95話 ジュリアンナの感情
ピリピリと緊張感の漂う王宮を、わたしとアルフレッドは堂々と歩いて行く。
近衛騎士を連れているからか、不法侵入した令嬢のわたしを咎める者はいない。
「なんだか注目されているみたいね」
「まあ、当然でしょう。王宮に勤める者の間で、エドワード殿下とジュリアンナ様の婚約破棄の噂は有名ですから」
「あら、嫌だわ。まだ決定していないことなのに。でも、エドワード様の頬に真っ赤な手のひらの跡が残れば、益々噂の信憑性は増すかしら?」
「……目が怖いですよ」
アルフレッドと軽口を叩いているうちに、エドワード様の執務室の前に到着する。
前に来たときは、エドワード様に召喚状を使って嫌々呼び出され、彼に対して悪感情しかなかった。あれから一年も経っていないのに、扉の前に立ったときの気持ちは真逆だ。……もちろん、怒りの感情もあるが。
「エドワード様にお会いできるかしら?」
執務室の前に控えていた侍女に、わたしは淑女らしく微笑んだ。
侍女は目を大きく見開き、「しょ、少々お待ちください」と上ずった声で言いながら執務室へと入っていく。
そして再び扉が開き、現れたのはエドワード様ではなく、第二王子補佐官のサイラス様だった。
「ジュリアンナ嬢、どうしてここにいるのです!? ルイス家にいるはずでは……」
「何やら良からぬ噂も流れているようですし、直接真偽を問いに来ました。お忙しいかと思いますが、お時間を取っていただけると嬉しいです」
「……どうやって忍び込んだのですか?」
「まあ、なんのことでしょう? ローランズ王国の王宮よりも警備の厳しい場所はないではありませんか」
わたしは有無を言わさない笑みを浮かべ、足早に言いつのる。
今までの経験でわたしが折れないことを察したのか、サイラス様はアルフレッドを睨み付けた。
「……アルフレッド・マーシャル。どういうことか説明しなさい」
冷血補佐官の名に恥じぬ鋭い眼光を受けても、アルフレッドは怯まない。
「はっ。検問にてジュリアンナ・ルイス侯爵令嬢を発見。彼女の要望通りに、エドワード殿下の元へとお連れした次第であります」
「今は大事な時だ。関係者以外の面会の要望は断れと命令したはずですが?」
「現時点において、王位継承権第一位のエドワード殿下の婚約者であるジュリアンナ様は、部外者とは言い切れない……むしろ、中心的人物だと判断してお連れしました」
職務に忠実な騎士らしく、いけしゃあしゃあと言ったアルフレッドを見て、サイラス様は深く溜息を吐くと、悩ましげに額へ手をあてた。
そしてわたしへと再び視線を移す。
「……エドワード様が今一番会いたくないのは、ジュリアンナ嬢です」
「エドワード様が今一番会わなくてはいけないのは、わたしではないのですか?」
わたしが切り返すと、サイラス様は沈黙する。
それがわたしとエドワード様を会わせることに悩んでいるのを、如実に表していた。
「私はエドワード様に忠誠を誓っています。ですので、主の望み通りに貴女を追い返すことが正しい選択なのでしょう。……しかし、私はエドの幼馴染でもあります」
サイラス様は普段口にしないエドワード様の愛称を呼んだ。
そして苦笑を浮かべるとわたしへ背を向け、ドアノブへ手を掛ける。
「婚約者を心配してわざわざ来てくださった令嬢を追い返すなんて、外聞が悪いです。少し話すぐらいの時間は必要でしょう」
「感謝いたします」
「まったく、問題児たちの世話は大変ですよ」
サイラス様はゆっくりと扉が開く。
木漏れ日が降り注ぐ執務室は以前よりも荒れていて、書類や物が乱雑に積み上げられていた。執務机には少しやつれたエドワード様が座っていて、こちらも見ず一心不乱に書き物をしていた。
「それで、面会者とは誰だったんだ? 当然断ったんだろうな」
「いいえ、お連れしました」
エドワード様は深く眉間に皺を寄せると、漸く顔を上げた。
そして、ここにいるはずのないわたしの姿を見ると、驚愕の表情を浮かべる。
「……ジュリアンナ、何故……」
「お久しぶりですね、エドワード様」
わたしは完璧な淑女の礼を取った。
すると事態を呑み込んだエドワード様が、剣呑な視線を向ける。
「……ジュリアンナ、今すぐルイス侯爵家へ帰れ。俺は忙しいんだ」
「知っています。それでもわたしは貴方と話がしたいのです。今はまだ、わたしにその権利があると思いますが」
婚約者であることを遠回しに強調すれば、エドワード様は渋々だが頷いた。
わたしは後ろを振り返ると、サイラス様とアルフレッドにとびっきりの笑顔を見せた。
「今からとても大事な話をしますので、二人きりにしていただけますか?」
「……エドワード様もジュリアンナ嬢も程々に」
サイラス様は一瞬疑うかのような目を向けたが、諦めて扉を閉めてくれた。
(……これで舞台は整ったわ)
わたしはすっと貼り付けていた笑みを消し、エドワード様へ向き直る。
陽に照らされ、胸のペンダントがキラリと輝いた。しかしそれに、彼は気づかない。
「王宮で、わたしとエドワードの婚約破棄が噂になっているようですね。でもそんなことよりも、先に話すべきことがあります」
「……婚約破棄がそんなこと、か」
エドワード様は困ったように息づいたが、すぐにいつものように不敵な笑みを浮かべて、わたしを迎え撃つ。
「それで、話とはなんだ。私も時間が惜しいので、手短に頼む」
「……ディアギレフ帝国との和睦会議に出席するとお聞きしましたが、本当でしょうか?」
「ああ、本当だ。向こうは俺を指定しているからな。親書によると、身の安全は保証してくれるらしい」
自分のことなのに、エドワード様は淡々と話した。自分が死ぬことで誰かが……わたしが悲しむことなんて考えてもいないのだろう。腹の底から怒りが湧いてくる。
しかしわたしはそれを必死に押し殺し、いつも通りの冷静なジュリアンナ・ルイス侯爵令嬢を演じる。
「今やエドワード様は、誰もがローランズ王国の次期王と認めている方。大切な御身を前にして、飢えた帝国が約束を守るとはとても思えません。歴史がそれを証明しています」
「お前は俺を買いかぶりすぎだ。俺の代わりはいる。ミシェルだって王子として真っ直ぐに成長しているし、姉上の腹の子を王家に迎えるのもいいだろう。……だから、俺が行くのが正しい」
エドワード様は次期王に相応しい、国を守る王族の顔をしている。
何か重大なことを隠しているのは確かだ。それのためならば、わたしとの婚約を破棄しても、命を捨て去っても良いらしい。
国に忠実なルイス侯爵令嬢ならば、エドワード様の決断を応援するべきなのだろう。
だが、わたしはただのジュリアンナとしてここに来た。応援なんてできるはずがない。
(……なんて勝手な男なの!)
もう限界だった。
わたしは煮えたぎる怒りのまま拳を振りかぶる。
「ふざけないでよ……!」
「ジュ、ジュリアンナ!?」
憎らしくも、わたしの拳はエドワード様に届くことはなかった。
彼は困惑した表情を浮かべながら、興奮するわたしの手首を掴んだ。
「ジュリアンナ、やめろ! いくらお前でも、第二王子に怪我をさせたとなれば、もみ消すのが面倒だ!」
「もみ消さなくて結構よ! それで貴方がわたしの思いを理解してくれるのなら。同情して、和睦会議に出席することをやめてくれたら、尚喜ばしいわ!」
わたしは敬語を話すのも忘れ、ただ気持ちをぶつけた。
「国と家のためにお父様の決めた人に嫁いでも、生まれた子どもだけは愛し尽くそうと思って、わたしは未来を諦めていた。それなのに、エドワード様はわたしの心を土足で踏み荒らしたあげく、一生忘れない恋を教えてくれる、なんて不確かで一番求めていた約束を交わしてくれたわ」
視界が歪み、涙が頬を伝う。
怒りか哀しみか、それとも別の感情か。心の中がぐちゃぐちゃにかき乱され、子どものように泣いてしまう。
「約束が守られることなんてないと思っていた。だけど、貴方から注がれる愛は優しくて、真っ直ぐで……とても怖かった」
「……ジュリアンナ、それではまるで……お前が俺に恋しているみたいじゃないか」
エドワード様は探るような眼差し向けながら、わたしを恐る恐る抱きしめた。
苛立ったわたしは、彼の胸をぽかぽかと殴り始める。
「この鈍感! 貴方に恋をしているから、こんな押しかけるような……侯爵令嬢にあるまじき、身勝手な真似をしているんじゃない。未来を諦めていた頃のわたしなら、簡単に婚約破棄を受け入れたわ。わたしをこんな面倒な女にしたのは、エドワード様よ!」
息を荒げながら言い切ると、わたしは彼を見上げた。
その拍子にまた一筋涙がこぼれ落ちる。
「お願い、わたしの知らないところで死んだりしないで。貴方が死んだらわたしは……」
きっとわたしは酷い顔をしている。
だけどエドワード様は柔らかな顔で目を細め、そっとわたしの涙を拭った。
「お前はどうするんだ?」
「この身に流れる血を利用してディアギレフ帝国に潜入して、寵姫にでもなろうかしら。国を裏から動かして、わたしから貴方を奪った奴らに、必ず復讐してみせる」
「それは嫌だな。ジュリアンナが俺でない、誰かの隣にいるなど考えたくもない。たとえ、俺のためであっても」
エドワード様は噴き出すと、わたしの肩に顔を埋めて忍び笑った。
わたしは本気で言ったのに、なんと失礼な人だろう。
「確認してもいいか」
「何を?」
「……お前が俺に恋をしているかどうかを」
そう言ってエドワード様は、わたしの胸元で光るペンダントを手に取ると、そっと口づけを落とす。
(ああ、やっと気づいてくれた)
このペンダントは王都教会に潜入していたとき、茶番のように行われたデートでプレゼントされたものだ。高価なものではない。だけどわたしにとっては、エドワード様との思い出が詰まったかけがえのないもの。
婚約指輪を外してきたのだって、決意の表れ。言葉や態度で表す前から、わたしは彼への思いを告げていた。
「王子じゃなくても、腹黒で鬼畜でもいい。わたしはエドワード様に一生覚めない恋をしているわ」
吐息が触れ合いそうなぐらいの距離に、エドワード様がいる。
胸がうるさいぐらいに高鳴り、恥ずかしさで顔が赤くなるが、わたしは目をそらさずに心の内を曝け出す。
それはあまりにも幸せなことで、自然と頬が緩む。
「……俺のことなど忘れて、幸せになって欲しかった。ローランズ王国の悲願を果たすためならば、婚約破棄も仕方のないことだと。でも本当は……お前が隣にいる未来を諦めたくなかった」
服越しに、エドワード様の心臓がドクドクと鼓動を早めるのが分かった。
熱の篭もった視線に見下ろされ、わたしはそっと目を閉じる。
そして吐息は重なり合い、甘い痺れが全身を駆け巡る。
溶け合うような口づけに、愛しさがこみ上げた。
「好きだ、ジュリアンナ。……お前と歩む未来のために、俺と戦ってくれるか?」
名残惜しそうに唇を離すと、懇願するようにエドワード様は言った。
わたしは彼の首に腕を回し、背伸びをする。
「貴方と一緒なら、何者にも負ける気がしないわ」
決意を伝えるように、今度はわたしから唇を重ねた。
覚えたてでまだ拙いが、必死に愛情を表した。するとエドワード様はわたしに答えるように、唇を食み、口づけを深くする。
(……このまま、時が止まってしまえばいいのに)
ぼんやりしていく意識の端でそんなことを考えていると、背後からガチャリと扉が開く音した。
「いつまで話をしているので――――し、執務室で何をやっているのですか、この問題児たちは!? は、破廉恥ですよ!」
サイラス様は素っ頓狂な声を上げると、手に持った書類をバラバラと床に落とした。
6/12に「侯爵令嬢は手駒を演じる」3巻が発売いたします。
詳しくは活動報告にて。