第一話
人生において一番幸せな瞬間はいつかと聞かれたら、俺は間違いなく恋人といる時と答えるだろう。いや、世の中の恋人がいる人に聞いてみたら八割くらいはそう答えるのではないだろうか。正直、パートナーがいて幸せじゃないなんて考えられない。それくらい、俺は今浮かれている。
まさか片想いだと思っていた先輩と相思相愛だったなんて思わなかったし、こんなラブコメみたいな展開があるのかと頭を疑った。
でもやっぱり運命の相手っていうのはいるものなんだ。神様がもしいるのなら、きっと俺達を導いてくれたに違いない。吹き付ける風が、雲一つない青空が、天高く飛ぶ鳥が、この世のすべてが俺達を祝福してくれている。そんな気がするんだ。
そもそも先輩がなぜあんなに可愛いかについて話していなかったっけ。正直ありすぎて困るけれど、強いて言うならやはり――
「青空晴斗……」
やはり何といってもその純粋さだろう。あんな心が綺麗な人がいていいのかと思うほどに澄んだ心を持っている。その言葉は天使のごとく神々しく――
「……晴斗」
うるさいなあ、俺がせっかく先輩の素晴らしさについて解説している時に横からブツブツと。君らなんて先輩の足の爪の垢にも満たない存在なんだから少しは自重したらどうだい。ああ、そんなやつらと比べたら先輩が穢れてしま――
「晴斗!」
「……え? は、はい!」
勢いよく返事をして立ち上がった俺の目の前にいたのは、妄想の中で微笑む先輩ではなく数学教員の大熊先生だった。名は体を表すという言葉の通り、専門はバリバリの理系のくせに熊のような大柄な肉体を持っている。巷ではすべての武道と格闘技を修めた男として恐れられている。絶対に怒らせてはいけない人だ。
その大熊先生が今俺の前で憤怒の表情――とまではいかないが、不機嫌そうに顔をしかめている。おそらく俺の言動次第では、二重の意味で首が飛びかねない。いや、生徒の首を引きちぎったとなれば教師をクビどころか終身刑以上は確定するほどの重罪だ。ミジンコほどの価値もない俺が、彼にそんな十字架を背負わせるようなことをしたくない。俺にできる唯一のことは、正直に話すことだけだ。例え何を問われようと誠心誠意対応する。それ以外に、できることはない。
「さあ晴斗……答えてもらおうか」
ドスが利いた低い声。本物のヤーさん顔負けの迫力に、足ががくがくと震え始める。落ち着け、大丈夫だ。すべて正直に話すんだ。誠意を持って接すれば、相手も誠意で返してくれる。たぶんきっと。
俺は今まで出会ってきた人間――特に先輩――に感謝を捧げつつ、息を深く吸い込んで人生最後になるかもしれない言葉を放った。
「……すみませんでした! 実は先日先輩に告白したら成功してしまいまして、晴れて正式にお付き合いすることとなりました! しかしこれは不純異性交際などでは断じてありません。至極健全なお付き合いであります」
「は、はあ、そうか。……おめでとう?」
大熊先生は小首を傾げて不思議そうな顔をしつつ、黒板の方を指差した。
「何でもいいが早く問題を解いてくれ。今さっきお前を当てただろう。あと数分で休み時間だ。授業が終わっちまう」
……あれ? これはひょっとしたらやってしまったのかな? 教科書片手に急いで黒板に向かい問題を解いている最中、俺の全身から別の意味で血の気が引いていくのを感じた。妄想の世界に浸りすぎて極稀に失敗をしてしまうことがよくある俺だが、今回のそれは種類が違う。何せ先輩と付き合っているということは、まだ誰にも話してないのだ。理由はもちろん、弄りの的になることを避けるためだ。普段からリア充を撲滅しようと息巻いていた俺が宿敵そのものに成り下がったとわかったら、激しい報復に会うに違いない。そう思ったからこそ、今まで妄想だけで済ましてきたのだ。
震える手で何とか解答を書き込み、後ろを振り返る。きっと怒り狂った男子生徒達が、悪意のこもった視線で俺を見つめているに違いない。しかし俺には男としてのプライドがある。例え非難を浴びようとも、先輩を悲しませるような状況には絶対にさせない。そう覚悟を決めて顔を上げた俺の目に映ったのは――
「……ん?」
退屈そうな表情でノートを取るクラスメイト達だった。いつも絡んでいる非リア充グループのメンバーの様子も、普段と何も変わらない。まるで驚くべきことは何もなかったというように、平常運転。何か尋常ならざる事態が水面下で起きているのではないか。そう疑いたくなるほどに何もない。
俺が席に戻るのと同時に、授業終了を告げるチャイムが鳴った。昼休みが始まり、それぞれが昼食を取るために席を移動したり食堂へ向かったりし始める。いつもと変わらない、日常。
「……変だなあ」
「何が変なんだよ、ぐーぱー君」
首を傾げて悩む俺の背後から、聞き覚えのある声が聞こえた。振り向くと、幼馴染の吉良幸平がいつものにやけ面を引っ提げて後ろに立っていた。ちなみに幸平は、非リア充グループの一員でもある。
「……その名前で呼ぶなって言ってるだろ」
「別にいいじゃん、未来の天才作家さん。あ、本出す時はさ、巻末にお世話になった人ってことで名前載せてよ。有名になれるかも」
「作家になれたら考えてもいいよ。なれたら、ね」
「はっ、相変わらず悲観的だねえ。できると口にしなければ、できることもできなくなるぞ?」
にやにやと、一見馬鹿みたいに笑いながらもどこか悟ったようなことを言うこいつになぜ彼女ができないのかは長年の謎だ。ルックスもかなりいいし、女友達も多い。けれどなぜだか彼女はできない。ある意味貴重な存在だ。
こいつになら、先ほどの出来事に対する疑問を伝えても大丈夫かもしれない。そう思って口を開きかけた瞬間、幸平の『にやにや』がいつもより多いことに気がついた。それどころか、肩を震わせて今にも大爆笑しそうな雰囲気だ。
「……食堂行くぞ」
「お? 何だ、聞きたいことがあるんだろ、いいのか?」
「別に、いい」
「何だよ拗ねるなって。からかうつもりはなかった」
「俺を弄り回すことに全人生を費やしているような男がよく言ったもんだ」
「おいおい発言には気をつけろよ。アッチ系の人間なんじゃないかと疑われるぜ、愛しの彼女さんに」
そう言って、意味あり気にウインクをする幸平。そこそこ決まっているところがまた頭にくる。
「……いつ知ったんだよ」
「おー、そうだな、三日前」
「告白した当日かよ! 馬鹿にしやがって……」
「まあ落ち着けよ。翌日の朝にはすでに学校中で話題になっていたから。いやー、驚異的な早さですなあ。情報化社会は恐ろしい」
「絶対お前が広めたろ! というか、お前は誰に聞いたんだよ!」
「うむ、三日前の放課後、偶然通りかかった橋の上で」
「直で目撃かよ!」
「直で目撃だよ」
ばれないようにと一人だけ神経質になっていたのが馬鹿みたいに思えてきて、俺は机に突っ伏した。結局浮かれすぎて周りが見えてなかっただけなのか。
「でも、それにしたっておかしくないか……? いつもリア充滅びろって騒いでいる連中が俺の時だけ何も言ってこないってのは」
二日前に知っていたというのなら、なおさらこの無反応は腑に落ちない。今までカップルが成立するたびに冷やかしに行っていたあの連中が、このような絶好の機会を逃すとは。
「あー、そのことな。実は全然不思議じゃなかったりするんだよなー。晴斗はさ、彼女できてどう思った? 隠したいと思わなかったか?」
「そりゃ思ったけど……何でだ?」
「まあようするに全員同じ穴のムジナってことさ。彼女ができても周りにからかわれる。けれどリア充になれた喜びは誰かと共有したい。そこで彼女ができそうもなく、口が堅そうなやつに相談に行くわけだ。全員同じやつに話していたなんてことは夢にも思わず、な」
「……え、ど、どういうことだよ、それ」
「まあぶっちゃけて言うと、いつものメンバーのうち彼女がいないのは俺とお前、それと赤津くらいだな。あいつは一匹狼なところあるし」
「……はい? じゃあ、リア充のくせにリア充撲滅キャンペーンだのリア充狩りだのをやってたってことか? ふざけんな!」
「いやお前もだろ」
「あ、はい……すみません」
どうりで、誰も反応しないわけだ。俺も逆の立場なら、後ろめたくて話題にしたくないはずだ。
「まあ、晴斗に彼女ができたことがここまで公になった以上、今までのようにつるむのは難しくなるかもな。他の連中も、これを機にコソコソするのをやめるかもしれんし」
「え……でも友達、だろ?」
「そうだけど、隠す必要がなくなったのならみんな彼女の方を構うだろ。ま、これも自然の流れかもな。どうせ来年には受験勉強とかで忙しくなるだろうし、今のうちに色恋沙汰を経験しておくのもまた人生だよ」
「そっか……。いつかはみんなバラバラになっちゃうんだよな」
ただ彼女ができたことに浮かれて喜んでいた自分が、急にあほらしく思えてきた。誰かと深く関わるということは、それまでに関わってきた人間との関係も変化していくということなのだ。そう考えると、リア充というのもなかなか楽ではないらしい。
「まあ、あまり悩む必要はないと思うがな。高校生なんてまだまだガキだ。ガキはガキなりに人生を楽しんでおけばいい。とりあえず飯食いに行こうぜ」
相変わらずにやにやと意味あり気な笑みを浮かべる幸平の後に続いて食堂へ向かいながらも、俺の心はこの先の人間関係への不安で満ち溢れていった。