バーテンダーと取引
春奈さんは一泊だけして帰って行った。
「また、遊びに来てもいい?」
そう言われて、「もちろん」と、答えると、春奈さんは嬉しそうに笑って私に手を振った。
春奈さんの笑顔に、私も微笑み返した。
春奈さんが乗った電車が見えなくなるまで見送ると、私は駅を出た。
そして、次の瞬間、誰かに腕を掴まれた。
キャッチセールスとかだろうか?
「おい、ミケ、いいところにいたな」
私の腕をつかんだのは、もっとたちの悪いものだった。
私はたーくんに連れられて駅の近くのお洒落なカフェにいた。
「この前のプロポーズなんだが」
冷静になって、やっぱり思いとどまったのだろうか?
やっぱり谷岡さんが諦められないって言い出したら、それは止めよう。
どう考えても望みがなさすぎる。
「一度真剣に話をしておきたくて」
……そっちですか。
「せめて、事務所が落ち着くまでは籍を入れておきたいんだ」
……ん?
「その後は、離婚するなり、そのまま夫婦と言う形を継続するなり、ミケの好きにしたらいい」
やっぱり、こっちで、独立したいんだ、と、たーくんは言った。
いい人がいるのなら、結婚するなら今だ。
父の事もあったし、春奈さんに言われたこともあって、たーくんが真剣に結婚を申し込んで来たら、前向きに考えようかなんて思っていた。
でも、これではまるで、私は、たーくんがこっちで独立するためのコマだ。
これで、いいのだろうか?
「それで、はい、コレ」
私が返事をする前に、たーくんが、指輪のケースを差し出してきた。
もしかして、谷岡さんのおさがり?
いや、もしかしなくてもそうかもしれない。
所詮、谷岡さんの代わりなのだから。
たーくんの期待するようなまなざしを受けて、私は仕方なく、箱を開けた。
その中に入っていたのは、谷岡さんのおさがりではなかった。
どうして、たーくんは、私の好きなデザインがわかったのだろう?
そこに入っていた指輪は、谷岡さんの指輪探しの時に私の目に留まった、素敵なデザインだと思った指輪だった。
まさか、ほんの一瞬見ただけのことをたーくんは見ていたのだろうか?
たーくんは、驚く私の手を取り、指輪をはめた。
指輪は、ぴったりだった。
いつの間に、私の指のサイズを知っていたのだろう?
いっそ、谷岡さんのおさがりの指輪をはめさせられたなら、嫌だと一蹴できたというのに。
どうして、この指輪なのだろう?
もやもやとした頭の中で、春奈さんの言葉がこだました。
『もしも、いい人がいるなら、きっと、今が、結婚のタイミングだよ』
たーくんは、何も返事をしない私を不安そうに見つめた。
「いいよ」
私はたーくんに告げた。
「結婚式はなるべく早く挙げたい」
私も、たーくんを利用してやろうと思った。
数日後、父が定期健診のためにこちらにやってきた。
「慶子は、結婚とか、考えているのか?」
「……うん」
私は少し考えてから頷いた。
ここで、嘘をついてもどうしようもない。
「まさか、水口法律相談事務所のとこのやんちゃ坊主じゃないだろうな」
「何で、それを……?」
「アイツは、やめておけ」
先日、近所の集まりで、父はたまたま、たーくんのお父さんから、たーくんの独立の条件の話を聞いたそうだ。
その時には、たーくんが谷岡さんにフラれたらしい情報がたーくんのお父さんの耳に入っていて、今年度中に結婚できなければ、たーくんには事務所を継いでもらうつもりだとお父さんが嬉々として語っていたそうだ。
そこで、父は、こっちで働く私の事を思い出して心配になったそうだ。
「慶子が、利用されるのは、我慢ならない」
父は、真剣なまなざしで私を見た。
「もし、父さんの命が残りわずかでも、娘の結婚を、ウエディングドレス姿を一目見られたらと、夢見ていたとしても、慶子が幸せになれない結婚なら、見たくない。慶子が幸せになれない結婚なんて、父さんは望んでない」
その言葉に私は頭をガツンとぶたれたような衝撃を受けた。
まるで、父は、自分の余命が長くないと知っているような口ぶりだった。
父と別れて、帰路についた私は、一人、考え込んでいた。
父を喜ばせるために、私はたーくんと、取引をした。
だが、その父に反対された今、この取引は私にとって何のメリットもない。
私は手にした携帯電話を見た。
たーくんに一言、やっぱり結婚やめます、と言ってしまえば、すべてが丸く収まる。
たーくんのご両親としては希望通りに、たーくんは地元で親の事務所を継ぎ、父も、私の結婚の事でやきもきしなくても済むのだ。
いまどき、結婚しなくたって、生きてはいけるのだから、今を逃したところで、さほど後悔することもない。
それなのに、なぜか、それをためらう自分がいた。
なぜ、私はためらっているのだろう。
何が、私をためらわせているのだろう。




