表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
侯爵令嬢は手駒を演じる  作者: 橘 千秋
第一部 ローランズ王国編
58/150

閑話1 私の名を呼んで

 どこで生まれたのか。両親は誰なのか。名前は何なのか。

 普通なら当たり前に知ることを、私は知らなかった。

 物心ついたときには既に、表向きは孤児院に見せかけた暗殺者の育成所にいた。

 私の呼称は、328番。ただの記号だった。



 孤児院では訓練と称し、昨日まで仲が良かった兄弟たちと殺し合う。

 生き残るために、夕食を抜かれないために人を殺す。

 そんなことが当たり前に行われる場所だった。

 初めは同じ境遇の兄弟たちと仲良くしようとしたが、次の日には仲が良かった兄弟が居なくなり、新しい兄弟が補充される。

 そんなことを繰り返していれば、兄弟と仲良くするなどといった愚かなことを考えなくなった。



 手が血に染まるたびにこれは普通ではないと、狭い世界しか知らない私にも分かった。

 厳しい訓練を勝ち抜き、ありとあらゆる暗殺に必要な教養を詰め込み、孤児院の最高傑作と呼ばれる頃には、私は殆どの感情が削げ落ちて逃げようなどとは思わなくなっていた。

 ……まさに、最高傑作と呼ぶに相応しい暗殺人形だ。



 孤児院を出て、他国の暗殺ギルドに買われてからも、それは変わらなかった。

 数年で買われた際に負った借金を返し、ローランズ王国一の暗殺者と呼ばれる頃。

 私は『黒蝶』と呼ばれるようになる。

 記号ではない、私の初めての名前。私は僅かながら心が躍った。

 しかし、それも幻想だった。


 蝶のように闇夜に紛れ、無駄も音もなく対象を美しい手口で殺す暗殺者。


 それが黒蝶の由来だった。

 私自身ではない。私の殺し方を現した呼称。

 暗殺者としてしか価値のない自分が大嫌いになった。



 そうしてまた数年、依頼を受けて殺してを繰り返していると、ギルド長から命令が下った。


 『貴族の家に潜入し、当主を殺せ』


 私は殺すことに特化した暗殺者であり、潜入工作が得意な暗殺者ではない。

 それなのに、ギルド長は私にこの命令を出した。

 理解できない。それが私の抱いた感想だった。

 しかし、私は逃げることは考えなかった。

 たとえ、長期の依頼から帰って来たギルドの雰囲気が以前より悪くなり、くだらない野心を持つ者が策略を駆使し現ギルド長になっていたとしても。

 私にはどうでも良かった。



 

 貴族の家に潜入をすると、私には仮初めの名前が与えられた。

 『シャルロット』――その家では、下働きが専門の下級侍女専用の呼称だった。

 日々入れ替わる使用人を一々覚えるのが面倒な貴族は、役職に名前をつけることがある。

 幾人の使用人が名乗り使い古された名前。それがシャルロットだった。



 私は容姿が良いらしく、元々は潜入し色香を売りにした暗殺者になる予定だった。

 しかし、私の突き抜けた身体能力と殺しの技術により、素早い殺しを売りにした暗殺者になったのだ。

 だから、それなりに潜入の心得はある。

 ギルド長もそれを見越して、私に任務を与えたのだろう。……適任者は他にいると思うが。


 何にしても、使用人や雇い主の中でシャルロットを暗殺者だと思う者はいなかった。

 美しく、少し無愛想で不器用な下級侍女。それがシャルロットの評価だった。


 侍女の仕事は思いのほか、楽しいものだった。

 ……そう、楽しかった(・・・・・)のだ。


 本当に、久しぶりに感じた感情だった。

 料理長の手伝いで大量のジャガイモの皮を剥くことが、家の令嬢に嫌味を言われながらも給仕することが、冷たい水を使って手を真っ赤にさせながら掃除をすることが。……すべてがまるで自分が普通の人間のように思えて楽しかった。


 しかし、私は暗殺者。

 いずれは対象を殺し、この屋敷を去らねばならなかった。

 幸いにも、当主は愛人の家に通うのに忙しく、家には私が入ってから帰って来た様子はない。



 ……このまま、当主が帰って来ずに働ければ良いのに。



 そんな私の思いも虚しく、当主が屋敷へと帰還した。

 ――夜会を開催するためだという。

 何でも、大貴族も来るような大規模な夜会らしく、当主の熱の入り方も凄まじかった。

 夜会の準備期間は、業者の出入りが激しく、当主には常に人が付いている。

 それを言い訳に、私は当主を殺すのを引き延ばした。

 しかし、いつまでも引き延ばせるはずもなく、当主個人の警戒が薄くなる夜会当日に当主を殺せとギルド長から命令が下った。



 夜会まで残り一週間と迫る中、屋敷は大騒ぎとなっていた。

 何でも、ルイス侯爵家という大貴族のご令嬢が、この家に今日来るとのことだった。

 見栄っ張りのお嬢様が、この家の庭園の素晴らしさを自慢し、急に御茶会に誘ったとのことである。

 夜会の準備でただでさえ忙しいのに、その上、この家よりもうんと位の高い貴族家の令嬢をもてなさなくてはならない。

 猫の手も借りたい状況だった。


 私も朝から働きづめで、色々な場所を手伝っていた。

 少々疲労を感じながらも掃除をしていると、1人の少女が現れた。


 12歳ほどに見える少女は、若草色のシンプルだが光沢のあるデザインのドレスを身に纏っていた。

 少女は私が出会って来た人間の中で一番美しいと呼べる容姿を持ち、何よりも吸い込まれそうなぐらい美しく透き通った紫の瞳を持っていた。

 所作もその歳で洗練されていて、この家の令嬢など足元にも及ばない。

 神秘的な……それこそ、特別な存在だと分かった。


 そんな特別な少女は、お供にいかにも有能そうな侍女と、執事を連れている。

 少女は私の元に迷いなく真っ直ぐ向かってくる。



 「も、申し訳ありません。このような、御見苦しい姿をお見せして……」



 掃除をしていたところを客人に見られてしまった。

 上級侍女からの叱責は免れないだろう。

 そう思い少女に頭を下げると、上から可愛らしくも凛とした声がかかる。



 「気にしておりません。お忙しいことを知りながら、突然お邪魔してしまったんですもの。お仕事、頑張ってくださいまし」


 「あ、ありがとうございます」



 特別な少女に声をかけて貰ったことに、私の心は高揚感に溢れていた。

 しかしそれは、次に告げられた少女の言葉により直ぐに突き落とされる。



 「15歩に1歩、まったく足音がしないのにお気づきですか? ……ふふっ、いらぬお世話でしたね。失礼します」



 そう言って、少女は私の前から去った。

 頭をガツンと殴られたような衝撃が奔る。

 

 『15歩に1歩、まったく足音がしない』とは、ただの侍女では知り得ない、暗殺者特有の歩き方を私がしているのに少女は気付いたのだ。

 私のことを当主に報告されてしまうのだろうか……?

 そうなれば、私はもうここに居ることは出来ない。

 元の暗殺人形に戻るしかない。


 ……そんなのは、嫌だ。


 しかし、私には何も出来ずに時だけが過ぎる。

 そしてパーティー当日。

 私の所属するギルドが壊滅したとの報が入った。



 その報は、連絡用の鳩の足に括り付けられていた。

 紙にはギルド壊滅を知らせる文だけが書かれており、その文字はギルド長ではなく、同じギルドの暗殺者『灰猫』のものだった。

 ここ数日ギルドからの連絡が無かったことや、灰猫の文字が乱れているところから察するに、これは事実なのだろう。



 ……依頼は絶対。当主を殺さなくては。


 ……このまま、シャルロットととして働けるかもしれない。


 ……ギルドを壊滅させた組織に私自身が狙われるかもしれない。


 ……いっそのこと、これを機会に死のうか。


 ……逃げよう。もしかしたら、自由になれるかもしれない。



 様々な感情と思いがせめぎ合い、私は逃げることを選択した。

 当主は殺さない。

 シャルロットとして過ごした日々は、たとえ仮初めの存在だとしても、久々に人間らしさを感じることが出来たから……その機会をくれたこの家の者を殺すのは、気が引けた。



 夜会の喧騒に紛れ、私は屋敷を飛び出した。

 追手が来るかもしれない。そう考えると、やはり普通に暮らすなど無理だ。

 シャルロットとしての身分は、依頼主が用意してくれた。

 何の信用もない私が侍女になることは、もう出来ないだろう。

 そうなると、私には身に着けた暗殺の技術しかない。

 たとえ逃げられたとしても、以前とそう変わらない生活を送ることは目に見えていた。

 


 ……それでも、私は――――



 闇に紛れ、走り出した私を突如、ぼんやりとした光が待ち伏せしていたかのように照らす。

 隠していたナイフを取り出して構えると、そこには特別な少女とその侍女と執事がいた。

 少女を守ろうと立ちはだかる侍女と執事の殺気は凄まじく、相当な手練れであることは分かった。

 無論、私は負けはしないだろう。しかし、時間がかかることもまた事実。

 通常ならば、避けるべき戦闘だ。


 逃走するべきか、戦うべきかを思案していると、少女が一歩前へと出る。

 少女は紫の瞳を妖しく輝かせ、底知れない笑みを浮かべる。

 ゾクリと鳥肌が立つ。

 この国一と呼ばれた暗殺者が、少女に恐怖を抱くなど何たることか。

 そんな私の内心など知らず、少女は心底嬉しそうな声を上げる。



 「ほら、やっぱり彼女は来たわ! わたしの言った通りだったでしょう?」


 「ジュリアンナお嬢様……危ないのでお下がりを」


 「執事長の言う通りです。お下がりください」


 「そうはいかないわ。わたしは彼女が気に入ったの。交渉するぐらいいいでしょう? それに、彼女はわたしたちを殺した後を考えられぬほど、愚か者ではないわ」



 私を射抜くその瞳には、先程までの妖しさはない。

 しかし私は、少女に対して恐怖の感情を抱いたままだった。



 「貴女、演技することが好きなのでしょう? 侍女の演技をする貴女はとっても幸せそうだったわ」


 「私は……」



 見破られていたことに私は驚愕を隠せない。

 この少女は何者……?



 「貴女のことは調べました。黒蝶と呼ばれる凄腕の暗殺者だということも調べがついています。……ねえ、わたしの侍女にならない? ちょうど、戦えて歳のそれほど離れていない有能な侍女が欲しかったの」


 「はぁ!?」


 「あら、もしかして貴女の暗殺ギルドを潰したのを怒っている? でも、それは謝れないわ。だって協定違反をして、ディアギレフ帝国の暗殺依頼を受けていたんですもの。それはこの国では最も許されないこと。潰されて、そして私に利用されて当然よ」



 無邪気な顔で、自分がギルドを潰したと言う少女。

 暗殺者としての私はこの国一の強さを誇るかもしれない。

 でもそれは、個としての強さだ。

 少女は、私など容易く潰せるほどの群としての力を持つ。


 ……恐ろしい。


 しかし同時に、少女に心惹かれているのも事実だった。

 

 だって、私がシャルロットであることに喜びを感じていたことを見破ったのだから。

 そして私を侍女として求めくれている。……惹かれないはずがない。



 「貴女の侍女になるのならば、私でなくても良いのでは?」



 素直でない言葉が出てしまった。

 しかし、期待があったのだ。


 この少女ならもしや……私を理解してくれるのではないか。

 いや、私を理解するなど貴族の少女には不可能だ。


 その相反する思いは、淡い期待でもあり、失望することで少女という麻薬を跳ね除ける理由にもしたかったのだ。


 試すような問いに、少女は動揺することなく私を見る。

 まるで、すべてを見透かされている気になった。



 「戦う術を持つことは、優秀な侍女にとって必須事項なの。そして何より、貴女は侍女の仕事に喜びを感じていた。その喜びに満ちた表情に、わたしは心惹かれたわ。だからこそ、貴女が欲しい。……いいえ、貴女でなくてはダメなの。だから、私の侍女になってくれないかしら?」



 まるで恋する者を口説くかのような言葉に、私は唖然とした。

 今まで、こんなにも私を求められたことはあっただろうか……?


 そう思った瞬間、私は少女に返事をしていた。



 「分か、りました。貴方の侍女になります――いいえ、なりたいです」



 少女は満足そうに微笑むと、私に近づき背を伸ばしながら頬に手を触れた。



 「私の名はジュリアンナ・ルイス。今、この瞬間から貴女の主よ。……ところで、貴女の名前は? 黒蝶は名前ではないのでしょう?」


 「……名前は、ありません」



 私の小さな呟きを聞き届けた少女は、細い顎に手を当てながら考えているようだった。

 三分ほど、たっぷり考えた少女は、再び私の頬に手を当てる。

 温かな指先が心地いい。



 「決めたわ。貴女の名前はマリーよ!」


 「……マリー」


 「ええ。この国で一番多い名前なんじゃないかしら。でも市井に多い名だから、わたしの親しい人には同じ名前の人はいないわね。だからね。わたしにとってのマリーは貴女だけよ。ありきたりで特別な……貴女だけの名前よ」



 何て……何てことだろう……!

 この少女は、私を理解するなんてレベルではなかった。


 私の普通への憧景を見透かし、生まれてからずっと乞い願っているものをくれた。

 陥落しない訳がない。


 少女を試すなど、私はなんと烏滸がましいのか!



 「私は……侍女として、この命も心もすべては御身のために捧げます。必ずや貴女を守ってみせます。どうか私を……マリーを貴女の御傍に……」



 忠誠の言葉とは言えない、もはや懇願にも近い情けない言葉だった。

 それは私も重々承知だったが、この気持ちを抑えることはできない。

 少女の為に、私は自ら喜んで首輪を嵌めた。



 「辛い時も、悲しい時も、楽しい時も、幸せな時も……ずっと傍にいてちょうだい。これからよろしくね、マリー」



 マリーと名を呼ばれるたびに、私の心にはたくさんの感情が溢れだす。

 長年感情が削げ落ちていた私には抑えきれるものではなく、それはやがて許容量を超え、涙として零れ落ちる。


 少女はその雫を丁重に拭うと、困ったような顔で私に言った。



 「マリー、侍女たるもの人前で泣く真似はしてはならないわ。侍女は、主を支えなくてはならないのだから。それと、わたしは『貴女』という名前じゃないわ」


 「申し訳ありません……ジュリアンナお嬢様」



 それが、生涯唯一の主であるお嬢様との出会いだった――――






評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ