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戦争の思わぬ傷跡

作者: 川里隼生

正直、時代考証はいい加減です。トリックにも穴があるかもしれません。心をサッカー場並に広くしてお読み下さい。

1947年の夏。警視庁の横濱よこはま刑事と月見里やまなし刑事がコーヒーを飲んでいると、警部から出動命令が下った。墨田区内で子供が死亡したらしい。墨田区は、一部が空襲を免れていた。そのため、明治・大正期の建物が多く残っている。

「おいおい、もう午後9時45分になろうとしているじゃないか。私にも妻と2歳になる息子がいるのだよ。」

横濱はまず不満を口にした。紳士的な言葉遣いは父親譲りだそうだ。

「そんな事言わないでくださいよ。だらだらと残っていた僕らが悪いんですから。」

月見里は横濱の4年後輩である。

現場は京島の一軒家。千代田区の警視庁本部から距離があるが、歩いて向かう他ない。

「死亡したのは、墨田区在住の千葉(せんば)くるみちゃん。10歳です。今日がちょうど誕生日でした。寿司屋で両親と夕食をとり、帰宅した後から喉の痛みを訴え、父親が医者を呼びに行ったのですが、間にあわず死亡しました。」

移動中に月見里から迅速な報告があがる。

「つまりその寿司屋で食べたものに問題があったわけだ。」

「恐らくそうでしょう。」

台東区に入った。この一帯は空襲で完全な焼け野原になっている。霞が関と京島はアメリカ軍が占領後に使用するから残したのだという噂があるが、真偽は定かでない。

「僕の家は、元々この辺りにあったんですよ。」

月見里が野原の一角を指して呟いた。

「一昨年の3月にやられまして、両親を亡くしました。」

「そうか。私は千代田に住んでいるから無事だったが、君は両親を…。」

現在、月見里はGHQが用意した仮設住宅で生活している。空襲当時、月見里は警視庁本部にいた。軍上層部から敵機襲来の情報が入り、住民の避難を補助する作戦を練っていた。

ちなみに横濱は、高額納税者という理由で赤紙が来なかった。月見里の方は、終戦が2週間遅ければ赤紙が来ていたらしい。横濱は警部などではないが、一体どうやって金を工面したのかと言うと、家宅捜索に入った家の箪笥などから拝借していた。戦時中の犯行ということもあって、今のところばれていない。

1時間40分ほど歩いて、ようやく現場の一軒家に到着した。玄関にくるみの父親である峰央みねお、座敷に母親のキヨがいた。

「夜分遅く、ご苦労様です。」

峰央は二人の刑事を座敷に案内した。灰色の立派な口髭が印象的で、羽織袴が今夜の家族団欒をうかがわせる。座敷には小さな体がうつ伏せに寝ており、その側でキヨが泣き崩れている。どちらも着物だった。遺体は倒れた当時のまま動かしておらず、どこかで転んだのだろうか、所々に泥が付いていた。

「ご婦人。娘さんを亡くされてお気持ちはお察しいたしますが、どうか捜査にご協力いただけませんでしょうか。」

横濱が丁寧すぎるような口調でキヨに話しかける。キヨは意外にも自我を保って応答した。

「はい…。お願いします。娘を…娘を奪った人を、どうか見つけて下さい。」

峰央は1944年8月に海軍の招集を受けていたが、一度も出撃する事無く終戦を迎えた。伴侶と一年間離れ離れになっても待ち続けた女は強い。月見里はそのような感想を持った。

横濱はくるみの様子を観察しながら峰央に質問をしている。キヨはなんとか立ち上がり、峰央の言い付けで茶を用意するために台所へ向かった。

「月見里くん。君もキヨさんの手伝いをして来なさい。…さて、峰央さん。寿司屋ではくるみちゃんは何か特別なものを口にしていましたか?」

「いいえ。牡蠣も雲丹も食べさせておりません。まず店に置かれていませんでした。河童巻きと納豆巻き、あとはあがりくらいです。それでも一家で出掛けるのは滅多に無かったので、娘はとても喜んでいました。」

「寿司屋以外には?」

「そうですね…。何しろ何も手に入らないご時世ですから…。帰り道の闇市で私と家内が買った飴を二つ頬張っていただけです。」

「闇市?」

「ああ、いえ、これは何と言いますか…。」

警察も今の所は闇市を半ば黙認している。だが、偶に悪質なものは取り締まっているので、峰央は闇市が潰されると思ってどうにか誤魔化そうとした。対照的に、横濱は冷静な口調で続けた。

「まあ、この際構いませんがね。」

キヨと月見里が茶を持って来た。横濱と峰央はどちらも手を付けなかったが、茶菓子として出された乾パンは食べた。一般人から見れば紳士の行動は時々よく分からない。

「くるみちゃんの顔色から、青酸系の毒物が使われたものと思われます。」

「青酸系なら、服用した直後に症状が出るのでは無いですか?」

月見里が浅い知識の中で話に付いて行こうとする。

「うむ。青酸カリや青酸エタノールなら寿司屋か闇市で倒れていただろうね。だが、この世には青酸ニトリールという毒物があるのだよ。これは青酸系毒物の中でも遅効性なのが特徴なんだ。」

そう言いながら横濱が大きな溜息をついた。これは推理が整ったか家庭の事情で悩んでいるかの合図だ。当然この場合は前者だろう。月見里が姿勢を正してキヨさんが入れた茶を飲もうと湯のみを取った。

「飲むな!」

突然、横濱が叫んだ。

「月見里くん。それを飲むかどうかは私の推理を聞いてからにしてくれたまえ。」

峰央とキヨの視線が一斉に横濱へ向かう。月見里も湯のみを元の位置に戻した。

「月見里くん。もし私の娘がこのようになったとしたら、私はどうすると思う?」

「横濱さんがですか?そうですね…。警察官としての立場を最大限活用して犯人を捕まえると思います。」

「そうだろう。自分にできる事があれば何でもする。両親にとって子供とはそれ程愛情を注ぐべきものだ。ではもし自分にできる事がありながらしない親がいれば、それはなぜだと思う?」

深い沈黙の後に、月見里が口を開いた。月見里は、最初に思い浮かんだ答え以外の答えを必死に探したが、結局見つからなかった。

「……親が犯人だからですか?」

「その通り。」

「そんな! 私は何も…夫も何も!」

キヨは大きく取り乱した。

「それがそうなのですよ、奥さん。と言うのも、先程申した青酸ニトリールは、軍の拷問で使用する毒物なのです。」

「軍ですって?」

堪らず、月見里が口を開いた。この家で、軍に関係しているのは、一人だけなのだ。

「そう。捕虜の前で自ら青酸ニトリールを飲み、捕虜に飲ませるんだ。捕虜は安心しているが、そのうち毒が回って死に至る。捕虜の前で飲んだ奴は、捕虜が見ていない所で吐き出しているという訳だ。では峰央さん。あなたは娘の顔を見てすぐに青酸系毒物が使われたとわかったはずです。なぜ言わなかったのですか?」

「何を言っているのです⁉︎ 私が毒を入れたと言うのですか⁉︎ そんな訳無いでしょう!」

「そうです! そもそも夫が毒を入れる暇なんてありません!」

夫婦揃って峰央の容疑を否認した。峰央の顔は真っ赤になっている。

「ではキヨさん。娘さんの手を見て下さい。泥が付いていますね。この手に飴を握らせたのですか?」

「それは、私たちが持って、あ、あああ!」

とうとうキヨは崩れた。

「そうです。…私が娘を殺しました。」

「なぜです? あなたはこんなにも幸せな家庭を持っていたではありませんか?」

月見里が問う。

「戦争から、軍から戻っても、私は軍人のままだったのです。」

「どういう事ですか?」

「私は軍艦に乗ったことはありません。ですが、刑事さんが言ったように、青酸ニトリールで捕虜を殺すことばかりしていました。それが恐ろしいもので、一年もやっていると癖になるのです。誰かを殺したくて堪らない。そのような時、今日の機会に出会ってしまったのです。」

月見里とキヨは絶句していた。

「恐怖依存性ですね。軍人には稀にいるそうです。娘を殺害し、刑事が目の前にいるという恐怖が無けれはおかしくなる人が。戦争は、このような悲劇も産むのですね。」

「刑事さん。早く私を捕まえてください。でないと、また何かしてしまいそうです。」

「わかりました。奥さんと一緒に来ていただきます。ところで、あなたが軍属時代に貰った青酸ニトリールの残りが飴ひとつの表面に塗る分だけとは思えませんね。証拠隠滅を図って茶葉入れにでも入れていたのではないですか?」

「その通りです。」

峰央は弱々しく答えた。

「そうでしょう。月見里くん、飲むかい?」

「こんな時に冗談はやめて下さい。しかし、茶ではなく乾パンに青酸ニトリールを入れていたかも知れないじゃないですか。」

「いや、私は峰央さんが食べたから大丈夫だと確信したんだ。峰央さんがどこかへ消えようとすれば、私も吐こうとは覚悟していたがね。」

二人の刑事に連れられ、夫婦は午前0時ごろに警視庁へ送られた。

「峰央さん自ら医者を呼びに行ったのは、完全に死亡するまでの時間稼ぎをしていたのだろう。或いは、我に返って一目散に家を飛び出したのかも知れない。」

「それはどちらでもいいでしょう。それより、もうこんな時間ですよ。奥さんにどう言い訳しますか?」

「ううむ。まさかこの事件は悲しすぎて言えないしなあ。闇市で飲んでいたと言うわけにも…どうしよう。」

横濱は、大きな溜息をついた。

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