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バーテンダーの葛藤

 その日春奈さんは大きなカバンを提げて店にやってきた。

 それは、新婚早々家出したわけではなく、急な仕事の用事だった。

 春奈さんが来るころには私がすでに仕事に出ていて、急なことで鍵も渡していなかったし、春奈さんも家主がいない家に勝手に入るのは気が引けるということで、店で待ってもらうことになっていた。

 閉店まではまだだいぶ時間があったため、カウンターのところで、軽食を出した。

「この前のオリジナルカクテル、作ってもらえる?」

「もちろんです」

 この前の、と言うのは、結婚式の時の事だろう。

 私は兄と春奈さんにオリジナルカクテルを作ったのだ。

「私、こっちに来たら、絶対一度は慶子ちゃんのお店に行って頼もうと思ってたんだけど、早速目標達成しちゃった!」

 満面の笑みの春奈さんを見て、藤岡さんが話しかけた。

「その様子だと、結婚式の三田ちゃんのオリジナルカクテルは、大成功だったんですね!」

「もちろん、あんな美味しいの飲んだの初めてだったよ!」


 その日、途中でたーくんがやってきていたが、私たちが春奈さんと話し込んでいる様子を一瞥すると、一人窓際のテーブル席に腰かけ、一杯飲んだだけで帰って行った。

 藤岡さんが帰って行くたーくんを横目で見ると、春奈さんも、振り返って去っていくたーくんの後姿を見た。

 二人は目を見合わせてくすくすと笑いだした。

 私は、何が起こったのかわからず、きょとんとしていた。

「私、言いたくて仕方がないんだけど」

「僕もです」

 ……何が?

「実は、結婚式の披露宴でやってもらったカクテル作り、考え出したのは、かずくんじゃないの」

 かずくんとは兄の事だ。

 まあ、あの投げっぱなし具合で、それは容易に想像がついていた。

「春奈さんが計画してくれたんでしょう?」

「違う違う、私、その話を聞いて初めて慶子ちゃんがバーテンダーしてるって知ったんだもん」

 それじゃあ、誰が計画したというのだろう?

 首をかしげていると、春奈さんが逆に驚いた!

「この状況で、こんな話が出たら気づくでしょう!卓也君だよ!」

「いや、まさか……」

 だって、たーくんは、小さいころから私の事は下僕としか見てなくて、命令されることはあっても、何かしてくれたことなんてなかったのに。

「本当だよ。何かね、バーカウンターに立つ慶子ちゃんのカッコよさを、ちゃんとお義父さんに見てほしいって、かずくんに熱弁したんだって」

「それでね、僕のとこに、披露宴で三田ちゃんのバーテンダーの腕前を存分に披露してもらうためにはどういった設備やお酒とかが必要かって、三田ちゃんが休みの日を狙って聞きに来てたんだよ」

 そういえば、一度、たーくんが藤岡さんと何か話しているのを見た様な気がする。

「あの後に、三田ちゃんから同じこと聞かれるもんだから笑いをこらえるのに必死だったよ」

「何か、卓也君、小さいころはやんちゃだったみたいだし、慶子ちゃんには信じられないかもしれないけど、本当よ」

 たーくんがやんちゃなのは、今も変わってない気がする。

 藤岡さんと二人で話してたことや、兄の電話よりも前に、そのことを知っているそぶりだったこと、藤岡さんにいろいろ聞いてから会場に電話したらすべて揃っていたこととか、色々思い起こすと、どうも、その話は嘘ではなさそうだ。


 普段だったら、聞き流して終わるような話だったのだが、今日は、何だか胸がもやもやした。

 春奈さんを紹介された日に、同時に父の余命が長くないことを知らされたあの日、落ち込んでいた私を励ましてくれたのは、たーくんだった。

 たーくんは、同時に、私の良いところを父に見せたくて画策してくれていたのだ。

 たーくんは、ワガママで、いつまでもガキ大将で、私のことをしもべとしか思っていないようで、本当は優しい。


「そういえば、水口さんって、あの美人さんにフラれたの、気付いてなかったけど、あれからどうなったんだろうね?」

「昨日、正式に断られましたよ」

「詳しいねぇ」

「たまたま居合わせただけです」

 居合わさせられたとでもいうべきだろうか。

「じゃあ、慶子ちゃん、狙っちゃえば?イケメンだし、お金持ちだし、何より、慶子ちゃんの事大切にしてくれてると思うよ」

「水口さん、なんだかんだ言って、三田ちゃんによる悪い虫は、大概追い払ってたからね、本当はあの美人さんじゃなくて三田ちゃんのことが好きなんじゃないかと何度も思ったよ。今、フリーなら、行っちゃっていいと思うよ」

 今ここで、昨日の冗談としか思えないプロポーズの話をするのは、やめよう。


 私は昨日のたーくんの冗談としか思えないプロポーズのようなものを思い出した。

 たーくんは、こっちで独立して自分の事務所を持つために結婚をするわけで、しかも、昨日まで、谷岡さんのことが好きで、谷岡さんしか見えていなかったのに、フラれてヤケになって私に代わりに結婚しろと言ったのだ。

 たーくんが、ただの自己中なガキ大将だったら、ふざけるなと突き放すことができたというのに。

 実は優しいなんて、卑怯だ。


 そして私の脳裏には、ある光景が浮かんでいた。

 バージンロードを一人きりで歩く、春奈さんの姿。

 もし、今、結婚を決めたなら、私は父とバージンロードを歩けるかもしれない。

 むしろ、今、決めなければ、私は、今後もし誰かと結婚することになっても、きっと、一人きりで、バージンロードを歩くことになるだろう。

 そして私は思った。

 もしも、たーくんが、冷静になったうえで、再度結婚を申し込んで来たら、私はどうしたらいいのだろう。


「何か、兄弟とかいなかったから、こういうの新鮮」

 春奈さんが、はしゃぎながら、布団に入った。

「私も、今まで母しか泊めたことがなかったから、何か新鮮」

 友人が少ないからなのだが、春奈さんは、そこには触れず、「妹がいたらこんな感じだったのかな」と呟いた。

 電気を消して、私も布団に入った。

「おやすみなさい」

「おやすみ」

 その日は何だか色々考えてしまって眠れなかった。

「……春奈さん」

「ん?」

 寝てしまったかと思いながら話しかけた春奈さんは、意外にも起きていた。

「春奈さんは、どうして、兄との結婚を決めたんですか?」

「もしかして、慶子ちゃん、結婚に反対だった?」

「いえ、兄にはできすぎたお嫁さんで、すごく嬉しいけど、でも、人ってどうやって、そういう、人生の決断をするんだろうって……」

「かずくんってさ、すっごくだらしなくて、おっちょこちょいで、ふらふらしてて、危なっかしくて、なんか、ほっとけなくて、一応、かずくんから告白もされたし、私も受けたけど、ずっと友達以上恋人未満みたいな関係だったんだよね」

 それは、たぶん兄が恋愛の経験値がなかったからだと思う。

「でもね、ある日、突然かずくんから呼び出されて、泣きながら、親父が死ぬかもしれないって言われて……何か、その時、私、かずくんに信頼されてるのかなって思って。いつもへらへら笑ってるかずくんが泣いてるの見て、支えたいって思ったんだ」

 春奈さんは、照れたように笑った。

「かずくんからプロポーズされたとき一度、冷静になって考えたんだよ。今の私は勢いに押されて、まともな判断ができていないかもしれないって。本当に、私は、今ここで決断して幸せになれるのかって。で、かずくんの顔見たら、いつもみたいに笑ってて、何か笑えて来ちゃってね、特に断る理由もないし、なんだか、かずくんとだったら一生一緒にいてもいいかなって思ったんだ」

 ある意味、きっとあの時が、結婚のタイミングだったんだろうな、と春奈さんは付け加えた。

「そう言う話をするってことは、慶子ちゃんもいい人いるってこと?」

「いや、違います!」

 ……たぶん。

「いい人できたら、私、いつでも相談に乗るよ!たぶん、かずくんよりも的確なアドバイスできるよ!」

「確かに」

 二人で笑いあった後、春奈さんは、少し真面目な顔になって言った。

「私ね、結婚式のリハーサルの時に、一度バージンロードを誰かと歩いてみたくて、お義父さんに頼んでみたんだ」

 私の脳裏に、バージンロードを一人で歩く春奈さんの姿が蘇っていた。

 父も、春奈さんを気に入っているから、快諾したのではないだろうか?

「そしたらね、春奈さんの事は、娘のように大事に思っているけれど、バージンロードを一緒に歩くのは、本当の娘までとっておきたいんだって、断られちゃったんだ」

 少し寂しそうな顔をした春奈さんは、私の方を見た。

「慶子ちゃん、もしも、いい人がいるなら、きっと、今が、結婚のタイミングだよ」

 そう言って、春奈さんは目を閉じた。

 私の心は、やっぱり、もやもやしていた。

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