バーテンダーの憂鬱
眠っていた私は電話の音で起こされた。
「もしもし」
「ミケか?俺だ」
えーっと、私、たーくんにケータイの番号教えた覚えないけれど。
前に、予約を取りたいときのために連絡先を教えろと言われたときにも迷わず店の予約専用電話の番号を教えたはずなんだけど。
「お前の店の人が喜んで教えてくれたぞ。お前があんなに話すの見たの初めてだって」
……余計なお世話を。
「なあ、それより昨日の谷岡の話どう思う?」
私はそんなことのために、朝っぱらに起こされたのかと若干腹立たしくなる。
「別に私に聞かなくても他のお友達に聞いたらどうですか?」
「こういう話ができる女友達はミケしかいないんだって」
たーくんとお友達だった覚えはないけれど。
「それに、ミケだと昨日の話いちいちしなくてもわかってるだろう?」
まあ、確かに昨日の事なら覚えていないこともない。
たぶん、たーくんが相談したいのは、谷岡さんが告白されたと言った件だろう。
悩んでいるらしかった谷岡さんに、たーくんはしきりに、気がないなら振れと言い放っていた。
よほど焦ったのだろう。
この一件で、谷岡さんがモテることと、たーくんがただの高校の先輩としか見られていないことが明確になっていた。
わたしは、谷岡さんが告白された件について、何を話したらいいのだろう?
最後まで何か悩んでいる雰囲気だったから、まだ安心はできないだろうということだろうか?
たーくんが恋愛対象として見られていないから、もっと努力したほうがいいということだろうか?
「谷岡さんは、その看護師さんのこと、嫌いじゃないから悩んでるんだと思う。あと、たーくんは、ただの高校の先輩としてしか見られてないと思う」
とりあえず、何か言ってほしそうだったので、思ったことをそのまま言うことにした。
「ミケ、お前ズバズバ言い過ぎだ」
じゃあ、何が聞きたかったというんだろう?
「まあ、やっぱりそうだよな、ところで、次回の予約取っといてくれるか?」
「予約専用電話に電話してください」
そう言い切ると私は電話を切った。
電話を切って少しして、また電話が鳴った。
……しつこい。
無視しようとしたが、着信相手を見て慌てて電話に出た。
兄からの着信だった。
「お、慶子か?」
「うん、どうしたの?」
「父さんが、倒れた」
「え?」
「でも、近所の病院じゃ手におえないらしくて慶子の住んでるところの近くに大学病院あるだろう?そこに転院することになったんだ」
「え?いつ?」
「昨日転院が決まって、夕方頃には着くと思う。時間があるときでいいから、見舞いに来てくれないか?」
「わかった」
父は、大学病院のICUに入院することになった。
ちょうど仕事が休みだったので、お見舞いに行くことにした。
入り口あたりで誰かが叫んでいた。
大学病院にもなると色々な患者さんが入院しているんだろうなと、深く考えずにそのそばを通り過ぎて、私は父の病室へと向かった。
「慶子、ありがとう」
母は少し疲れている様子だった。
「お母さん、お父さんが入院している間、うちに泊まるといいよ」
「え?俺は?」
隣で兄が焦っていた。
「だって、うち、狭いから一人泊まるのが限界だし……そうだ、たーくんがこっちで仕事してるみたいだからたーくんのとこに泊まらせてもらえば?」
「卓也、こっちにいるのか?」
「偶然、店に来た」
「でも、あいつモテるから彼女とかいるんじゃない?」
「今はいない」
まだ、とつけたほうがよかっただろうか?
「なんで、お前そんなに詳し……」
「いい加減にしなさい!」
突然の怒鳴り声と、激しいビンタの音に全員が静まり返り、声のほうを見た。
何だか聞き覚えのある声だと思っていたら、そこにいたのは谷岡さんだった。
そして、谷岡さんがビンタを食らわせたのは、入り口のところで叫んでいた患者さんだった。
谷岡さんは、その人の命のために、その人のお腹の中の赤ちゃんの命のために、必死で説得していた。
その姿は、何だかかっこよかった。
きっと、たーくんは、谷岡さんのそういうところが好きになったんだろうな。
谷岡さんの説得を聞き入れた患者さんは、落ち着きを取り戻し、部屋に静寂が戻った。
しばらくして、父の担当看護師が、私たちに面会時間の終了を告げに来た。
母とともに、ICUを出ると、谷岡さんがいた。
いつも、私服姿しか見ないから、何だか白衣姿が新鮮だった。
それに、さっきビンタを食らわせていた人と同一人物とは思えないほど穏やかな顔をして話していた。
「笹岡君が、あの時教えてくれて本当に良かったよ」
何となく振り返ったら、谷岡さんの前には男の看護師さんがいた。
その時私は不意に思った。
谷岡さんに告白した看護師さんは、この人ではなかろうかと。
そして、谷岡さんも、看護師さんのことが嫌いではない。
むしろ、気を許しているような空気さえ感じた。
たーくんの恋は、風前のともしびのように思えた。