をかけ、彼女を腕の檻に閉じ込める。薄らと涙を浮かべたジュリアンナの表情に、そそるものを感じる。
今、キスをしたらどんな反応を見せるのだろうか……?
そんなことが頭をよぎるが、キスをしたらジュリアンナは口をきいてくれなくなるだろう。最悪の場合、近づき始めたジュリアンナとの距離が開いてしまうかもしれない。焦りは禁物だ。俺が欲しいのは、ジュリアンナの心なのだから。
「ジュリアンナ、庭に行こう」
「……庭? まあ、ここに二人で居るよりマシですが」
「同感だ。俺も気持ちを抑えられるか分からない」
調子が戻ってきたのか、ジュリアンナは小鼻を膨らませながら憤慨した。
「自制してくださ――ぎゃぁぁああ!」
その様子があまりにも可愛らしいので、ジュリアンナの鼻筋にうっかり噛みついてしてしまう。
……しまった。
ジュリアンナを見ると、顔を両手で覆って踞っている。耳まで真っ赤だ。まあ、許容範囲だろう。
「サモルタ貴族の面倒な思惑のあぶり出しをしたくてな。庭で俺とジュリアンナの仲睦まじい姿を見せれば、何か接触をしてくると思うのだが……ジュリアンナはどう思う?」
意見を求められたジュリアンナは渋々といった様子で、顔を上げた。顔は羞恥で未だに赤い。
「……わたしに拒否権はないのでしょう。セラディウス公爵がどう出てくるのか気になるところでもありますし、協力します。……大変、不本意ですが!」
「嬉しいな、ジュリアンナ。婚約者としての絆を深めようね」
『理想の王子様』らしく言うと、ジュリアンナが寒さに震えるように自分の腕を擦り始める。そして俺をキッと思い切り睨み付けた。
「気持ちが悪いので、止めてくださいまし!」
「失礼なヤツだな。……また、噛みつかれたいのか?」
意地悪い笑みを浮かべると、ジュリアンナは焦ったように暴れて俺の腕の檻から脱出した。そして勢い余ってベッドから転がり落ちる。
「くっ……あはははっ、ははははっ……ジュリアンナ……俺をこんなに笑わせるなんて……最高だ!」
「この、腹黒! 鬼畜! 変態! ……わたしはエドワード様を許しませんからね!」
ジュリアンナは俺を睨み付けているが、手で鼻を押さえつけているのでどうにも格好が付かない。その姿を見て、さらに笑いがこみ上げてくる。
「ああ、許さなくていいぞ……くふふっ。今度はジュリアンナが噛みついてくれ」
「この……アホ王子!!」
ああ、やはりジュリアンナと出会えて良かった。
だから……お前を失う未来など、絶対に選択させはしない。