104話 温もりの先は
マリーは馬車の扉を開けると、そのまま屋根に乗った。
わたしは扉から顔を出し、後ろを確認する。すると、五十メートルほど先から十数頭の馬に乗った人たちが追い上げてくるのが見えた。十中八九、ディアギレフ帝国の刺客だ。
(まだ帝国領に入ったばかりなのに、随分と行動の早いこと……!)
なるべく人目に付かないように旅をしていたが、ディアギレフ帝国側の情報網は侮れない。帝国は工作員を民間人に装わせてローランズ王国へ潜入させているので、その辺りからわたしたちが入国したことを掴んだのかもしれない。
刺客たちの速度は馬車よりも速く、このままではすぐに追いつかれてしまう。
「キール、馬車の速度を上げろ!」
「了解!」
エドワードの指示で、キール様が馬車の速度を上げる。
しかし、でこぼこした山道のため、思ったよりも加速しない。追いつかれるのも時間の問題だろう。
「……数を減らします」
マリーは小さな黒いナイフを取り出すと、それを刺客たちの騎乗している馬へと投擲する。
かなり速度に乗っていたため、ナイフの当たった馬は嘶き勢いよく仰け反り倒れていく。数人の刺客が馬に飛ばされ、踏みつけられ、脱落していった。
「ひゅぅー、さっすがマリーだな!」
「余所見をしないで運転に集中しなさい」
「おう!」
キール様は馬に鞭を打ち、限界まで加速させる。
マリーは再びナイフを投擲するが、それを警戒した刺客たちが少し距離を取り、剣で弾いていく。
付かず離れずの距離で追走しながら、刺客たちはジワジワとわたしたちを追い詰めていった。
「……お嬢様、このまま攻撃を続けても、無駄に武器を消費するだけになってしまいます」
「そうね。でも、攻撃が止めば彼らは距離を詰めて、わたしたちを確実に包囲するでしょうね。どうするの、エドワード」
わたしが問うと、エドワードは即座に対応策を導き出した。
「馬車は捨てるぞ。ただし、最大限利用して……奴らの半数は潰したい」
「おい、エド! 馬は急には止まれねーぜ」
「あ、それなら……ジュリアンナ様、エドワード殿下、私に良い考えがあります!」
そう言ってモニカは、手のひら大のかんしゃく玉のようなものを掲げた。
「ピリピリ塩辛煙幕弾です! これで煙幕を張った後に飛び降りれば、賊に不意打ちで馬車をぶつけられます。それにこの煙はとっても塩辛いので、馬は驚いて暴れますし、賊も悶え苦しみますよ」
「モニカ……えげつないわね」
わたしは内心で引きながら、マリーを見上げた。
モニカの教育係はマリーだ。こんな鬼畜な策を考えるように育て上げたなんて、わたしは報告を受けていない。
「お嬢様、濡れ衣です。私の教えではありません」
マリーはわたしから目をそらし、首を振る。
……モニカの鬼畜さは、悲しいことに天性のものらしい。
「ジュリアンナ様、マリーさん……一生懸命考えたのに酷いです」
「煙幕とか楽しそうだな!」
「相手を小馬鹿にし、屈辱を味あわさせて最大の攻撃を食らわすなんて素晴らしいな。実に俺好みの作戦だ。ジュリアンナの侍女は優秀だな」
「皆さん、私を馬鹿にしているんですか!?」
余程衝撃的だったのか、モニカは涙目になりながら叫んだ。
エドワードは不敵に笑うと、刺客たちの方を指さす。
「褒めているんだ、モニカ。さあ、やれ」
「もう、自棄ですぅぅううう!」
モニカはピリピリ塩辛煙幕弾を地面へと叩きつけた。
すると瞬く間に煙幕が広がり、視界が完全に白に染まる。
「今だ、飛び降りろ!」
エドワードの合図に従い、わたしたちは馬車から飛び降りる。
それから数秒後、乗り捨てた馬車と刺客たちが衝突する音が山道に響き渡った。
「――くっ」
不自由な視界の中でどうにか受け身を取り、わたしはじっと煙幕が晴れるのを待つ。
そして視界が開けると、横転し破損した馬車が見えた。馬は一頭も姿が見えず、振り落とされたであろう刺客たちが呻きながら山道に転がっていた。
(……とりあえず、作戦は成功ね)
わたしは立ち上がると、彼らに背を向けて山道から外れるように林の中へ走り出す。気配を辿れば、エドワードたちも同じ方向へと向かっていた。
「クソッ……おい、待ちやがれ!」
ピリピリ塩辛煙幕弾の効果が切れたのか、回復した十名ほどの刺客たちが追いかけてきた。
わたしはがむしゃらに走るが、背後で甲高い金属音が断続的に響いた。
「オレたちが食い止めるから、先に行け!」
キール様の叫び声の後に、幾重にも剣が交わる音が再びわたしの耳朶を打つ。
それに小規模な爆発が続いた。
(……キール様にマリー、それにモニカも残ったの!?)
どうやら予想よりも敵の力を削げなかったらしい。
だが、わたしの優先行動はただ一つ。エドワードの言った通り『逃げる』ことだけだ。
立ち止まりたい気持ちをぐっと押さえ、わたしは一度も振り返らずに駆けた。
林を抜けると、わたしと同じように少し離れた場所からエドワードが現れる。
「――ジュリアンナ!」
「エドワード!」
漸く会えたが、再会を喜ぶ暇はない。
何故なら、わたしたちの前には切り立った崖が広がっているからだ。
「……追い詰められたわね」
崖の下には川が流れていて、激しい流水音が響いている。
ぐっと拳を握って川を見下ろしていると、エドワードがわたしの肩を叩いた。
「覚悟を決めるのは早いぞ、ジュリアンナ。あれを見ろ」
「……あれは吊り橋?」
エドワードの指さした場所には細い吊り橋が架かっていた。
わたしたちは、すぐさまそこへと駆けだした。
吊り橋は人一人通れるぐらいの幅で、縄と木でできた簡素なものだった。
縄は毛羽立ちすり減っていて、木は薄くて変色している箇所が多々ある。本当に人が渡るために作られた橋なのだろうか?
「……ボロボロね」
「しかし、これを渡らなければ刺客に追いつかれる可能性がある。俺が先に行こう」
エドワードはそう言うと、迷わず吊り橋を渡り始めた。
縄が大きくたわみ、ギシギシと鈍い音を鳴らす。
「ああもう! わたしも行くわよ。渡りきったら、この吊り橋を落としてやるんだから!」
わたしもエドワードに続き、吊り橋を渡り始める。
体重を掛けた瞬間に沈み、危うく落ちそうになった。両手でチクチクする縄を持ち、バランスを取りながら一枚一枚板を踏みしめる。
「――ひゃっ!」
カクンと片足が沈んだかと思ったら、板が一枚外れた。
吊り橋が左右に揺れ動き、わたしは冷や汗をかきながら揺れが収まるのを待った。
(……死ぬかと思った。というか、エドワードが早すぎるんだけど!)
もうエドワードは吊り橋を渡り切りそうだ。
対するわたしはまだ、半分を過ぎたところである。
「早く行かなくちゃ」
わたしは震える足に鞭を打ち、ひたすら前に進む。
残り十メートルほどになったとき、複数の足音が後ろから聞こえてきた。
「いたぞ!」
振り向けば、数人の刺客たちが吊り橋の前に集まっているのが見える。
ドッと冷や汗が噴き出した。
「ジュリアンナ、早く!」
エドワードは既に吊り橋を渡り終えていた。
わたしは彼に答える余裕も持てず、懸命に足を動かす。
「男の方はいい。せめて、女を橋から落とせ!」
ギコギコと吊り橋の縄を切断する音が後ろから響く。
焦る気持ちを抑えて歩を進め、わたしは残り数メートルのところまでたどり着く。
先に渡り終えたエドワードが手を伸ばし、わたしも彼に答えるように手を伸ばした。
――あと数センチ。
指先が触れ合う直前、ガクンとわたしの視界が揺れ動き、伸ばしても伸ばしても……わたしの手はエドワードには届かない。
「ジュリアンナ……!」
気持ち悪い浮遊感と同時に、足に力が入らなくなる。
垂直に身体が傾き、淡い金色の髪が舞い上がった。
(……吊り橋が切り落とされた)
落下する感覚に動揺していると、いつの間にか離れたと思っていたエドワードが近くに見えた。
そして今度こそ指先が触れ合い、やがてがっしりと彼に抱きしめられる。
暖かな温もりを感じたのは一瞬。
わたしとエドワードは冷たい水の中と落ち、激流に呑み込まれていく――――