105話 逃亡劇 1
堅くゴツゴツとした感覚が向きだしの肌から伝わり、全身が底冷えするほど寒い。穏やかな流水音は心地よいけれど、わたしはすぐに意識を取り戻した。
「……ここ、は……?」
日が暮れ始め、視界が暗くなってきているが自分の状況は把握できた。
身に纏っていたドレスは無残に引き裂かれ、髪も飾りが外れて乱れている。ディアギレフ帝国の刺客に橋から落とされ、川の中をを彷徨っていたがどうにか浅瀬へと逃れることができたらしい。
「エドワードは!?」
隣にエドワードがいないことに気づくと、わたしは痛む身体に鞭を打って立ち上がる。
水を吸って重みが増したドレスを煩わしく思いながらも、わたしは下流へと歩き出した。
そして五十メートルほど歩くと、先ほどのわたしと同じように打ち上げられているエドワードを見つける。
「……エドワード!」
彼に駆け寄ると、わたしは安堵の息を吐く。
しかし、彼の肩から血が流れているのを見て、心臓が凍り付いた。
「エドワード! 起きて!」
顔色は蒼白で、声をかけるが反応もない。
わたしはエドワードの脈を取りながら、彼の口元へ耳を傾ける。
「……良かった、生きている。呼吸もしているし、水を飲んだ訳でもないみたいね」
ドレスを破ると、わたしは絹生地をエドワードの肩に巻き付けて止血をした。
急ごしらえだが、このまま血が流れ続けるよりいいはずだ。
「どの程度流されたのかは分からないけれど、夜のうちに追っ手が来る可能性は低いはず。マリーたちが刺客たちを殲滅しているはずだわ。……わたしとエドワードが死んでるかもしれないって思っているでしょうし」
わたしとエドワードの無事を伝える手段はないし、現在地が分からないのでマリーたちとの合流は難しいだろう。そうなると、当初の予定通りに帝都三番街で待ち合わせるしかない。
「追っ手がかけられる前に、まずは体制を立て直さなくてはね」
わたしはエドワードの頬を思い切り叩いた。
意識のない成人男性を運べるほど、わたしの力は強くない。少しでも安全な場所へ逃げるためには、エドワードに協力してもらわなくてはならないのだ。
「エドワード、起きて! 腹黒! 鬼畜! 変態! それから――」
「……もう、起きている」
エドワードは眉間に深く皺をよせながら瞼を開く。
「……今までの人生の中で一番最悪な起こし方だ」
「嫌みが言えるのなら大丈夫ね。……本当によかった」
「心配をかけたな」
エドワードはわたしの頭を軽く撫でると、よろよろと立ち上がる。
わたしは彼の身体を支えるように肩を抱いた。
「少し身体を休ませましょう。行動を起こすのは夜が明けてからでも遅くないわ」
「すまない、ジュリアンナ」
浅瀬の先には森が広がっている。
ひとまずそこで今日の野宿先を見つける必要があった。
森の中は静かで、不気味さを感じる。
わたしとエドワードが歩いていると、半壊した木造小屋を見つけた。小屋の周りは、人を阻むように蔦が生い茂っている。
「……我が儘を言うつもりはないですけれど、あそこでは雨風を凌げそうにないわね。火も焚けないし」
「人が住んでいた形跡があるということは、近くに道が通っている可能性がある。悪いことばかりじゃないな。……ああ、あそこなんてどうだ?」
小屋の裏手に小さな洞窟があった。
それは人工的に作られたもののようで、野生の獣の気配はない。
「物置にでも使っていたのかしら? でも、一晩泊まるには申し分ないわ」
「洞窟に泊まるのは初めてだな」
「何事も経験よね」
わたしは洞窟で夜を明かすことを決めた。
洞窟に入ると、エドワードが上着を脱ぎ始めた。わたしも重苦しいドレスを着ているのが嫌で、彼に倣って脱ぐ。
「おい、ジュリアンナ――って、中に服を着込んでいたのか」
「……当たり前でしょう。わたしは痴女じゃないのよ」
わたしはドレスの中に、万が一のため平民が着るようなシャツとズボンを着込んでいた。動きやすいブーツを脱いで中に入った水を流すと、再びそれを履く。
「薪を拾って来るわ」
「それは俺が……」
「貴方は少しでも休んで。明日には動いてもらわなくてはいけないんだから」
「……助かる」
わたしは洞窟から出ると、手頃な木や枯れ葉を拾う。
そしてそれを腕一杯に抱えて洞窟に戻った。
「……エドワード、寝ているの?」
わたしが声をかけるが、エドワードは小さく寝息をたてるだけだ。
彼を起こさないようにそっと隣に腰を下ろし、懐からマッチを取り出す。
「色々準備しておいて良かったわ」
特殊な鉄の容器に入ったマッチは、川の中に入っても濡れていなかった。簡単に火が着き、枯れ葉を燃やしていく。消えないように慎重に薪を選んで、徐々に火を大きくしていった。
やがて火は洞窟全体を照らすほどの強さになり、じんわりと冷えた身体を温めていく。
「……わたしと一緒に落ちるなんて、馬鹿な人」
エドワードはわたしと一緒に川へ落ちる必要なんてなかった。あのままひとり、帝都へ向かうことだってできたはずだ。
いくら着衣水泳の訓練を受けることが軍人や師団、男性王族の義務とはいえ、実地では避けるべきことだろう。まして橋の上から落ちるなんて、死ぬ可能性だってある。
「でも、ありがとう」
わたしのことなんて見捨てればよかったのに……そう言えたらどれほど良かっただろう。わたしは彼が一緒に落ちてくれたことが腹立たしくもあり、嬉しくもあった。
いくらか血色は良くなったが、エドワードの身体はまだ少し冷たい。
わたしはそっと彼を抱きつくかたちで横になり、体温を分かち合った。