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バーテンダーと曇り空

 父が退院することになった。

 私は母とともに、退院する父の元へと向かった。

 父の荷物はまとめてあって、父は私服に着替えていた。

 ベッドの隣のソファーに腰かけていた父親は、背もたれに体重を預けすぎて、なかなか起き上がれずにいた。

慶子(よしこ)、手を貸してくれないか?」

 そう言われて慌てて父親の元に駆け寄った私は、父の両手を取って起き上がらせた。

 歩き始めた父親の左手は、それでもなお、私の右手を握りしめたままだった。


「お父さん、いつまで握ってるんですか?」

 見かねた母親が言ったが、父親は、私の手を離さずに、「こういう時じゃないと、なかなか娘の手でも握れないからね」とにっこり笑った。

 父の曇りのない笑顔とは裏腹に、私の心には何かもやもやとしたものがあった。


 両親とタクシーで駅に向かうと、駅ではすでに兄と春奈さんが待ち構えていた。

 タクシーの扉があくと同時に、春奈さんが父親の元へと駆け寄ってきたが、父は片手をあげて、「大丈夫だよ」と言った。

「恰好つけちゃって……」

 父親には聞こえないよう小さい声で言うと、母親がくすりと笑った。

 母親のほうを見ると、何か言いたげな視線をこちらに向けていたが、父親に呼ばれてすぐにそちらへ行ってしまった。


 帰っていく父親に、私は何を話してよいかわからないでいた。

 医者は、あと半年とは言ったが、急変などがあれば、そこまで持たないこともあると言った。

 私が父に会えるのは、今日が最後かもしれないのだ。

 もともと、あまり話すほうではなかったが、話さなければと思うほど、言葉が口から出てこなかった。

 そんな私とは打って変わって、春奈さんは父に積極的に話しかけていた。

「眉間にしわ寄ってるぞ」

 どうやら私は、父と何を話したらいいか考え込んでるうちに、難しい顔をしていたようだ。

「俺が、父さんと遊んでると、大抵慶子はそういう顔をしてたな」

 隣を歩く兄が懐かしそうに笑った。

「そういえば、慶子、携帯が全然繋がらないから、心配してたぞ」

「あれ?そういえば携帯……」

 友達が少ない私は、日常で携帯を触る習慣があまりないから気にしていなかったが、そう言えば、今日は携帯を触った覚えが全くない。

 兄や春奈さんとは母が連絡を取っていたし、アラームを鳴らさなくても朝は母が起こしてくれていたので、携帯の存在はさほど気にしていなかったのだ。


 駅のホームに着くと、間もなく電車が参ります、とアナウンスが流れた。

 もう少しで電車が来てしまう。

 もう少ししたら、父は、電車に乗って行ってしまう。

 そうしたらもう、父には会えないかもしれない。

 何か話さなければ。

 でも、何か話したら、私は父に悟らせてしまうかもしれない、父の余命が、もう長くないことを。


 不意に父が空を見上げた。

 空には分厚い雲がかかっていて、まるで私の心の中のようにどんよりしていた。

「ここじゃ大抵空が曇っているな」

 父は、空を見上げたままだ。

「それに、空気も美味しくない」

 電車が、湿った風と共にホームに滑り込んできた。

 空を見上げていた父は、私をまっすぐ見つめた。

「美味しい空気が、家族が恋しくなったら、いつでも帰っておいで」

 そう言うと、父は私の頭にぽんと手を置いた。

 どうやら私が寂しくて暗い顔をしていると思ったようだった。

「あ、そうだ、慶子、結婚式の事で慶子に手伝ってほしいことがあるから、今度の休みに実家に寄ってくれないか?」

 父の言葉を聞いていたらしい兄が言った。

「慶子の部屋も片づけてほしいしね」

「え?」

 私の部屋には、ほとんど物がないので、片づけようもないのだが。

「いいから、片付けしにきなさい、しばらく放っておいたから、ホコリとかホコリとか、色々大変なのよ」

 もっともらしく言われ、私はうなずくしかなかった。

 きっと、兄なりに、母なりに、私が父に会いに来やすいように計らっているのだろう。


 電車の扉が開いた。

「お父さん」

 扉に向かって歩く父に、私は言った。

「またね」

 父はにっこり笑って片手をあげた。


 電車が見えなくなるまで見送った私は、ホームを後にした。

 一人きりで歩くと、色々と考えてしまいそうで、わざと人通りの多い通りを選んで歩いた。

 平日の昼間なので、休日ほどの人混みではなかったものの、気を紛らせながら歩くのにはちょうど良かった。

 何気なく、商店街のほうを歩いていると、見覚えのある顔が向こうから歩いてきていた。

 谷岡さんだ。

 谷岡さんの隣には、笹岡さんがいた。

 ジャケットも、ズボンも、新品なのか、きっちりアイロンがかけられており、笹岡さんの気合いを匂わせていたが、一方の谷岡さんは、完全にラフな服装だ。

 デートなのか、笹岡さんの勘違いなのかはかなり怪しいところだが、谷岡さんの真剣そうな横顔は、デートの時にする顔ではないと感じた。


 私は谷岡さんのことを知っているが、谷岡さんは、きっと私を認識していないはずだ。

 私はあさっての方向を向いて二人の横を通り過ぎた。

 だが、次の瞬間、谷岡さんは、振り返ってこちらに向かって走ってきた。

「あなた、一緒に警察に行きましょうか?」

 そして、谷岡さんは、私の少し前を歩いていた男性の腕をつかんだ。

 い、いったいどうしたというのだろうか?

「み、翠先生、何してるんですか?」

 谷岡さんに追いついた笹岡さんが、谷岡さんともめているうちに、腕を掴まれていた男性は、谷岡さんの腕を振りほどき、そそくさと歩いて行った。


 怪しい。

 本能がそう警告して、私は、男の後を早歩きで追いかけた。

 そうだ、警察に電話。

 そう思い、カバンの中をあさったが、携帯電話が見つからなかった。

 そういえば、兄が、携帯が繋がらないって言っていたような……。

 カバンの中をひとしきり探して顔をあげた頃には、男の姿は見えなくなってしまっていた。

 見失ってしまったものは仕方がない。

 私は諦めて、帰宅することにした。


 家の中にも、携帯電話はなかった。

 と言うことは、職場のロッカーか……。

 まだ営業時間よりはだいぶ早かったので、私は人知れず携帯を持って帰ろうと勤め先のバーに向かった。

 誰もいないと思っていたバーは、明かりがついていた。

 昨日確か、電気と戸締りを確認して帰ったはずだが……。

 誰か、用事があって早く来たのかもしれないと、私は深く考えずに裏口から店に入った。

 案の定、ロッカーの中に携帯電話が入っていた。

 携帯電話を取りだして見て見ると、おびただしい数の不在着信があった。

 そして、着信はすべて、たーくんからだった。

 着信履歴を埋め尽くすほどの着信に若干の恐怖心を覚えたが、とりあえず、それは無視して、メールを見ることにした。

 兄から、そろそろ駅に着くというメールと、母から、家についたというメールの他に知らないアドレスから来ていた。

「親父さんの退院、明日だったな、また明日電話する。水口卓也」

 今日かけ直さなくても良さそうだと、少し安堵したところで、私は不意に、なぜか店の電気がついていたことを思い出し、フロアの方へ歩いて行った。

 怪しい人がいたら、警察に通報したらいいし、誰かスタッフだったら、挨拶して帰ろう。

 カウンターのところに二つの人影が見えて、声が聞こえた。

 あの声は、藤岡さん、そして……たーくん?

 その時私の脳裏にたーくんからのおびただしい数の着信がよぎった。

 今、姿を見られたら、きっとねちねち文句を言われるに違いない。

 私は慌てて踵を返すと、こっそり裏口から帰って行った。

 今、ここでたーくんから逃げおおせても、明日には電話がかかってくるのか。

 何だかそう考えると、心の中がどことなくよどんでいった。

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