106話 逃亡劇 2
パチパチと火の弾ける音が聞こえる。
ぼんやりとした意識を徐々に覚醒させると、わたしは緩慢な動作で起き上がった。すると、スルリと身体に掛けられていた白い上着が落ちる。
「目が覚めたか、ジュリアンナ」
「さ、覚めてるわ」
エドワードは火に薪を追加しながら微笑むと、わたしへ見たこともない熟れた果実を差し出した。
「食べろ。毒はないから大丈夫だ」
「あ、ありがとう」
わたしは少し渋みのある果実に齧り付きながら、思考を巡らした。
(……わたし、あれから寝てしまったの!?)
冷たいエドワードの身体を暖めるためにわたしは寄り添ったが、それは一時的なもので、彼の身体が暖まればすぐに離れるつもりだった。その後は怪我をしたエドワードの代わりに、火の番と外の警戒をするつもりだったが、どうやらわたしは寝てしまったらしい。
(この上着もエドワードのだし、わたしが抱きついていたの気づいてた? ……あ、甘えている子どもみたいじゃない!)
顔に熱が集まるのが嫌でも分かった。
果実を食べ終わると、わたしは居心地が悪くエドワードの上着を握りしめながら縮こまる。
「……いつ頃に目が覚めたの?」
「日が昇り始める少し前だったか」
「その……見張りをできなくてごめんなさい。特に変わりはなかった? 襲撃はなかったみたいだけど……」
「襲撃ならあったぞ」
「え!?」
わたしは驚きで目を見張り、洞窟の外を見る。しかし、争った形跡などないし、エドワードも焦った様子がない。
どういうことだとエドワードを見れば、彼は意地悪く笑った。
「まさか、婚約者殿に襲われるとはな。目が覚めたら、ジュリアンナが俺にぴったり張り付き誘っていて驚いたぞ」
「誘っても、襲ってもいないわよ!」
「反撃せずに堪え忍んだ俺を褒めて欲しいな。俺ほど慈悲深い男もいない」
「うるさい! この話はもう止めるわよ!」
わたしはそっぽを向くと、昨日着ていたドレスの残骸を引っ張り出す。そしてドレスに縫い付けられている小粒のダイヤを乱暴に千切っていく。
「……何をしているんだ?」
「見ての通りダイヤを取っているの。小粒だけど、売ればそれなりの金になるわ」
「ふむ。それなら、俺のカフスボタンも売れるか?」
エドワードは無造作にワイシャツのカフスボタンを引き千切ると、わたしへ差し出す。
「……奇抜なデザインじゃないから、ディアギレフ帝国でも売れると思うわ。あまり高くはないでしょうけど。ああ、上着のボタンは純銀ね。こっちはそれなりに売れそう」
「では、足が付かないように注意しながら売ろう。逃亡資金は大事だからな」
「そうね」
わたしとエドワードはダイヤとボタンを外し終えると、ドレスと上着を焚き火の中へと放り投げる。すっかり乾いていたそれらは、あっという間に燃え盛り、灰へと変わっていった。
「さて、これからのことを話そう。俺は剣一本と羅針盤しか持っていないんだが、ジュリアンナはどうだ?」
「ナイフが一本にマッチ、ダイヤが一握り分と……目の虹彩を変える目薬ね」
「王都教会の潜入時に使っていた目薬か。二人で使ったとして、どのくらい持ちそうだ?」
「……十日が限度かしら?」
わたしがそう答えるとエドワードは腕を組み、こめかみをトントンと叩く。
「それが帝都へ行くまでの期限か」
「やっぱり身分を隠して帝都へ行くのね」
「ああ。やつらは『ローランズ王国第二王子』を殺したくて堪らなかったみたいだしな。身分を隠して変装するのが一番現実的だ」
「瞳の色を変えられても、わたしとエドワードの髪色は目立つわ」
金髪と銀髪は上流階級に多い色合いのため、いくら演技が完璧でも平民の中では浮いてしまう。
エドワードはわたしの懸念を最初から予想していたようで、葉に包まれている茶色の木の実を取り出した。
「一時的な毛染めに使える木の実だ」
「よくこんなこと知っていたわね」
「王子教育は華やかに見えて、泥臭いところがある。敵から逃げて生き延びるための術を頭が痛くなるほど叩き込まれるんだ。怪我を治療するための薬草や、毛を染めるための木の実を調達することもその一環だ」
「せっかく得た知識を実戦で使えて良かったわね。無駄にならなかったわよ」
「違いない」
エドワードの肩へ目を向けると、深緑色の汁が染みこんだ布が当てられていた。止血しただけのわたしよりも、怪我の手当が様になっている。
「……怪我は大丈夫?」
わたしはエドワードの側に寄ると、そっと布越しに傷を触れた。
「血は出たようだが、傷自体は深くない。三日も経てば剣を振るえるようになる。お前はどうだ?」
「細かい擦り傷はあるけど、わたしに酷い怪我はないわ。オルコット領で着衣水泳の訓練を受けていて良かったわね」
「そんなこともやっていたのか」
「あら、中々筋が良いって御爺様に褒められたんだから」
クスクスとお互いに一頻り笑うと、わたしたちは帝都へ向かうための準備を始める。わたしは髪を染めるためにエドワードの取ってきた木の実を石ですり潰し、それを自分とエドワードの髪へ塗っていく。そして仕上げに目薬を差した。
「元の髪色で色が変わるのね」
「これならば悪目立ちすることもないな」
わたしは感心したように自分とエドワードの髪を見る。
エドワードの髪は焦げ茶色に変化し、瞳は夜空色だ。対するわたしは赤茶色の髪に碧の瞳。ふたりとも平民に溶け込めるような色彩となった。
「行きましょうか、エドワード」
「そうだな。どれほど下流に流されたのかは分からないが、前に見た地図通りであれば、北西に向かって歩けば王都に着くはずだ」
「徒歩じゃ十日以内は無理よ」
「ならば間に合わせるようにすればいい」
「そう上手くいくかしら」
エドワードは羅針盤を頼りに北西の方角へと歩き出す。わたしも大人しくそれに従った。
そして太陽が高く登った頃、馬の蹄の音が遠くから聞こえてくる。
「漸く幸運が巡ってきたか。行くぞ、ジュリアンナ!」
エドワードはわたしの腕を掴み、駆けだした。
馬の蹄の音だけではなく、薄らと細い街道が見え始める。どうやら森は無事に抜けられそうだ。
「待って、どうするの?」
「馬車に乗せてもらうに決まっているだろう?」
馬車はどうやら買い付けに行っていた商人のものらしく、確かにエドワードの言う通り乗せてもらうにはちょうどいい。
「どんな身分で?」
「駆け落ち中の恋人同士なんてどうだ?」
「いいわね。今までやったことのない役だわ!」
「それは楽しみだな」
そして、わたしとエドワードは手を握り合ったまま、馬車の前に飛び出した。