125話 信仰と狂気
三人称
華やかな宴の後。神に捧げる儀式を行うため、ディアギレフ帝国の実権を握る導師グスターヴは、皇帝の寝室を訪れていた。
血管が脆く、出血が起こりやすくなるという奇病に冒されているセラフィム皇帝は、蒼白の顔でベッドに横たわっている。空虚な彼の銀灰色の瞳は、ただグスターヴを見上げるだけ。
しかしグスターヴには、セラフィム皇帝が自分に怨嗟の念を抱いているのを知っている。
「では、陛下。儀式を始めましょう」
白檀の香油を取り出すと、グスターヴはそれをセラフィム皇帝の額と手足に塗っていく。
洗脳に最適な甘ったるい香りが寝室に満ちる。グスターヴは祈りの文言を口にし、ディアギレフ帝国が信仰する戦いと炎の神に祈りを捧げた。
「これでもう大丈夫ですぞ。神が陛下の病を焼き尽くしてくれました」
グスターヴは父性をも感じる穏やかな笑を浮かべて言ったが、セラフィム皇帝は僅かに顔を顰めた。
「……戯れ言を。余の病が治ることがないということは、お前が一番よく知っているだろう。この血塗られた簒奪者が」
「御母上の洗脳はとても簡単にいったのに、陛下はやはり手強い。皇帝の血筋のおかげでしょうか? 身体は脆く満足に抵抗もできないのに、心はまるで鉄壁の要塞ですな」
「……碌な死に方をしないぞ」
セラフィム皇帝の侮蔑の込められた視線を身に受けると、グスターヴはくつくつと笑い出した。その顔に、先ほどまでの穏やかさは感じられない。
「今日は酷く機嫌が悪いのですな、陛下。やはり、宴の旅芸人が気に入らなかったのですか? 陛下を元気づけるためによんだのですが、その役目を果たせないのならば……殺してしまいましょう」
「やめろ! 無関係な民をまきこ――ゴフゥッ……ゴフォッカハッ」
セラフィム皇帝は咳き込むと、純白のシーツの上に鮮血の華を咲かせた。
苦しむ彼の顔を、グスターヴは無理矢理自分の方へと向けさせる。
「貴方は無力なのですよ。だから御母上の凶行も止められず、我の暗躍を許し、姉上たちを守れなかった。名ばかりの皇帝陛下」
「……くっ、う、ううう」
セラフィム皇帝は悔しさで顔を歪ませながら、涙を流す。必死に声を押し殺すが、グスターヴを喜ばせるには十分だった。
「ああ……神の僕たる聖職者の我が、尊き方に屈辱の涙を流させることができるとは。何たる、不幸! 何たる、光栄! やはり神は人間に祝福も裁きも与えないのだ……!」
グスターヴは聖職者でありながら、神という存在に疑念を抱いていた。
教会では、戦いと炎の神を信仰すれば幸せになれる、人間は生まれながら神に平等な愛を与えられていると説いている。
だが、現実は己が神の信仰と違う。
心清らかな敬虔な信徒だった農民の少女は、口減らしに売られていった。戦に向かう前に神へ祈りを捧げていた青年は、戦地で呆気なく命を落とした。……信仰など糞の役にも立たぬと公言していた商人は、莫大な富と権力を持ち人生の栄華を極めた。
神に疑念が尽きず、しかし答えは得られない。
(本当に神はおられるのか? それとも、人間が作り出した偶像か?)
戦いと炎の神は、異教徒を許さない。なればグスターヴは、自分が教義とは異なる行動を起こせば、神の怒りに触れて裁きが下り、存在の証明となるのではないかと考えた。
また同時に、戦いと炎の神の存在が偶像である可能性も考えた。故に、グスターヴはその可能性に備えて人智を越えた偉業を成し遂げることに決めた。人々が迷わぬよう、自分が新たな神となって道標となるために。
――孤児を意のままに操る私兵へ育て上げ、国を乗っ取り、侵略戦争をしかけたのもすべて、グスターヴが神の存在を証明するためなのだ。
(革命政府とかいう、反逆思想をもった懸念事項もあるが……有象無象の思想なき寄せ集めに、国家たる我らに敵うはずもない)
貴族共の圧政を見逃して恩を売り、民草から税を搾り取って反発する気力と体力を奪った。だから、グスターヴを皇帝の後見人から引きずり下ろそうとする者はいない。
そんな民草から生まれた革命政府が、潤沢な武器と豊富な|人間(資源)を持つ国を相手取れる訳がないのだ。
「ああ、そんなに泣かないでください。御身に響きます。代わりの魔女がいるとはいえ、陛下にはもう少し生きていただいた方が都合がいい。さすがに皇帝の死まで隠匿するのは難しいですからな」
「アヴローラ姉上には手を出すな……!」
先ほどまでの哀れな泣き顔から一変し、セラフィム皇帝は赤くなった目でグスターヴを睨み付けた。
隣国のサモルタ王国とは違い、ディアギレフ帝国の皇族は神聖視されていない。しかし、皇族は国民の頂点に君臨し、神に最も近い人間といえる。だからだろうか、屈服させたと思っても、セラフィム皇帝はふとした時に牙を見せるのだ。
「……ふむ。やはり王というものは興味深い。どれだけの王と異教徒を滅ぼせば、戦いと炎の神は姿を現すのだろうか。これでは、我が新たな神になる方が早いのではないか?」
祝福でも断罪でもいい。『神』という存在の証明が欲しい。グスターヴは自分ほど神を切望している人間はいないと思っている。
グスターヴはもっとセラフィム皇帝に屈辱を味あわせてやろうと口を開くが、寝室に丁重なノック音が響いたので、それを寸でのところで呑み込んだ。
「……導師殿。陛下を虐めては可哀想ですよ」
セラフィム皇帝の許可なく寝室に入室したのは、黒髪の涼やかな顔立ちの青年だった。彼の頬には、昔負った傷の名残か、引き攣れた線が奔っている。
「これはこれはロディオン。予定よりも早い到着ですな」
「本当は前線を抜けたくなかったのですが、導師殿の命令では仕方ありません。ロディオン・ベリンスキー、ただいまローランズ王国侵攻の任から戻って参りました」
ロディオン・ベリンスキーはディアギレフ帝国軍にて将軍の位を賜る、誰もが認める最強の武人。グスターヴにとっては、工作員養成の孤児院で育て上げた最高傑作の手駒だ。
グスターヴはロディオンを見て満足そうに頷くが、セラフィム皇帝は顔を真っ青にさせた。
「……ローランズ王国との戦いとはなんだ? 余は何も聞いていない……!」
「ローランズ王国に我がディアギレフ帝国が侵攻したのは、この城の者なら誰もが知っていると思っていたのですが……どうやら、情報の行き違いがあったようですな」
グスターヴは白々しくそう言うと、唖然としているセラフィム皇帝を鼻で笑った。
「我はそろそろ失礼いたします、陛下。ディアギレフ帝国の今後について、ロディオンと話さなくてはないけませんので」
和睦会議に呼びつけたローランズ王国の第二王子を乗せた馬車は、国境付近で見るも無惨な状態で発見された。火薬の痕跡や切り落とされた橋など、争った跡も色濃く残っているが、死体はディアギレフ帝国側もローランズ王国側もまだ発見されていない。
(……奇妙なことだ。確実に馬車一台屠れるほどの人数で襲わせたのに、刺客がひとりも戻らないとは)
相打ちにしろ、雇った刺客がなんらかの裏切りを働いているにしろ、対策は練らねばならない。万が一第二王子が暗躍していることを恐れ、銀髪に空色の瞳の男を探したが、それらしい者は見つかっていなかった。
「では、陛下。良い夢が見れるように、神へ祈ってください」
扉を閉じる前に、無力な皇帝のすすり泣きが聞こえたが、グスターヴは振り返りもせず退室した。