黒い獣と白い羽根 前編
フランは煙草を吸わない主義だ。
だが、口寂しい時には火を点けずに咥えておく――そんな癖が、少し前まで身を置いていた村で出来ていた。断っても何度も勧めてくる煙草好きのじいさんのせいだった。
黒髪。黒瞳。長身痩躯。二十代前半ぐらいの青年。白を基調とした衣服に身を包んでいる。
見上げた空は快晴。風は穏やか。
黒の丸眼鏡越しに見える景色は、平和を絵に描いたかのようだ。
道のない平原を、地図とコンパスを頼りにジープで進んでいる。
咥えた煙草を、無意味に上下させながら、ハンドルに添えた手の人差し指をトントンする。
「のどかだねぇ」
運転席のフランが思わずといった風に呟く。
「そうね」
助手席の少女――レイが応じる。
長い白髪。紅瞳。小柄な十四歳。あまり表情が動かないが、その顔立ちを可愛らしいと評するに異論を挟むものは少ないだろう。
年齢相応の黒の可愛らしい衣装に身を包んでいる。
レイは背もたれに体を預け、寛いだ体勢で目を細めている。
空気は暖かく。時間の流れが緩やかに感じられる平穏さに包まれていた。
自然は包み込むような優しさで、目を和ませてくれる。
この辺りもまた、かつての大災厄の爆心地か、その余波を受けた部分なのだろう。朽ち果てた廃墟の名残が緑の内側に飲まれかけているのが、視界の端々に見受けられる。
それは彼らにとっては見慣れた風景だ。
およそ二百年と少し前。
正確な時期は今となっては知る術もないが、遠からず星をも殺す破滅へと一直線の繁栄を極めていた人類は、とうとう『神様』にさえ見放されてしまったらしい。
もうお前たちの面倒など見ていられん――と匙を投げるように、それまでの文明を滅ぼす大災害を起こした。
世に言うところの『閃光の日々(インパクト・デイズ)』と呼ばれる大災厄。
たったの数日で、当時の世界人口の約四割を削り、二次被害でさらに三割を削り、人類の歴史を数世紀ほど後退させるに至った。
かつての文明の名残は廃墟と瓦礫へと姿を変え、屍山血河の傍らで生き延びた人々は、永く続く混乱の時代に翻弄された。
――されていながらも、今もなお種を存続させている。
きっと、神様でさえも呆れるであろう生き汚さで。
人類に食い潰された自然を再生させつつある星の上で。
今もまだ生きている。
「野宿が続いたけど、もうすぐ街に着く予定だよ」
「そう」
「この辺りでは、一番大きい街らしいね」
「そうなの」
「今日の夕食は、少しぐらい贅沢しようか?」
「うん。いいと思う」
素っ気無いぐらいに端的な返答だが、彼女が饒舌なタイプではないと熟知しているフランはのんびりとうなずく。
しばらくの沈黙の時間。
だが、それは決して、居心地の悪いものではない。
「………ぁふっ」
小さな欠伸を耳にして横目で伺うと、レイは口元に手を添えていた。
フランは小さく微笑む。
「昨日はちょっと遅かったからね。
どうせしばらくはこのままだから、眠っててもいいよ」
「うん。でも、フランの方が寝てないし」
「定期的に短時間の仮眠はとってるから、大丈夫だよ」
「うぅん。でも……」
遠慮をしながらもレイの紅い瞳は、引っ付きそうになっている瞼に隠されかけている。
単調な景色。揺り篭じみたジープの揺れ。暖かな日差し。昨夜の夜更かし。
これだけの条件が揃っては、押し寄せる眠気に抗うのは困難だろう。
それ以上は言葉を重ねずに、過ぎる時間に任せる。
程なくして、穏やかな寝息が隣から聞こえてくるようになった。
微笑み、ゆっくりと停車。
後部座席からつばの広い帽子と薄手の毛布を取り出す。
雪のように真白い髪の上に帽子を被せて、年齢よりもやや小柄な体を毛布で包み込んでやる。
そして、再びゆったりと年季の入ったジープを発進させる。
意味もなく唇に挟んだ煙草を上下させながら、道とはとても言えない平原を進んでいく。
「平和だなぁ……」
思わず漏れた言葉に苦笑する。
フランは廃都の出身である。
かつての大災厄の起点とされる大都市の名残。
空を晴れぬ雲に覆われた、灰に飲まれた廃墟の山でしかない残骸都市が、フランの故郷とも呼ぶべき場所だ。
ささやかな復興を歩む『外側』とはかけ離れた、暴力と略奪が蔓延した弱肉強食の街。
そこで十数年を生き抜くのに、フランがどのような人生を送ったかは語るまでもない。
特に理由も無く、また廃都に留まる理由も待たなかったために、その『外』に出て、初めて今の世界を知ったのだ。
灰色に覆われた世界の外に広がっていた蘇った自然の光景を。
太陽の光を。空と海の青さを。大地の恵みを。
そして、人間の優しさと――――――
「………………」
ふぅ、と吐息を一つ。
ちらりと横目で無防備なレイの寝顔を眺める。
余所見運転は危険だが、走行しているのは障害物の類もない平原なので危険は少ない。
「まさか、こんな風にまた旅をするようになるとはねぇ」
ささやかな感慨に浸りながら、視線を前に戻す。
ほぼ同時――
車体が不自然に揺れて、挙動が不審になる。
「………うわぉ」
嫌な予感に冷や汗一筋。
停車して、確認をすると右の後輪がパンクしていた。
「まいったね」
額に手を添えて、フランは青い空を仰いだ。
● ● ●
「………んぅ」
レイの意識が緩やかに浮上する。
目覚めは快適ではなかったが、さりとて不快というわけでもない。
眠りから醒めるというよりも、どちらかというと閉じていた目を開いただけのように眠気を引き摺るような感覚はなかった。
つば広の帽子に上半分が遮られた視界の向こうには、澄みわたった青空が見えた。
年季の入った中古ジープの助手席で、薄手の毛布に包まっていたレイは、背もたれに預けていた上半身を起こした。
ジープは止まっている。
だけど、周りは未舗装の平地――眠る前とあまり変わらない平原。ただありのままの自然が広がっているだけで、目的としていた大きな街に到着したというわけではないようだった。
運転席に視線を向けても、同行者の姿はない。
「………?」
休憩……だろうか。
そんな疑問を浮かべていると、車体後部から同行者の「ふぅ~」という吐息が聞こえてきた。ついでにジープが微妙に揺れる。
どうやら、何らかのトラブルが生じて、何かの作業をしているようだった。
漠然とした理解。
「どうしたの?」
体ごと後ろを向きながら、問いかける。
「あ~、目が醒めた? 静かに揺れないようにしてたつもりだったんだけど……」
額に汗を浮かべて、若干楽しそうに目を細めていた彼は、工具を持った手を動かし続けながら口を開く。カチャカチャキコキコ……という金属同士の触れ合う音に混じって、穏やかな声が耳に届いた。
ふるふると首を横に振る。
「勝手に起きたの。気にしないで。
………それで、どうしたの?」
「あ~、うん。タイヤがパンクしたんだ。運悪く尖った石を踏んだのか。タイヤが悪くなっていたのか。どっちとも言えないけど、とにかく予備のタイヤと交換中」
「そんなに手間をかけなくても、『羽根』を使えばいいのに」
羽根。純白の羽毛の『形』をした何か。
その人の願いを読み取り、ありとあらゆる奇跡をその純度に応じて再現する代物。
この世界の復興を支える大切な一翼であり、今の人類社会の根幹となりつつあるものでもある。その手に持って念じれば、それは火を熾し、水を生み、電気を蓄える。どういう理屈かは知らないが、傷を癒し、病気を治したりもする。それは道具や機械にも適応され、損傷そのものを無かったことにするのも可能なのだ。
ある意味においては、魔法よりの代物であるとも言える。
その発生のメカニズムは解明されていないが、現状での知りうる限りでは、何処からともなく自然発生する場合と、あるモノを代償に『御使い』からもたらされる場合の二つである。
――空から大量に降ってきたという逸話もあるが、さすがにそれは少し眉唾だろう。
「この手間暇がいいって言ってた趣味人の気持ちが今ならなんとなく理解できる」
「………そう」
レイには理解できない領域の話だった。
「それに『羽根』は貴重品だ。いろんな意味でね。
使わないで済む程度の問題なら、使わないに越したことはないよ。何があるかわからないから、いざという時のためにもね」
「でも、わたしの――」
「レイ」
言いかけた言葉を、フランが優しく、でもきっぱりと遮る。
「うん。わかった」
「もうすぐ終わるから、もう一眠りしててもいいよ。小腹が空いたなら、適当なのを食べといて」
「手伝う?」
「終わりかけだから大丈夫だよ」
その辺の知識に乏しいレイだから、彼の言葉を疑ったりはしなかった。
フランは手伝って欲しい時は、素直に頼ってくるタイプだ。
逆にレイが女の子だからといって、必要以上に甘やかそうともしない。そういう意味では気持ちのいい性格をしていると思う。
彼に過保護に扱われるのは、なんとなく嫌だから。
「………………」
頭上を見上げると、太陽は真上に差し掛かっていた。
割と長く眠り込んでいたらしい。
時間を意識すると、現金にもお腹の虫が鳴いた。
「フランのお腹は?」
「うん?」
作業の手を止めずに、フランが視線だけ向けてくる。
「フランはお腹、空いてる?」
「………そうだねぇ。ついでに用意してくれるかな?」
「うん」
「先に食べててもいいから」
「待ってる」
後部座席に身を乗り出して、食べ物を詰め込んだ袋に手を伸ばし、ゴソゴソする。
「ありがと」
にっこりと笑顔。
フランがたまに浮かべる子供のように無防備な表情が、レイは意外と好きだった。
● ● ●
「ぱくっ」
味の素っ気ない保存食を膝の上に広げて、ひょいっと一摘み。
軽い労働に費やした時間の分だけ消耗した体力――端的に言って空腹が癒される。
フランはささやかな昼食の時間を堪能する。
わざわざタイヤの交換が終わるまで待っていてくれたレイも小動物のような可愛らしさで食事をしている。
「さて、と。現在位置が大体、この辺になるかな」
ついでのように地図を広げたフランは、大雑把に現在位置と思しき地点に書き込みをする。実のところ、現在流通している地図の正確さは、まるで信憑性がなかったりする。
かつての大災厄がもたらした被害はそれだけ深刻で、その後の世界を地図にしてまとめようと思うような余裕のあるその手の人材が、圧倒的に不足していたせいでもある。
そのため比較的安定してきた今現在であっても、市販で流通している地図は適当だったり、大雑把だったり、肝心要な部分の記載が抜かっていたりで、信用し過ぎると痛い目を見そうな代物が大半だったりする。
本来ならば、とっくに目的としている街に到着しているはずなのだが、それが未だに成されていないのは、手元に持った地図から見て取った近道の途中に、断崖絶壁としか表現しようのない亀裂が地面に生じていたためである。
結果として、大幅な迂回を要求されために無為な野宿を数日強いられたわけである。
こうした地図の不備は然るべき場所に提出すれば、わずかばかりの報酬と引き換えに今後に活かされるので全くの無駄でもないのだが。
さておき。
「うん」
水を注いだカップを傾けながらレイ。
「で、地図の上で目的としている街はここだね」
「うん」
「予想外のアクシデントに時間を取られたけど、日が沈むより前には着けると思う。特に何も起こらなければだが」
「だといいね」
あんまり期待していない風のレイ。
「いや、全くだね」
フランもしみじみとうなずく。
地図の不確かさには何度も泣かされているので、乾いた笑いしか出てこない。
気を取り直すように、味気ない保存食を一口。
「聞いた話だと、この街は『教会』の保護を受けていないらしい」
「………きょうかい?」
やや不穏な響きを宿した声。
無理もないと思うし、フランも全くの同感だ。
「今の時代なら何処に行っても、大なり小なり『教会』の看板は掲げられてるもんだ。何しろ大災厄から世界を復興させた立役者なんだからさ」
やや投げやりな口調で呟くフラン。
大災厄直後の混迷期に、誰よりも速くに『羽根』の存在に気づき、その御業を利用したデモンストレーションで、一定の秩序を再構築した聖人のような人物がいたらしい。
その人物を中心に人が集まり、組織となり、現在における『教会』と呼ばれる一大組織の礎を築き上げたのである。
世界の復興と人々の生活の安定のために。
無償の善意で施しを行う人々の拠り所――イメージとしてはそんなものだ。
そして、それは確かにこの世界に生き残った大多数の者たちにとっては、頼りになる標なのである。
だからこそ――
「そういう意味では、珍しい風潮の街だといえるね」
「どうして、なのかな?」
「無償の善意を施してくれる相手の手を払えるのは、そうしたものを必要としないからか、あるいはその相手をまるで信じていないかのどちらかだろうね」
「………どっち、かな?」
探るような問いかけ。やや後者よりであって欲しい的な願望のエッセンスも含まれているような気がしたが、今の時点では応えようがないので「さてね」と濁す。
「――昔、小耳に挟んだ程度に聞いた話では、この街はそもそも大災厄の影響が極端に少なかったという話だよ。だから、かつての文明の『形』がそれなりに残ってるらしい」
今の時代においては過去の遺産とも呼べる技術の名称を思い出す。
「え~と、科学……だったかな? 大災厄以前に世界を支えていた技術が自給自足できる程度に生きてるみたいなんだ」
「……うぅん。そうなんだ」
それが何を意味しているのか。どのような街を形成しているのか。
故郷の外にあった世界にあまり慣れていないレイの『常識』では、推し量りかねるのだろう。反応に困ったようにカップを持たない手をモジモジさせている。
そういう意味では、フランもその街がどのような姿をしているのかは、想像の範疇外ではあるのだが。
「そういう事情で、そもそも『教会』の施しを受けるまでもなく、早期の復興が可能だったんだろうね。だから、あまり接点がなくて、独立した感じになってるんだと思うよ」
「そう」
レイは、息を吐く。
「なら、フランも息抜きができるのね」
「………そうだね。そのつもりだよ。温泉付きの宿がないか探してみようか?」
「混浴希望?」
「とんでもございません」
「残念」
「残念なのかい!」
「冗談」
ほんの少しだけ目元を緩ませるレイ。
「………………君が冗談言うのは珍しいね」
がっかりと肩を落としてしまうのは、男の性であろう。
年齢差を考えると犯罪臭が漂っているが、そもそもそうした法も大災厄の影響で灰燼と帰している。最低限は守らなくてはならないモラルもあるだろうが、中には当然のように犯罪に走る連中も少なくはない。それが最も顕著なのが、廃都となるのだが。
「わたしなりの息抜き」
「そぉかい」
苦笑を浮かべながら、フランは背もたれに弛緩させた上半身を預けた。ポンと放り上げた保存食が、開いた口に落ちてくる。
「さて、と。食後の休憩を取ったら、出発しようか」
「うん。………あ、そうだ」
「なんだい?」
「その街の名前は?」
「あぁ……、その街は『央都』って呼ばれているらしいよ」
「じゃあ、行こうかね」
昼食後に半時間程度の仮眠。
熟睡ではなく、単に体を楽にして目を閉じていただけなのだが――それでも休息としては十分である。
軽く伸びをしたフランはキー回してエンジンを始動させ、再び穏やかな寝息をたてているレイが目を覚まさないように、ジープを緩やかに発進させる。
全く唐突ではあるが――
平和を絵に描いたような平穏の時間は、ここでいきなり幕を下ろす。
最初の異変は、背後から聞こえてきた荒っぽい排気音。
「んむ?」
今の時代では車を例にした鋼鉄の乗り物は珍しい代物である。
そもそも骨董品に分類されるこの手の代物は、今の時代においては珍しい。フランにしても、少し前まで身を置いていた村の趣味人に譲られていなければ、所有する機会などは巡ってこなかっただろう。
便利なのは確かだが、定期的なメンテナンスや燃料の補給などなど色々と手間のかかる代物でもあるのだ。『羽根』があればクリアできる問題ではあるのだが、そうした趣味に回せるだけの『羽根』を持つ者は極めて稀である。
それなら現在、主流として回帰している馬車などを活用した方が経済的だ。
「………………」
近づいてくる排気音の響きに悪い想像をしながら、フランは背後を確認する。
「んな!?」
視界に収まったのは車ではなく、中型サイズのバイクだった。
彼我の距離は三百メートルほどだろうか。かなりのスピードを出しているらしく、あっという間に距離が詰まる――と同時に、耳障りな雑音に音声が混じる。
「うわきゃぁぁぁぁぁぁぁぁ!」
悲鳴――というか、絶叫である。
通り過ぎていく刹那に、相手の姿を確認する。
若干癖のあるショートカットの金髪。レイと同い年ぐらいの少女が、だばっとギャグのような滂沱の涙を流しながら単車に跨っていた。
「なんなんすかぁぁぁぁっ! 日頃の行いは悪くないはずなのにぃぃぃぃっ!」
安全運転という言葉を軽く無視したような速度だったが、それでも向こうもこちらを認識したらしい。
「逃ぃ~げ~て~」
あっさりと遠ざかっていく背中が、そんな叫びを残していった。
千切れた草が虚空に舞っているのが、何かの名残のようだった。
「………………なんだ、ありゃ?」
そんな言葉しか出てこない。
停車して呆然と見送る傍らで、流石に目が覚めたらしいレイが目元に手を当てながら、
「なんなの?」
やや不機嫌そうな声を出す。
「いや、なんかよくわからん現象があっちから通り過ぎて………うえっ!」
背後を指差すために振り返ったフランは、さっきの少女の奇態の『理由』を目にして、意味のない叫び声をあげる。
「うわった――マジかよっ!」
動揺は刹那の内で押さえ込み、即座にジープを急発進させる。
「きゃっ!」
身構えていなかったレイが急発進に驚きの悲鳴を上げるが、申し訳ないが今は構っていられる状況ではなかった。
加速。加速! 加速!!
シフトチェンジをしながら、ガッツンガッツンとアクセルに蹴りを入れる。ここまで乱暴な加速は初めてだが、四の五の言ってられる状況ではない。
叩きつけられる風邪が痛いレベルだが無視。
「ふ……フラン……?」
帽子が飛んでいかないように押さえ込みながら、フランの突然の奇異な行いに不安そうな声を出すレイ。
「後ろ後ろ。後ろを見てくれ。ヤバイヤバイヤバイ……こんなところにあんなのが顕れるのは想定外だっ」
「え?」
風になびく髪を押さえたレイは後ろに目をやり、息を飲む。
わずか百メートルほどの至近距離にまで無音で接近していた存在に。
「そ……んな……」
見開いた目にありありとした恐怖が浮かび上がる。小刻みに体が震えているのは、ジープの振動だけではあるまい。
「どうして、……『御使い』がこんなところに」
彼女が視界に入れた存在を、フランもバックミラーで改めて確認する。
全長はおよそ二・五メートル。粘土をこねて人の形にしたようなのっぺらぼうの『人型』が、背中に光を放つ翼を生やして浮遊している。
頭上で光り輝く輪が神々しくも、おぞましい恐怖が肌を粟立たせる。
其は――
大災厄後の世界で、人類を脅かす二つの脅威の片割れ。
天災の如く現れ、ただ無意味に人々の在り方を『崩し』て、忽然と姿を消していく正体不明の存在。その存在を消去する手立ては未だに確立されておらず、遭遇すれば逃げるしか手立てのない小規模の局地災害。
それが『御使い』と呼ばれる存在である。
「さっきのバイク少女を追ってたみたいだけど、こっちに鞍替えしたみたいだ。全速力で突っ走るから、しっかり捕まっててよ」
物理的な手段で対抗しようなどと思うのは、絶望的なまでの愚行だ。
彼の存在に触れられれば、それだけで『羽根』にされてしまう。
即ち人生の終了である。
迷わず即座に逃亡を図る――それが唯一の対処法。
「――う、うん」
その返事を聞いた直後に、アクセルをベタ踏みした。
一気に加速するジープ。あっさりと時速百キロを超える。
背後に迫っていた『御使い』の姿があっという間に遠ざかっていく。
根本的に『御使い』の移動速度は、成人男性の全速力には及ばない。
不意の事態であっても冷静さを失わなければ、逃げ切るのは難しい話ではない。だが、スタミナは無限に等しく、その存在をこの世界で維持し続けられる限りは、何時までも獲物を追い求める。
たった一度だけ距離を離したぐらいで安心するのは、大きな間違いだ。
だから、フランはジープのエンジンが悲鳴を上げる全速力を、『御使い』の姿が見えなくなった後も十分間は持続させた。
やがて――
安全と言い切れるだけの絶対の距離を稼いだと確信してから、フランはジープの速度を落とした。
いつの間にか、周囲が木々に囲まれているが、道はそれなりに整備されている。このちょっとした森を抜ければ、央都はもう目と鼻の先だろう。
「………ふう」
「………はぁ」
全く同時に、フランとレイは上半身を前のめりにして、ため息を吐いた。
それは安堵の吐息だった。
「いやぁ~、お互いに無事に逃げ延びられたみたいでなによりっすね~」
安全な速度で走行するジープの傍らに、見覚えのある単車が並ぶ。
フランが速度を落としたのは、その単車に追いついたからでもあった。
お互いに停車して、乗り物を降りてから向き合う。
そんな必要はないのかもしれないが、これもなにかの縁である。
「も~びっくりしたっすよ。こんな長閑な平原であんな天災に遭遇するとは思わなかったから、思わず若い頃の血を滾らせて全速走行したっす」
あっはっはっはっ、と飾った様子なく笑う少女。
前述したように、やや癖のある金髪をショートに切り揃えている。大きな瞳を細めた快活な笑顔が、フランクな雰囲気を醸し出している。初見の印象ではレイと同じぐらいの年頃にも見えたが、改めて見ると二つは上のようにも見えた。
肩から足首までをすっぽりと覆う、長めの外套を着ているところから察するに、フランたちと同様の旅人だろうか。使用している乗り物がバイクというのがアレだが、年頃の娘が一人で歩き旅というのに比べると幾分か穏当だろう。
それに全くの無力というわけではなく、それなりに腕は立ちそうでもある。身のこなし、些細な動きにほとんど隙がない。
「いや、今も十分若すぎる年齢にしか見えないからね、君」
「いやぁ~、嬉しい誉め言葉っすね~。ナンパっすか? 自分かなりチョロいっすよ?」
「見たままの事実だから」
「ちょっと残念っす。意外といい男なのに――って、ああ~! 可愛い同行者がいるのにそんな不謹慎な真似するような無神経さは持ち合わせてないんすね」
「いなかったらしてるみたいな発言は、同行者に誤解を招くので控えてくれ」
「それは失礼したっす」
金髪少女は、邪気のない笑みを浮かべながらペコリと頭を下げる。
「あ、自己紹介が遅れたっすね。自分、エステルっす。悪の組織に所属してまっす。コレも何かの縁と思って、一つよろしくしてくれると嬉しいっすよん♪」
ぱっと右手を差し伸べてくる。
思わずといった風にその手を握り返しているレイは、相手のテンションというか早口についていけずに目を丸くしている。
そんな珍しい反応が、ちょっと微笑ましい。
「てか、ちょっと待ってくれ。なにか不穏なことを言わなかったか?」
「いえ、別に。ただの自己紹介っすよ。何を言ってるんすか」
「………………そうだよな」
釈然としない何かを感じながら、とりあえず納得する。
「……わたしはレイ。よろしく」
「俺はフラン」
「そこの彼、投げやりっぽい端的さっすね。自分とは仲良くしてくれないっすか?」
「いや、別に構わないけどさ。
とりあえず、君はどちらまで?」
「親しみを込めて『エステル』でいいっすよ。さんとかちゃんとか様とか殿とか余計な装飾は必要ないっすからね」
「わかったよ、エステル。――それで?」
「ちょっと遠くの街で一仕事を終えたので、央都に帰るとこっすね」
「それは奇遇だね。僕らも央都に向かっているところだよ」
「それじゃあこれも何かの縁ってことで、夕食でもご一緒にって感じでよろしくっすぅ~♪」
「はいはい」
「うん」
話が無難にまとまったところで、それぞれの愛車に乗車するべく背中を向ける。
そのタイミングで、何気なくエステルが口を開いた。
「ところで、その前に一つお願いがあるんすけど、聞いてくれるっすか?」
「その内容によるけれど、とりあえず聞くだけは聞いてもいいよ」
「あはは。そんなに警戒しなくても、簡単な話っすよ。フラン=グレビストさん」
「――――」
「とりあえず、あなたは死んでくれないっすかね?」
その言葉が紡ぎ終えられた瞬間。
フランとエステルの間から、高く響き渡る鋼の音。
「………え?」
レイには何が起こったのか理解できなかった。一部始終を目の当たりにしておきながら、あまりの速さに理解力がついていけなかったのだ。
エステルの外套の内側から滑り出た銀光が、フランの手の中に出現した白とぶつかり合ったのだ。
「………へえ。いい反応っすね」
軽くバックステップするエステル。
その手には短剣が握られている。
それで微塵の躊躇なく首を狙ってきたのだから恐れ入る。しかも、ほとんど殺気の無い一撃だった。荒事慣れしているというよりも、むしろ無意識に近いレベルで職業的だ。そうした行いが日常の一部になっているとみるべきか。
「基本的に初対面の人間は警戒するクセが身についていてね」
右手に握った白の銃。
それがフランの武器で、廃都にいた頃から愛用している取り出し自由の不思議道具だ。ただし、銃とはいっても従来の火薬で弾丸を打ち出すものではない。大気に漂う『何か』を取り込んで弾丸としているので弾数制限は存在しないし、その威力も非殺傷レベルに設定している。
護身用の小振りな回転式拳銃の形状をしているが、形には大して意味のない代物でもある。
「なによりも、そっちが事前に『警告』してくれたおかげで、首がまだ同じところにある。むしろ、お礼を言わせてもらいたいね」
フラン=『グレビスト』。
一部の人間に付けられた呼称であり、割と嫌な部分で知名度が上がりつつある二つ名である。そもそも家名などが存在しない出身なのでフランとしか名乗らない彼を、そう呼ぶような者は例外なく『嫌なお客様』に含んで間違いない。
「いやいや、小手調べで終わるとつまらないっすからね。礼には及ばないっすよ」
「――それで、どちら様かな?」
躊躇なく銃口を向けながら、シニカルに笑む。
空いた手でレイに下がっているようにジェスチャー。
伏兵の存在も考慮に入れておかなければならないのは常日頃から意識しているので、そうした意図も含めてジープを背にして立つレイ。
「悪の組織の一員という本業の傍ら、副業で『何でも屋』もしてるっす」
「………なるほど。」
よくわからない単語が含まれていたが、わかった振りをするフラン。
「フラン=グレビスト。大罪の反逆者。生死問わず。
レイ=フェザネス。要・生け捕り。
お二人を指定通りに依頼人の前に連れていったら、ちょっとした豪邸が建てられるぐらいの莫大な報酬が約束されているっすよ。気前のいいお客様は大好きなんすよね」
「………大罪の、反逆者……?」
カチンときた風にレイ。
都合のいい解釈を広めている『連中』への反発心は、フランも同感だ。
「まあ、正直、自分みたいなのに来る依頼で、表向きに公表される建前は信じてないんすけどね。見た感じだと、むしろそっちは被害者のようにも見えなくもないんすよね?」
そこんとこどうなんすか、と問いかけるような眼差し。
「そう思ってくれるのなら、黙って手を引いてくれないかな?
俺たちが望んでいるのは、穏やかに過ぎ去る日々なんだけどね」
「いやいや、それでもあの額は魅力的っすよ。
つまり、自分に手を引かせたいのなら………………」
「力尽くでって言いたいんだろ? 駄目だぞ。可愛い女の子がそんな物騒な世界に片足を突っ込んだりしてたらさ」
半分以上、本音の発言である。
レイの故郷でもある村での半年近くの生活を過ごした今となっては、廃都にいた頃の殺伐とした日常に戻る気がしないのと同じだ。
見放されたとはいえども、神様の計らいで世界は平和になったのだから、人類もそれに適応するべきだと思うのだ。
………まあ、腐り果てた連中は、何時の時代でも存在するのもフランとレイは不本意ながらに理解しているので、儚い願望ではあるのだが。
「あっはっはっはっ。女の子扱いされたのは久しぶりっすね。そのお礼にというには不適切かも知れないんすけど、命までは取らないでおくっす――よっ」
つまらない雑談の時間は終わりといわんばかりに、外套を放り投げたエステルが地を蹴る。
フランが初撃から予測した実力を、さらに一回り上回る速度で迫り来るエステル。
その口元には笑みが浮かんでいる。
戦闘に愉悦を見出しているかのようなその笑みは、フランの理解の及ぶものではなかったが、そうした笑みを浮かべる相手に言葉による説得は無意味だと判断した。
意識を切り替える。
とにかく、エステルを無力化しないと話が進みそうにない。
引き金を引いて、魔弾を発射。
実銃よりもやや遅いぐらいだが、それでも常人には捕らえきれるものではない速度の魔弾を、しかしエステルはひょいひょいと回避して間合いを詰めてくる。
この手の飛び道具に関しても、対処法を心得ているらしく全く危なげがない。
(どんな人生を送ってきたんだ)
内心で愚痴りながら、後ろ腰に差してある短剣を左手で鞘から抜き放ち、応戦。
鋼の打ち合う音が幾度となく響く。
動きの速さとは裏腹に、腕力はそれほどでもないが斬撃は鋭い。手数の多さで攻めて、隙が生じれば一突きというタイプのように思えた。
しかも、剣だけにこだわらない。
足癖も悪く。手癖も悪い。まさに縦横無尽の攻撃に晒される。
「どんどんいくっすよー」
間延びした声とは裏腹に、体捌きがどんどん加速している。
至近距離にありながら、いや、至近距離であるからこそ、銃の有利性が完全に殺されている。付け加えて、利き腕でない手で繰る短剣での攻撃も悉くが弾かれている。
防戦一方。
戦況は刻一刻と不利になっていく。
先手を取られたのが不味かったと後悔する。
より正確には、相手を侮りすぎて、意識を切り替えるのが遅かったのが致命的だった。廃都にいた頃ならば、ありえなかった失態だろう。
だが、それを以って、弱くなったというのならば、それもまた違う。
今のフランには、あの頃にはなかった『生きたい』という意志がある。
故に――さらに意識を切り替える。
無力化程度で済まそうと思うのは甘かった。ここから先は、生命のやり取りだ。
「――ひょっ」
エステルの髪の切れ端が虚空に舞う。
ほんの半瞬の差で、彼女の顔には深い傷が刻まれていた。
「本気になってくれたようでうれしいっすね」
コンパクトな身体の振りで放たれたエステルの後ろ回し蹴りが、フランの黒の丸眼鏡を砕き飛ばす。
「ちっ」
意外と気に入っていた小物を粉砕されたので舌打ち一つ。
互いの剣の刃が幾度となくぶつかり合う。
鋼と鋼の打ち合う音が幾度となく響く。響く。響く。
そして、利き腕の不利とわずかな技量の差が、フランの手から短剣を弾き飛ばした。クルクルと回転しながら放物線を描いた短剣は、エステルの背後数メートルの地点に落下した。
「もらったっすよ」
「――甘いっ!」
好機に攻め込むエステルだが、この一連の流れはフランの計算だ。
「銃が一丁だけとは――」
無手となった左手の中に、黒の銃が現れる。
白と黒の二丁拳銃。それがフランの武器の本来の形だ。
「言ってないっすよね。当然、想定済みっす」
エステルの無手だった左手に、投げナイフが三本現れる。手のわずかな動きで出てくるように袖の内側に細工を施していたのだろうが、傍から見ている分には魔法のように忽然と現れたようにしか見えない。
後ろに跳躍しながら、手首の動きだけで刺殺レベルの投擲。
「――っ!」
尋常じゃねぇと焦りながら、二挺拳銃の乱射で迎撃。
かろうじて迎撃に成功したが、そちらの方に完全に意識を振り分けたために身体が硬直してしまう。
一手、確実に出遅れた。
その瞬間の間隙に、エステルは更なる攻勢に出る。
標的の動きは固定した。距離も取った。後は広範囲攻撃で詰みだ。
見えた勝機に、エステルは切り札を――切った。
依頼人が仕事の手助けにと寄越した純度の高い『羽根』を取り出す。
「燃え尽きろっす」
人差し指と中指で挟んだ『羽根』の内側に秘められた『奇跡』を、全て炎へと変換し、フランへと解き放つ。直径にして五メートルはありそうな巨大な火球がフランを飲み込む。
ゴアッ――と爆炎が炸裂する。
「人類滅ぼそうとしてまで、再生させた自然に火をかけるのは心が痛むっすけど、消火・修繕用の『羽根』も用意しているのでどうか許して下さいっす。だから、『御使い』や『死徒』を召還しての天罰は勘弁っすよ、神様♪」
眼前の炎に包まれた光景に、パンッと手を合わせて一礼。
「お仕事、終了っすね。ご同行を願うっすよ」
くるりとレイへと向き直るエステル。
「まだ終わってないよ」
状況に相応しくない冷静さでレイが言う。
「何を言ってるんすか? あれで生きてる人間がいるわけないっすよ。いや、殺さないって言っておきながら、この結果は不徳の致すところっすけど、フランさんが思ったよりも強くて熱くなっちゃった結果なんだから悪く思わないで欲しいっすね」
やれやれという風に頭を振りながら、無言でエステルの背後を指差すレイ。
レイに戦闘能力がないのは明白なので、エステルも渋々ながら振り返る。
そこに無傷で佇んでいるフランを見て、硬直する。
「な、なんで……っすか?」
「この二丁拳銃な。大気に漂う何かを吸収して、弾丸に変換しているんだよ。その何かってのはいまいち把握できていないんだが、それは『羽根』の起こす奇跡に使われている『力』でも代用が可能なんだよ」
悪戯の成功した子供のような笑顔で、白の銃を向けているフラン。
「吸収したっていうんすか!?」
「そういうこと。そして、取り込んだなら放出するのが、正しい使い方なんだよな」
「つまり?」
下手な愛想笑いで時間稼ぎを目論みながら、エステルは打開策を練るが、当然のようにフランはそれを待たない。
「できれば死ぬなよ。後味悪いからな」
にっこり笑って、フランは一切の躊躇なく引き金を引いた。
そういう思い切りのよさは、廃都暮らしの嬉しくない恩恵である。
特大の火球が返礼として撃ち返される。
「あんぎゃ~~~~~~~っ!」
愉快な悲鳴を上げて、エステルは爆炎に飲まれた。