バーテンダーは三田
その日も私はいつものようにバーカウンターでシェーカーを振っていた。
空気のような存在感で、大好きなお酒たちをお客さんの満足のいくような形にして出すことが、私の仕事だと自負しているし、その仕事ができることが喜びでもある。
「ねえ、ミタちゃんはどう思う?」
だから、こうして不意に話しかけられると非常に困る。
話も聞いていなかったし、口下手だし、人見知りだし。
「えっと……」
その前に私は三田と書いてサンダと読むのだが、先にそれを言ったほうがいいのだろうか……。
「ミタちゃんは人見知りなんで、話題振らないであげてくださいね」
先輩バーテンダーの藤岡さんがすかさずフォローを入れてくれた。
ちなみに私は先輩バーテンダーにすら、まだ自分の正しい漢字の読みを伝えられていない。
履歴書にはちゃんとさんだってふり仮名を振ったはずなのに。
もう五年以上ここで働いているというのに。
「ミタちゃん、彼氏とかいるの?」
その日のお客さんはやたらと私に話しかけてきた。
私は首を横に振った。
「可愛いのにもったいないね、合コンとかいかないの?」
私はもう一度首を横に振った。
彼氏どころか、合コンどころか、田舎から出てきて、店と家の往復しかしていない私は、友達すらいない。
「へえ、じゃあ……」
「すみませーん」
入り口から女性のよく通る声がして、店内の全員が女性を振り返った。
ホールのスタッフが慌てて駆け寄った。
どうやら予約していないけど今日は大丈夫か聞きたかったようだ。
今日は予約が少なく、比較的すいていたため、客は店内へと案内されていた。
「あんな恰好で来るか、ふつう?」
さっきまで私にしつこく話しかけていた客が、女性の服装を見て皮肉っぽく言った。
確かに女性は普段着で、しかも、家電量販店の袋を持っていた。
そこまで言う必要はないんじゃないかと思っていると、女性の連れの男性が、こちらを睨みつけてきた。
皮肉を垂れた客は、その視線におののいて慌ててカウンターに向き直った。
「ミタちゃん、怖かった、大丈夫?」
そして、私が固まっているのを見て、さも心配そうに言った。
私は首を縦に振ったが、実際、怖くて固まっていて訳ではなかった。
あの睨み具合は、まちがいなくたーくんだ。
たーくんは、私の兄の同級生だった。
たーくんは、水口法律相談事務所のおぼっちゃまだったけど、近所に同年代の友人がほとんどいなかったため、そんなのお構いなしで私と兄とたーくんでよく遊んだものだった。
気に入らない人をああやって睨みつけるのは、昔からのくせだ。
小学校のうちはガキ大将だったたーくんは、中学校の途中から狂ったように勉強しだした。
そうしてたーくんは地元でも頭のいい人が行く高校に通いだして、その頃からほとんど顔を合わせなくなったけど、たーくんは私の数少ない幼馴染だった。
地元でも、こっちにでてきてからもまともに友達がいなかった私はたーくんのことを覚えているけれど、たーくんは、私のことは覚えていないだろう。
私は考えるのをやめるとまた存在感を消して、シェーカーを振りだした。
さっきまで、うっとうしいくらいに話しかけてきていた客はすっかりおとなしくなってしまっていた。
少しだけ、たーくんの睨みに感謝していた。
たーくんたちが席についてしばらくしたころだった。
携帯電話の着信音が聞こえてきた。
「谷岡!谷岡!電話なってる!」
たーくんが連れの女性に言うと、女性は慌てて電話に出た。
女性は電話に出て数分話した後、たーくんを置いて立ち去ってしまった。
「男を置いていくとか非常識じゃないか?」
私の前で飲んでいた客がぼそっと呟いた。
でも、私はそうは思わなかった。
電話の内容が少し漏れ聞こえた感じでは、彼女は病院関係者で、病院に呼び出されたようだった。
誰かの命のために走って行った人に向かって非常識と言うほうが非常識だと思う。
「彼女は非常識ではありませんよ」
冷静だが冷たい声色に、目の前の客は、振り返ることもできずに凍りついた。
「お前もそう思うだろ、ミケ」
その呼び名に、今度は私が凍りついた。
私のことをミケと呼びのは、この世に一人しかいない。
私の本名は三田慶子と言うのだが、当時ガキ大将だったたーくんが、俺は漢字が読めると調子に乗って、私の名前を「みた けいこ」と呼び、からかっていたら、たーくんが逆上してしまい、みたけいこを略してミケと呼んだほうが呼びやすいと一人でミケと呼んでいた。
そのあだ名は全く定着しなかったけれど。
私が物思いに耽っている間に目の前ではたーくんが私の目の前から客をどかして私の目の前に腰かけていた。
「一緒に来た女性が、仕事に呼ばれてしまったので、失礼」
失礼だと思うなら、隣で怯えているお客さんをどかさずに、空いている席に腰かけたらよかったのではないだろうか。
「お前、相変わらず目でものを言うなぁ」
たーくんが私の目を見ていたずらっぽく微笑んだ。
「ミケと話したいんだから仕方ないだろう?」
私は特に話したいこともない。
たーくんの隣の客は、そそくさとお会計をして帰って行った。
よほど、たーくんが怖かったのだろう。
それにしても、さっき、女性が帰る前に、こっちに友達いないとか何とか言っていたのに、ちゃっかり私のこと覚えてたんだ。
「何か言いたそうだな、ミケ」
「いえ何も」
たーくんが、言えとばかりに私を見つめている。
「こっちに、友達いないんじゃないんですか?」
「ついさっき、あの変なのがぶつぶつ言っててそっちを見たから気付いたんだよ」
……嘘だ。
「ミケには嘘は通用しないか」
不自然な沈黙に気付いたらしいたーくんはわざとらしくため息をついた。
「ああでも言わなきゃ連絡先教えてもらえそうになかったんだよ」
手にしていたグラスの中身を飲み干すと、たーくんは続けて言った。
「高校の時から目を付けてたんだ。あの時よりさらにいい女になって、しかも、女医なんだ。俺の妻にぴったりだろう?」
その目はまるで、獲物を狙う肉食獣のようだった。
「お前も協力するよな?ミケ」
え……めんどくさい。
この時から私の、たーくんの恋を見守る日々が始まったのであった。