螺旋の秒針
人は過去から逃れることは出来ない。中心となる過去の周りを回り続けているだけだ。
四月半ばの、湿り気を帯びた風が吹く午後だった。
都心の雑居ビルの三階、家庭用ゲーム機のコントローラーのボタンを叩くような、乾いたタイピング音だけが響く狭い事務所。野々村修平は、目の前の古いデスクトップPCのモニターを見つめたまま、今朝から何度目かわからない溜息を吐いた。
「野々村さん、また手が止まってますよ。締め切り、今日の十八時ですからね」
隣のデスクで、領収書の束と格闘している後輩の佐々木が、画面から目を離さずに声をかけてきた。
野々村は「わかってる」と短く返し、コーヒーカップに手を伸ばした。中身はとうに冷めきり、表面には油膜のようなものが浮いている。
野々村の職業は、テクニカルライターだ。新しく発売される家電や産業用機械の取扱説明書を、誰にでもわかる平易な日本語に翻訳する。感情の入り込む余地のない、極めて記号的な仕事だ。彼はこの仕事を愛していた。そこに「物語」がないからだ。
しかし、今日取り組んでいるのは、ある老舗時計メーカーが創立百周年を記念して発行する、限定モデルの解説文だった。ただのスペック紹介ではない。「継承される時間」というテーマで、情緒的なリード文を添えることが求められている。
『時間は、止まることなく未来へ流れる。』
その一行を打ち込み、すぐにバックスペースキーを連打して消去した。嘘だ、と彼は思う。時間は流れない。少なくとも、ある種の人間にとっては。
二十年前の夏、野々村は地方都市の高校生だった。
科学部に所属し、放課後は理科準備室の片隅で、壊れたラジオや中古のPCを分解しては組み立てることに没頭していた。そこには、同じ部員の高木という男がいた。高木は、野々村が唯一、自分の「言葉」を介さずに意志を疎通できる相手だった。
二人は、古い振り子時計の修繕に取り組んでいた。廃校になった小学校の講堂に放置されていた、高さ二メートル近い古時計だ。歯車は錆びつき、重りは床に転がっていた。
「これをもう一度、一秒の狂いもなく動かしたいんだ」
高木はそう言って、細いピンセットで真鍮の歯車を磨いていた。
野々村は、その横顔を覚えている。窓の外からは、暴力的なまでの蝉時雨が降り注いでいた。
結局、その時計が再び時を刻むことはなかった。修繕の最終段階、高木が一人で作業をしていた夜、理科準備室で漏電による火災が発生した。高木は、運び出そうとしたのか、その重い時計の下敷きになった状態で発見された。
野々村の時間は、その日の、焦げた木材とオイルが混ざり合った匂いの中で止まっている。
以来、彼は「中心」の周りを回り続けている。大学で精密機械を専攻したのも、結局は時計を直せなかった自分への罰のようでもあった。しかし、結局彼は物を作る側には回らず、物の仕組みを説明するだけの、この静かな事務所に辿り着いた。
「……野々村さん、お客さんです」
佐々木の声に顔を上げると、事務所の入り口に、白髪の混じった、しかし背筋の伸びた老紳士が立っていた。先述の時計メーカーの広報担当、松下氏だ。
「突然お邪魔してすみません。例の記念モデルの試作品が、ようやく一つ上がってきたものですから。執筆の助けになればと思いまして」
松下氏がデスクの上に置いたのは、黒いベルベットのケースだった。蓋を開けると、そこには銀色の光沢を放つ腕時計が収まっていた。
文字盤は極めてシンプルだが、特筆すべきは裏蓋だ。シースルーバックになっており、緻密に組み上げられたムーブメントが、心臓の鼓動のように規則正しく動いている。
「このモデルのコンセプトは『修復』なんです」
と松下氏は言った。
「弊社の創業者たちが、戦後の焼け跡で拾い集めた古い時計の部品を磨き直し、新しい命を吹き込んだ。その精神を、現代の技術で再現しました」
野々村は、吸い寄せられるようにその時計を手に取った。ずっしりとした重み。耳を寄せると、チ、チ、チ、という乾いた音が聞こえる。
その音は、あの日、理科準備室で高木が追い求めていた理想の「一秒」と同じ響きがした。
「……野々村さん?」
松下氏が怪訝そうに覗き込んできた。野々村は、自分が無意識のうちに時計の竜頭を指でなぞっていたことに気づき、慌てて手を離した。
「失礼しました。素晴らしい……精巧な造りですね」
「ええ。ただ、機械は正直です。どんなに新しく見えても、設計の根底にあるのは百年前の理論です。過去の蓄積がなければ、この一秒は刻めない。我々は常に、過去を抱えて未来を向いているんですな」
松下氏が去った後、事務所には再びタイピング音だけが残った。
野々村は、先ほど消した白紙の画面に向き合った。
過去から逃れることはできない。ならば、その円運動を、単なる停滞ではなく、螺旋のように少しずつ上へ登る力に変えることはできないだろうか。
彼はキーボードを叩き始めた。
『時間は、過去を切り捨てて進むのではない。
すべての歯車は、かつて誰かが磨いた記憶を噛み合わせ、今の「一秒」を産み落としている。』
筆が止まらなくなった。
高木の指の汚れ、真鍮を磨く音、理科準備室の埃っぽい空気。忌まわしい火災の記憶だけでなく、その前にあった、静謐で熱い「時間」までもが、言葉となって溢れ出してきた。
「おっ、野々村さん、ノッてきましたね」
佐々木が驚いたような声を上げる。
野々村は答えなかった。ただ、画面の中の文字を、一つずつ丁寧に整えていった。
取扱説明書ではない。これは、自分がなぜ今ここにいるのかを、自分自身に説明するための文章だった。
外の風は、いつの間にか止んでいた。
夕闇が街を包み込み、街灯がポツポツと灯り始める。
十八時丁度。
野々村は、完成した原稿を送信した。
送信完了のダイアログボックスが消えた後、彼は深く椅子にもたれかかった。
過去という中心点は、消えることはない。けれど、その周りを回る軌道は、ほんの少しだけ、昨日よりも外側へ、あるいはもっと深い場所へと広がったような気がした。
彼は冷めきったコーヒーを一口飲んだ。苦みの中に、わずかな甘みを感じた。
「佐々木、帰り、何か食べていくか」
「えっ、野々村さんから誘うなんて珍しいですね。いいですよ、駅前の定食屋でも行きますか」
野々村は、使い古した鞄を肩にかけた。
事務所を出る際、壁に掛けられたクオーツ時計を見た。
一秒。
その刻みに、もう怯える必要はない。彼は、過去という名の重力を背負いながら、夜の街へと踏み出した。




