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【至急】婚約破棄されたので復讐したいのですが、元婚約者がレスバ最強すぎて論破されまくり、反転アンチになりました。どうすれば勝てますか?【助っ人の賢者様も論破されて泣いてるんですが?】え?どうする?これ

作者: 文月ナオ


「リリアナ・ベルンシュタイン公爵令嬢。君との婚約を、今この時をもって破棄する」


 その声は、驚くほど冷徹で、そして一切の抑揚がなかった。


 周囲の喧騒が一瞬にして凍りつく。


 視線の中心に立つのは、この国の第一王子であり、私の婚約者であるアレックス殿下。


 彫刻のように整った顔立ちに、知性という名の刃物のような鋭さを宿した銀縁眼鏡をかけている。


 来た。


 ついに、来たわ。


 私は心の中で、ガッツポーズをした。


 私は前世の記憶を持つ転生者だ。


 ここは乙女ゲームの世界で、私はヒロインを虐げる悪役令嬢リリアナ。


 そして目の前にいるアレックス王子は、メイン攻略対象にして、私を断罪する役割を持つ冷徹な王太子。


 本来なら、ここで私は無様に泣き叫び、衛兵に引きずられて退場する運命にある。


 けれど、私もただ漫然と悪役を演じてきたわけではない。


 この日のために、いざという時のための「反論」を用意してきたのだ。


 何故、反論をするか。それは普通に、私が彼をまだ好きだからだ!


 私は扇をパチリと閉じ、あえて不敵な笑みを浮かべてみせた。


「……婚約破棄、でございますか? 理由をお伺いしてもよろしいでしょうか、殿下」


「理由か。いいだろう」


 アレックス殿下は、手元の分厚い羊皮紙の束を隣に控える執事のトレーの上から取り上げる。


 なぜパーティー会場にそんなものを持ち込んでいるのかは謎だが、それをパラリとめくった。


 そして、眼鏡のブリッジを中指で押し上げながら、淡々と言い放った。


「結論から言おう。君は、王太子妃としての『適性』が、王家が定める基準値を著しく下回っている。以上だ」


「て、適性……?」


 浮気でも、いじめでもなく?


 予想外の単語に、私は一瞬言葉を詰まらせた。


「ええと、それはつまり、私に至らない点があったと? しかし殿下、私は幼い頃より厳しい王妃教育を受け、全ての科目で最高評価を得ておりますわ。語学、歴史、礼法、魔術理論……どれをとっても、歴代の王妃様に引けを取らないはずです!」


 そう、ここが私の強みだ。


 悪役令嬢としてのプライドにかけて、能力面での努力は惜しんでいない。


 成績表という「証拠」がある以上、能力不足を理由にするのは無理筋なはず。


 さあ、どう返す!?


 アレックス殿下は、憐れむような目で私を見下ろした。


「リリアナ。君は『机上の点数』と『実務能力』を混同しているようだね」


「はい?」


「君が挙げたのは、あくまで学園という閉鎖的な箱庭における筆記試験の結果に過ぎない。私が問題視しているのは、君の実務における『費用対効果』の悪さだよ」


「ひ、費用対……?」


 な、なにを言っているの、この王子様は。


 殿下は羊皮紙の一枚を引き抜き、私に見せつけた。


 そこには、謎の図表と数式がインクでびっしりと書き込まれている。


「先月の君の行動記録を分析させてもらった。君は『王妃教育の復習』と称して、一日平均4時間を図書室で過ごしているね」


「ええ、それが何か? 勉学に励むことは美徳ですわ」


「だが、その成果は? 君がその4時間を費やして得た知識が、実際の公務や領地経営において、どの程度の利益を生み出したか。……算出してみたが、ほぼ皆無だ」


 は?


「君の学習は、単なる自己満足の域を出ていない。投資した時間という労力に対して、見返りが見合っていないんだよ。王家が必要としているのは、教科書を丸暗記する優等生ではなく、最小の労力で最大の利益を国家にもたらす『経営者』だ」


「っ……! そ、それは、これから経験を積んで……!」


「『これから』? 不確定な未来の可能性に、国家予算を賭けろと言うのか? あまりに希望的観測が過ぎるな。君のその発言には、確たる根拠がない」


 ぐっ、と胸が詰まる。


 な、なによその言い草!


 でも、負けてはいられない。


 私にはまだ、切り札がある。


 そう、この会場にいる「彼女」を使った冤罪の否定だ!


「百歩譲って、私の実務能力が不足しているとしましょう! ですが殿下、婚約破棄の本当の理由はそれだけではありませんわよね?」


 私はビシッと、殿下の後ろに控えていた男爵令嬢ミナティを指差した。


 ふわふわとしたピンクブロンドの髪を持つ、愛らしい少女。


 彼女こそが、このゲームのヒロインだ。


「そこにいるミナティ男爵令嬢! 殿下は彼女に熱を上げているから、私という存在が邪魔になったのではありませんか!?」


 会場がざわめく。


 そうだ、これが世間の認識だ。


 優秀な婚約者を捨てて、ぽっと出の平民上がりの少女に入れ込む愚かな王子。


 その構図に持ち込めば、世論は私に味方する!


「ふむ」


 しかし、アレックス殿下は眉一つ動かさなかった。


 むしろ、呆れたようにため息をついたのだ。


「君の思考回路は、どうしてそう短絡的なんだ? 論理の飛躍も甚だしい」


「ひ、飛躍ですって!?」


「私がミナティ嬢と懇意にしている、という前提自体が、君の主観による偏見だ」


 殿下は再び羊皮紙をめくる。


「過去3ヶ月間、私がミナティ嬢と接触した時間は、合計で2時間15分。対して、執務室で宰相と会話していた時間は340時間だ。この数字を見て、私が彼女に『熱を上げている』と判断するのは、あまりに無理があると思わないか?」


「す、数字の問題ではありません! 殿下は彼女に優しく微笑みかけていたではありませんか! 私には一度も見せたことがないような顔で!」


「微笑み? 定義が曖昧だな」


 うっ。


 なんなのこの言葉の圧!


「君の言う『優しい微笑み』とは、具体的に口角がどのような角度になり、目元がどう変化した状態を指すんだ? その表情が『好意』に基づくものだと、どうやって証明する?」


「そ、それは……女の勘、ですわ!」


「勘。つまり、再現性のない思い込みだね。却下だ」


 バサリ、と切り捨てられる。


「私がミナティ嬢に向けた表情は、あくまで『国民に対する慈愛の演技』の一環だ。彼女は特待生として入学し、平民からの支持も厚い。彼女と友好的な関係を築くことは、王家の支持率向上に寄与するという計算に基づく行動に過ぎない」


 殿下は冷徹な瞳で私を射抜いた。


「それを『浮気』だの『熱を上げている』だの、君の貧困な想像力で歪曲して解釈するのはやめてもらいたい。迷惑だ」


「うぐぐ……っ!」


 反論できない。


「女の勘」を「再現性のない思い込み」と言われてしまっては、これ以上何を言っても「妄想」扱いされるだけだ。


 悔しい。


 悔しいけれど、言葉が出てこない。


 でも、これだけは言っておかなくては。


 悪役令嬢としてではなく、一人の「リリアナ」としての想いを。


「……で、でも! 私は……私は殿下をお慕いしております! この想いだけは本物ですわ! だからこそ、厳しく接することもありましたし、嫉妬もしました! 全ては愛ゆえの行動です!」


 そうだ。


 これならどうだ。


 愛という感情論。


 計算高い彼には理解できないかもしれないけれど、人の心に訴えかける最強のカード!


 しかし。


 アレックス殿下は、眼鏡の奥の瞳をスッと細めた。


「愛、か」


「はい!」


「その言葉の定義について議論するつもりはないが……リリアナ。君の言う『愛』とやらは、行動と矛盾しているよ」


「え?」


「君は先月、私の誕生日に何を贈った?」


「ええと……最高級の万年筆を。殿下が執務でお使いになるものですから」


「そうだね。市場価格で金貨50枚。確かに高価な品だ。だが、私が現在愛用している万年筆の工房や、書き味の好みについて、君は事前に調査をしたか?」


「……い、いいえ。驚かせたかったので」


「結果として、君が贈った万年筆は、私の筆記癖には合わず、重心のバランスも悪かった。一度試し書きをして、そのまま引き出しにしまってある」


 ガーン。


 そ、そんな……。


「対して、君は騎士団長の息子……ケインとは、彼の剣の好みを2時間以上熱心に聞き出し、彼に最適な手入れ道具を贈っているね」


「なっ!? な、なぜそれを……!?」


 それに、あれはケインが「殿下の護衛任務に就くから、最高の状態で剣を仕上げたい」と相談してきたから、協力しただけで……!


「君の行動記録を見れば明白だ。君は『愛している』と口では言いながら、私という人間を理解するための労力を割いていない。その一方で、他者にはきめ細やかな配慮を見せている」


 殿下は羊皮紙の束を、バサリと閉じた。


「この事実から導き出される結論は一つだ。君の言う『愛』は、自分に酔うための装飾品に過ぎない。あるいは、口先だけの欺瞞ぎまんだ。……違うか?」


「っ……!!」


 違う。


 違うのに!


 私はただ、殿下の喜ぶ顔が見たくて、最高級の品を選んだだけで!


 ケインとのことも、殿下のためだったのに!


 でも、「そのためだった」と証明する「記録」がない。


 彼が信じるのは、私の言葉ではなく、彼が集めた冷酷なまでの「事実」だけ。


 私の目から、ポロポロと涙がこぼれ落ちた。


 悲しみよりも、悔しさが勝っていた。


 自分の気持ちが、数式と理屈で解体され、ゴミ箱に捨てられたような屈辱。


「……もう、結構ですわ」


 私は震える声で言った。


「私の想いが、殿下にとっては単なる『非効率な雑音』でしかないというのなら……これ以上、お側にいる資格はありませんものね」


「理解が早くて助かるよ。慰謝料については、王家の算定基準に基づき、過不足なく支払おう」


 事務的だ。


 最後まで、徹底的に事務的だった。


 私は涙を拭い、精一杯の虚勢を張って、彼を睨みつけた。


「謹んでお受けいたしますわ! ……いつか、後悔なさいませ! 計算式では割り切れない『人の心』という不確定要素が、貴方の完璧な計画を狂わせる日がきっと来ますから!」


 それが、私の精一杯の捨て台詞だった。


 アレックス殿下は、相変わらず無表情のまま、


「忠告感謝する。リスク要因として記憶しておこう」


 とだけ答えた。


 ああもう!


 アホくさ! 


 ……なんでこんなやつのこと、好きだったんだろ。


 私はドレスの裾を翻し、逃げるように会場を後にした。


 背中で聞こえる貴族たちの嘲笑よりも、胸に突き刺さった彼の「論理の刃」の方が、何倍も痛かった。




 ◇◆◇




 王城を飛び出した私は、そのまま馬車を飛ばし、王都から遠く離れた「迷いの森」へと向かった。


 雨が降り始めていた。


 私の涙雨だろうか。


 いや、そんなロマンチックなものではない。


 ただただ、惨めで、寒くて、情けないだけだ。


(……許さない。絶対に許さないんだから!)


 馬車の中で、私は拳を握りしめていた。


 論破されたことが悔しいのではない。


 私の十年間の想いを、「調査不足」の一言で否定されたことが、許せなかった。


 愛は憎しみへと変わった。


 これが、反転アンチと言うやつなのだろうか?



 でも、私一人の頭では、あの論理モンスターに勝てないことは明白だ。


 感情でぶつかれば「定義が曖昧だ」と返され、事実で戦おうにも「証拠が足りない」と詰められる。


 なら、どうすればいい?


 答えは一つ。


 私よりも賢い「知恵者」を味方につけるしかない。


 この国の伝承によれば、この「迷いの森」の奥深くには、世俗を嫌って隠遁した、伝説の大賢者が住んでいるはずだ。


 彼は、王国の歴史、古代魔法、そして森羅万象の理を全て記憶していると言われる天才。


 かつて国の危機を予言し、たった一人で国を救ったという英雄。


 彼なら。


 あの賢者様なら、アレックス殿下の鉄壁の論理を崩す「最強の反論」を授けてくれるはず!


「待ってなさい、アレックス……! 必ずあんたをギャフンと言わせて、涙目で『参りました』と言わせてやるから(賢者の力で)!」


 私は馬車を降り、泥だらけになりながら森の奥へと進んだ。


 そして、ようやく見つけた。


 古びた、(つた)の絡まる小さな(いおり)


 ここだ。


 ここに、私の救世主がいる。


 私は祈るような気持ちで、その扉を叩いた。


 ドンドンドンドン!!


「開けてぇぇぇ! 開けてください賢者様ぁぁぁ! 緊急案件ですの! 私のライフがもうゼロなんですぅぅぅ!」


 なりふり構わず叫ぶ。


 しばらくすると、扉の奥から「あー……」という気だるげな声が聞こえ、ギィ、と重い扉が開いた。


「……うるさいなぁ。なんだい君は。ボクは今、三日ぶりに成功した古代魔術の術式構築で忙しいんだけど」


 そこに立っていたのは、ボサボサの黒髪に、瓶底のような分厚い丸眼鏡をかけ、継ぎ接ぎだらけのボロボロのローブを纏った青年だった。


 目の下にはクマ。


 手には食べかけの乾燥した木の実(多分、魔力回復用)。


 ……え?


 これが、伝説の大賢者?


 ただの浮浪者ではなくて?


「あの……失礼ですが、こちらに『森の賢者』様がいらっしゃると伺って……」


「ん? ああ、ボクのことだけど。……何? サインなら書かないよ。帰ってくれる?」


 青年はパタンと扉を閉めようとした。


 いけない!


 ここで帰されたら、私はあの論破王子に一生負け犬扱いされる!


 私はガバッと扉の隙間に足をねじ込んだ。


「待ってください! お願いします、知恵をお貸しください! お金なら払います! 公爵家の財産を切り崩してでも!」


「金? いらないなぁ。森の生活でお金使わないし。ボクが欲しいのは、静寂と、失われた古代文字の石版だけなんだよ」


「そ、そんな……!」


「じゃ、さよなら」


 無慈悲に閉まりかける扉。


 その時、私の口から、とっさに言葉が飛び出した。


「ふ、復讐なんです! 私、論破されたんです! すっごくムカつく、理屈っぽい男に!」


 その言葉に、青年の動きがピタリと止まった。


 彼はゆっくりと扉を開き直し、眼鏡の奥の瞳を少しだけ光らせた。


「……理屈っぽい男?」


「はい! 『定義が曖昧だ』とか『確たる証拠を出せ』とか『費用対効果が』とか、そんなことばかり言う可愛げのない男です!」


「へぇ……」


 青年は木の実をガリッとかじり、ニヤリと笑った。


「面白そうだね。ボクもね、そういう『賢しいだけで中身のないインテリ』が大嫌いなんだよ」


 やった。


 食いついた!


「それに、ボクの研究を妨害した君の話が、もしつまらなかったら……その時は、君を実験用のカエルに変えさせてもらうけど、いい?」


 ひぃっ。


 な、なんて物騒な条件。


 でも、私に後退の二文字はない。


 反転アンチになった以上、もう引けないのだ。


「構いませんわ! 私の話を聞けば、きっと賢者様も義憤に駆られるはずです!」


「自信過剰だなぁ。ま、いいや。入りなよ」




 ◇◆◇




 賢者の庵に入ると、そこは足の踏み場もないほどのゴミ屋敷──もとい、知識の宝庫だった。


 床には読みかけの魔道書が山積みになり、机の上には何かの実験器具と、食べ終わった食器が仲良く並んでいる。


 賢者様、名をクロノというらしい。


 彼は、部屋の隅にある万年床のようなソファにドカッと座り込むと、またポテトチップス(のような芋菓子)をポリポリと齧り始めた。


「で? 君を論破したその男、第一王子のアレックスくんだったっけ。彼がなんて言ったの?」


 私は鼻息も荒く、さっきの屈辱的なやり取りを再現して見せた。


 適性がないと言われたこと。


 学習時間を無駄な投資だと言われたこと。


 そして何より、「愛」を「証拠不足」で切り捨てられたこと。


「……なるほどねぇ」


 クロノ様は天井を見上げながら、気だるげに欠伸をした。


「要するに、彼は『合理性』という宗教の狂信者なわけだ。感情や目に見えない価値を一切認めず、数字と結果だけを信仰している。……可哀想な人だね」


「可哀想、ですか?」


「うん。だって、世界は計算式だけで成り立っているわけじゃないからね。人の心も、魔法の理も、突き詰めれば『不確定なゆらぎ』の中にこそ真理がある。それを否定するなんて、賢さを履き違えた愚か者のすることだよ」


 おお……!


 さすがは賢者様!


 言うことが深い! 哲学的! なんか賢そう!


 私は身を乗り出した。


「では、勝てますか!? あの屁理屈メガネに!」


「勝てるよ。簡単だ」


 クロノ様はニヤリと笑った。


「彼のようなタイプは、自分の想定外の事象に弱い。ボクが『高次元の概念』と『古代の叡智』をぶつければ、彼のちっぽけな物差しなんて一瞬でへし折れるさ」


 頼もしい!


 これよ、私が求めていたのは!


 勝った!!


 私一人の頭脳では太刀打ちできなくても、この国の歴史を知る大賢者様が味方なら百人力だわ。


 私は拳を握りしめ、高らかに宣言した。


「やりましょう、賢者様! 今すぐ城へ乗り込んで、あの男を完膚なきまでに叩きのめしてやるんです! 私はもう、ただの元婚約者じゃありません。彼への愛が反転し、最強のアンチへと進化した復讐鬼ですわ!」


「熱心だねぇ。ま、ボクも久しぶりに外の空気を吸いたかったし、散歩がてら付き合ってあげるよ。アレックスくんのようなうざい理論武装の人間の鼻をへし折るのは、最高に楽しそうだからねぇ」


 クロノ様はよっこらせと立ち上がると、ボロボロのローブを翻した。


「さあ、行こうか。愚かな王子に、本当の『知性』というものを教えてあげよう」


 その時の彼の背中は、確かに伝説の英雄のように大きく見えた。




 ……見えたのよ、その時は。




 ◇◆◇




 数時間後。


 私たちは王城の正門前に立っていた。


 本来なら、追放を言い渡された私が再び城に入ることなど許されない。


 門番の騎士たちが槍を交差させ、行く手を阻む。


「リリアナ嬢! 退去命令が出ているはずだ。お引き取り願おう!」


「どきなさい! 私は殿下に忘れ物を届けに来たのよ!」


「忘れ物?」


「ええ。……『引導』という名の忘れ物をね!」


 私が啖呵を切ると同時に、隣にいたクロノ様がスッと手を挙げた。


「通してくれないかな。ボクは賢者クロノ。王家の古き盟約に基づき、謁見を求める」


 彼が指先を鳴らすと、空中に複雑な幾何学模様の魔法陣が浮かび上がり、そこから王家の紋章が光となって現れた。


 門番たちがどよめく。


「なっ……あれは、初代国王より賜りし『賢者の通行証』!?」


「本物の大賢者様なのか!?」


 騎士たちが慌てて膝をつき、道を開ける。


 すごい。


 本当に顔パスだわ。


 私たちは悠々と城内を進み、アレックスのいる執務室へと向かった。


 廊下ですれ違う貴族や侍女たちが、ギョッとした顔で私たちを見る。


 無理もない。


 森の中を彷徨い、泥だらけのドレスを着た元婚約者と、浮浪者みたいな格好の男が歩いているのだから。


 でも、今の私にはそんな視線はどうでもいい。


 大事なのは、あのアレックスの驚く顔と、悔しがる顔を見ることだけ!


 バンッ!!


 私はノックもせずに、執務室の扉を両手で押し開けた。


「ごきげんよう、アレックス殿下! リリアナ・ベルンシュタイン、地獄の底から舞い戻ってまいりましたわ!」


 広い執務室の中、書類の山に埋もれるようにして座っていたアレックス殿下が、ゆっくりと顔を上げる。


 その隣には、男爵令嬢のミナティ。


「あらぁ、リリアナ様? もう出て行かれたと思っていましたのに。まだ何か用ですのぉ?」


 ミナティがねっとりとした声で煽ってくる。


 この女、殿下の執務中だというのに、ソファで紅茶なんて飲んで優雅な身分だこと。


 アレックスは、眉間に皺を寄せ、冷ややかに私を見た。


「……不法侵入だぞ、リリアナ。衛兵を呼ぶ前に、30秒以内で用件を述べて失せたまえ」


「30秒もあれば十分ですわ! 殿下、貴方は私を『論理的でない』と切り捨てましたわね。ですが、それは貴方の視野が狭いだけだということを、この方が証明してくださいます!」


 私はビシッと横へ身を逸らし、クロノ様を紹介した。


「ご紹介します! この方こそ、森の奥に住まう伝説の大賢者、クロノ様です!」


 クロノ様が一歩前へ出る。


 ボサボサの髪をかき上げ、眼鏡の奥から鋭い眼光を放つ。


 さあ! いけ! 私の知恵袋!


「やあ、初めまして若き王子よ。君の噂は聞いているよ。なんでも、数字遊びがお好きだそうで?」


 おお、挑発的!


 アレックスが、眼鏡の位置を直しながらクロノ様を観察する。


「……賢者クロノ。文献でその名は承知している。だが、そのような薄汚れた身なりの男が、伝説の英雄と同一人物だという証拠は?」


「証拠? フッ、開口一番にそれか。つまらない男だね」


 クロノ様は鼻で笑った。


「ボクが賢者であるかどうか、そんなことは些末な問題だ。重要なのは、ボクが君の『論理』の矛盾を見抜き、君に忠告を与えに来たという事実さ」


「矛盾だと?」


「そうさ。君はリリアナ嬢を『費用対効果が悪い』と言って捨てたそうだが……それは大きな間違いだ。なぜなら、人の価値とは『未来への可能性』そのものだからだよ」


 クロノ様は両手を広げ、朗々と語り始めた。


「君の計算式には、『不確定性』という変数が欠けている。人は変わる。成長する。その可能性を現在の数値だけで断じるのは、早計であり、傲慢だ。……君は、種を撒かずに果実を求めているに過ぎない」


 決まった……!


 素晴らしい正論!


 これにはアレックスもぐうの音も出ないはず!


 私は勝ち誇った顔でアレックスを見た。


 しかし。


 アレックスは、全く動じていなかった。


 むしろ、氷点下の眼差しでクロノ様を見据え、手元の書類──またどこから出したのか分からないものをめくり始めた。


「……なるほど。それが賢者の主張か。抽象的で、具体性に欠ける精神論だ」


「……ん?」


「『可能性』? 『不確定性』? そんな耳触りの良い言葉で現実逃避をするのはやめたまえ。政治とは、限られたリソースをいかに効率的に配分し、最大多数の幸福を実現するかという、極めて現実的なパズルだ」


 アレックスはペンを取り出し、空中に魔法で素早く数式を書き殴った。


「賢者殿。貴殿はかつて、100年前の大飢饉の際、王国の貯蓄米を全て放出し、民を救ったとされている。美談だね。だが、その結果として翌年の種籾が不足し、経済復興が5年遅れたというデータがあるのをご存知か?」


「え?」


 クロノ様の顔が引きつる。てかこの人何歳よ。長命種か?


「貴殿の行動は、短期的には人道的だったかもしれない。だが長期的視点──つまりマクロ経済学的観点から見れば、国家の成長率を3.5パーセント押し下げる要因となった。これは明らかな失政だ」


「い、いや、あれは目の前の命を救うために……!」


「感情論だ。その『目の前の命』を救うために、未来の何千人もの国民が貧困に喘ぐことになった。貴殿の言う『未来への可能性』を摘み取ったのは、他ならぬ貴殿自身の感情的な判断ではないのか?」


「っ……!!」


 クロノ様が後ずさる。


 ま、待って。


 なんか空気が怪しい。


 こいつ(賢者様)、押されてね?


 アレックスは追撃の手を緩めない。


「それに、貴殿は先ほど『種を撒かずに』と言ったが、リリアナに対する教育投資──つまり『種まき』は、既に10年間行われている。その累積投資額は、国庫からの支出を含めると金貨3000枚に上る。10年待って芽が出ない種に、これ以上水をやり続けることが『可能性』だと? それはただの『埋没費用』への執着だ」


「ぐ、ぬぬ……」


「さらに言えば、貴殿のその身なり。衛生観念の欠如は、公衆衛生上のリスク要因だ。そのような非論理的で不潔な人物の言葉に、私が耳を傾ける合理的理由があると思うか? エビデンスを示してほしい」


 アレックスの言葉は、鋭利な刃物のようにクロノ様を切り刻んでいく。


 クロノ様は顔を真っ赤にし、ワナワナと震え出した。


「ぼ、ボクは……ボクは賢者だぞ! 古代魔法だって使えるし、すごいんだぞ!」


「権威主義に訴えるのか? 論理で勝てない人間が最後にすがるのは、いつだって肩書きと過去の栄光だ。……失望したよ。伝説の賢者も、所詮は時代に取り残された老害か」


「ろ、ろ……老害ぃ……!?」


 その一言が、決定打だった。


 クロノ様の目から、大粒の涙が溢れ出した。


「う、うわぁぁぁぁん!! ひどいよぉ! ボク、頑張ったのに! 昔はみんな褒めてくれたのにぃぃ! 老害なんて言われたの初めてだよぉぉぉ!!」




 え。




 えええええええ!?


 大賢者様が、子供みたいに泣き出した!?


 しかも、執務室の床に突っ伏して、手足をバタバタさせている。


「怖いよぉぉ! あの人、言葉が痛いよぉぉ! 帰るぅ! おうち帰るぅぅぅ!」


「ちょ、賢者様!? しっかりしてください! 論破し返すんじゃなかったんですか!?」


 私は慌ててクロノ様の肩を揺さぶるが、彼は「無理ぃぃ! 勝てないもん!」と泣きじゃくるばかり。


 完全に心が折れている。


 再起不能だ。


 アレックスは、冷ややかな目でその惨状を見下ろし、眼鏡の位置を直した。


「……時間の無駄だったな。衛兵、この不審者とリリアナを摘み出せ」


 執務室の扉が開き、武装した衛兵たちがなだれ込んでくる。


 ソファのミナティが「きゃあ、汚らわしいですわぁ」とクスクス笑っているのが聞こえた。


 嘘でしょ?


 最後の希望だった賢者様が、開始3分で論破されて号泣?


 私、どうなるの?


 また負けるの?


 今度は不法侵入罪までついて?


 衛兵に腕を掴まれながら、私は絶望的な気持ちで天井を見上げた。


「……え? どうする? これ」


 私の呟きは、誰にも届くことなく、賢者様の泣き声にかき消された。


 ふーん? ヤバいじゃん。





 ◇◆◇





 衛兵につまみ出され、王城の門前払いを受けた私たちは、とぼとぼと「迷いの森」の庵まで戻ってきた。


 屈辱だった。


 惨めだった。


 何より、あのアレックスの冷ややかな目が、脳裏に焼き付いて離れない。


 私はドサリとソファに座り込み、天井を仰いだ。


「……はぁ。終わりましたわ。不法侵入罪で手配されるのも時間の問題かもしれません」


 隣では、同じくソファに沈み込んだ賢者クロノ様……いや、もう「様」なんて付ける気にもなれない。


 賢者(笑)クロノが、バリバリと袋を開ける音をさせた。


「んー、まあね。今回はあえて彼に花を持たせたというか、若者の顔を立ててあげたって感じかな。ボクも大人だからさ」


 クロノは芋菓子を口に放り込み、ふんぞり返って言った。


 私は思わず、真顔で彼の方を向いた。


「いや、あんなボコボコに論破されててなんでそんな態度取れんの?」


「論破? 誰が? ボクはただ、彼のあまりに未熟で偏狭な価値観に涙が出そうになっただけだよ。老害なんて言葉、120年生きてきて初めて言われたし」


「ひゃ、120年!?」


 私は目を剥いた。


 このポテチ食ってる引きこもり青年、まさかの御年120歳オーバー?


「見た目は古代魔法でアンチエイジングしてるからね。細胞レベルで老化を止めてるんだ。つまり素材は一級品。それを『不潔』だの『公衆衛生上のリスク』だの……失礼にも程があるよねぇ」


 クロノはガリッと芋菓子を噛み砕いた。


 その目には、アレックスへのどす黒い憎悪の炎が燃え盛っている。


 なるほど。


 こいつも完全に、私と同じ「アレックスアンチ」になったわけだ。


「リリアナ君。ボクは決めたよ」


「何を?」


「アレックスを社会的に抹殺する。手始めに、彼が指摘したボクの『不潔さ』という弱点を克服し、見た目という暴力でマウントを取り返す」


 クロノは立ち上がり、ボロボロのローブを脱ぎ捨てた。


「行こう、リリアナ君。街へ出るぞ。まずはボクの、そして君の『美』を磨き上げるのだ」


「え? ……ええっ!?」


 こうして、私たちは再び王都へと繰り出すことになった。


 目的は復讐。


 手段は──エステとショッピングだ。





 ◇◆◇





 王都の大通りにある高級エステサロン。


 公爵令嬢時代に私が通っていた店だが、まさか男連れで来ることになるとは。


 個室のベッドに並んで横たわり、私たちは顔面に謎の緑色のペーストを塗られていた。


「……冷たい」


「これ、キュウリ成分配合の保湿パックらしいよ。鎮静作用があるんだって」


 クロノが隣で呟く。


 瞼の上に輪切りのキュウリを乗せられ、視界は真っ暗だ。


 ひんやりとした冷気が肌に染み渡り、アレックスへの怒りで火照った顔を冷ましてくれる。


「……気持ちいい〜」


「だねぇ。森では泥パックくらいしかできなかったから、文明の利器ってすごいな」


「あの男も、これくらい柔軟に美を追求すればいいのに。いっつも眉間に皺寄せて、書類と睨めっこばかりして……」


「そうだね。彼の肌年齢、たぶん実年齢プラス10歳はいってるよ。ストレスで活性酸素が溜まりまくってる顔だ」


「ふふっ、ざまぁみろ」


 私たちはキュウリを乗せたまま、クスクスと笑い合った。


 なんだろう。


 最強の敵(元婚約者)を持つ者同士の、奇妙な連帯感。


 悪口を言い合える仲間がいるって、こんなに心が軽くなるものなのね。




 ◇◆◇




 エステで肌をツヤツヤにした後は、美容院で髪を整え、服屋で最新の流行を取り入れた衣装を調達した。


 そして最後に、眼鏡屋へ。


「お客様、こちらなどいかがでしょう? 最新モデルのべっ甲フレームです」


「ほう、悪くないね」


 クロノが試着し、鏡を見る。


 ボサボサだった黒髪は、美容師の手によって無造作ながらも計算された洒落たスタイルに整えられ、清潔感のある白いシャツとジャケットが、彼のスリムな体型を引き立てている。


 そして、あの瓶底眼鏡の代わりに、知的なべっ甲フレームの眼鏡をかけたその姿は──。


「……嘘でしょ」


 私は絶句した。


 そこに立っていたのは、王都中の令嬢が振り返るであろう、超絶イケメンだったからだ。


 アレックスのような冷たい美貌ではない。


 どこかミステリアスで、大人の余裕と知性を感じさせる、甘いマスク。


 悔しいけど、顔面偏差値だけで言えば、アレックスを軽く凌駕している。


「どうかな、リリアナ君。これなら『不潔』とは言われないはずだ」


 クロノが眼鏡の縁に指を添え、ニカッと笑う。


 その笑顔の破壊力たるや。


「……合格よ。これなら面食いのミナティが血が出るほど歯ぎしりするでしょうね」


「よし。じゃあ、仕上げに行こうか」


 クロノは私の手を取り、エスコートするように腕を差し出した。


 私たちはまるで、デート中の恋人同士のように、夕暮れの街を歩き始めた。




 ◇◆◇




 王都の中央広場は、祭りの準備で賑わっていた。


 屋台が並び、香ばしい匂いが漂ってくる。


 道行く人々が、私たちを見て振り返るのが分かった。


「見て、あの人たち。すごくお似合いじゃない?」


「綺麗な人ねぇ。彼氏さんもモデルみたい」


「絵になるカップルだわ」


 ふふん。


 聞こえる、聞こえるわよ。


 アレックス、聞いている?


 貴方が「コスパが悪い」と捨てた女は今、貴方以上のイケメン(中身は120歳の偏屈ジジイだけど)を連れて、注目の的になっているのよ!


「リリアナ君、あれ食べようよ。串焼き」


「もう、さっきクレープ食べたばっかりじゃん。……まあ、私も食べたいから買うけど」


「あ、あっちで射的やってる! ボクの風魔法で百発百中を見せてあげるよ」


「ズルはダメよ」


 クロノは完全にはしゃいでいた。


 120年ぶりの下界のデート(?)が楽しくて仕方ないらしい。


 私もつられて、いつの間にか笑っていた。


 アレックスといた時は、常に顔色を伺い、完璧な令嬢を演じなければならなかった。


 こんな風に、買い食いをしたり、他愛のないことで笑い合ったりすることなんて、一度もなかった。


 ……あれ?


 私、今すごく楽しい?


 これさ、私……。




 恋、してね?




 ドンッ──……




 その時、夜空に大きな音が響いた。


 見上げると、大輪の花火が打ち上がり、色とりどりの光の粒子となって降り注いでくる。


「わぁ……綺麗……」


 私は思わず足を止め、夜空を見上げた。


 隣でクロノも、「ほう……」と感嘆の声を漏らす。


「古代魔法の『爆炎華』の応用かな。術式の構成は見事だね。火薬との配合比率も計算されている」


「無粋な分析はやめてよ。素直に綺麗だと言えないの?」


「綺麗だよ。君の横顔と同じくらいにはね」


「なっ……!?」


 クロノがさらりと歯の浮くようなセリフを吐く。


 夕闇の中、花火の光に照らされた彼の横顔は、本当に憎らしいほど整っていて、ドキッとしてしまう。




 ……いやいやいや!


 何普通にデート楽しんじゃってんの私!?


 私たちはあの論破王子アレックスを倒すために、ここにいるんじゃないの!?


 復讐よ! アンチ活動よ!


 こんなところでときめいてどうするの!




 ドンッ、パパパンッ!!




 続けて打ち上がるスターマイン。


 黄金の柳が夜空を埋め尽くす。


「……あ、今の花火すごっ」


 ああっ!


 ダメだ、綺麗すぎて思考が停止する!


 この甘々な空間が私の思考をふやかすっ……!!




 ──悔しいけど、今のこの瞬間だけは、復讐も論破も忘れて見入ってしまう。


 クロノは、消えゆく火花を眼鏡の奥に映しながら、静かに、けれど低く重い声で呟いた。


「……負けたままでは、終われないよねぇ」


 その声は、さっきまでのはしゃいだ様子とは別人のようだった。


 私は彼を見た。


 彼の瞳は、花火よりも熱く、そして冷徹な光を宿していた。


「うん。ぶちかましてやろ。バカはバカなりに。あの花火より大きい特大の1発」


 私も頷く。


 この楽しい時間は、あくまで準備運動。


 英気を養い、見た目を磨き、そして心を整えた。


 次こそは。


 次こそは必ず、あのアレックスの鉄仮面を引き剥がし、そのプライドをへし折ってやる。


 夜空に咲く大輪の花火の下、私たちは改めて、打倒アレックスの誓いを立てたのだった。




 いつの間にか、手を繋ぎながら。





 ◇◆◇



 


 花火の余韻を残したまま、私たちは「迷いの森」の庵へと戻った。


 部屋に入ると、クロノはさっきまでの甘い雰囲気を切り替え、真剣な顔で羊皮紙に向かった。


 私が話したアレックスとの会話内容を、数式に変換して分析しているのだ。


 眼鏡を光らせてペンを走らせるその横顔は、悔しいけれど知性的でかっこいい。


 そうだ。そもそも彼は賢者。アレックスに負けて泣かされたのだって、明らかに私との連携が取れていなかったことも大きな要因だ。


 あの時、アレックスの元に論破されに行く前にクロノに私の知るアレックスの全てを話しておいたら結果は違ってたかも……。


 なんか、ごめん。


「……なるほどねぇ」


 不意に、クロノがペンを止めた。


「見えたよ、リリアナ。あの王子の論理の『穴』が」


「本当?」


「愛とか、感情とか、曖昧なものは必要ない。彼自身の崇拝する『費用対効果』で刺し殺してやるのさ」


 クロノは、書き出したメモの一点を指差した。


「彼は君にこう言ったね。『先月の行動記録を分析した』と。そして『一日平均4時間、図書室で勉強していたが、利益を生んでいない』と」


「ええ、言われたわ。悔しいけど事実よ」


「事実? いいや、ここには大きな矛盾がある」


 クロノはニヤリと笑った。


「リリアナ。君の学習内容を『利益がない』と断定するためには、君がその4時間で何を読み、どんな知識を得て、それがどう実務に結びつかなかったかを、全て精査しなければならない」


「それは……そうね」


「つまりだ。彼自身もまた、君の行動を監視し、分析するために、膨大な時間を費やしているということだよ」


 あっ。


 私は息を呑んだ。


「王太子の時給は、君の比じゃないほど高い。彼が君の4時間を『無駄だ』と証明するために、彼自身が数時間を費やしていたとしたら? そのコストは一体誰が払うんだい?」


「……国?」


「その通り。彼は『君の無駄』を指摘するために、『それ以上の国益』をドブに捨てている。これは完全なるコスト計算のミスだ」


 クロノは立ち上がり、新しいジャケットの襟を正した。


「行こうか。今度こそ、彼に本当の『赤字』というものを教えてあげよう」





 ◇◆◇





 翌日。


 私たちは再び王城を訪れた。


 今度は不法侵入ではない。


 クロノが「婚約破棄に伴う精算協議」を正式に申し入れ、正面から堂々と乗り込んだのだ。


 通されたのは、アレックスの執務室。


 アレックスは相変わらず書類の山に埋もれていた。


 横にはミナティがいて、高そうな菓子をボロボロとこぼしながら食べている。


「……また君たちか」


 アレックスは顔も上げずに言った。


 クロノは優雅にソファへ腰を下ろし、足を組んだ。


「やあ王子。ボクは君の提示した『婚約破棄の根拠データ』について、重大な計算ミスを発見したんだ」


 ピクリ、とアレックスのペンが止まる。


 彼はゆっくりと顔を上げ、クロノを見た。


 その目は、少しだけ警戒の色を帯びている。


 見違えるほど身なりを整えたクロノの姿に、動揺したのかもしれない。


「計算ミス? あり得ない。私の算出は完璧だ」


「どうかな。……君はリリアナの『図書室での4時間』を、利益を生んでいないから無駄だと断じたね?」


「事実だ。彼女は過去3ヶ月で360時間を学習に費やしたが、それによる政策立案数はゼロだ」


「はい、そこ」


 クロノが指を鳴らす。


「その『360時間分の学習内容』と『成果ゼロ』の因果関係を証明するために、君はどれだけの時間を費やした?」


「……何?」


「君の性格だ。適当な推測で数字は出さないだろう? 彼女が読んだ本の履歴、学習内容の精査、そしてそれが現在の国政に寄与しないという裏付け調査。……これらを全て君一人で行った場合、最低でも50時間はかかる計算だ」


 アレックスの眉が動く。


 図星だ。


 彼は他人を信用しない。


 私の行動記録も、きっと全部自分でチェックしていたはず。


「仮に50時間としよう。王太子の公務における時間単価は、概算で金貨10枚分だ。つまり君は、リリアナを論破するためだけに、金貨500枚分の労働力を浪費したことになる」


「それは……必要な監査コストだ」


「いいや、違うね」


 クロノはバッサリと切り捨てた。


「監査の結果、君が得たものは何だ? 『婚約者の排除』と『公爵家の後ろ盾の喪失』だ。君は金貨500枚をかけて、将来の数十万枚の金貨をドブに捨てる決断をしたんだよ。……これを『非効率』と言わずして何と言う?」


「……」


 アレックスが言葉に詰まる。


 初めてだ。


 あの論破王子が、論理の矛盾を突かれて押し黙ったのは。


 私は一歩前に出た。


「殿下。貴方は私の勉強を『自己満足』とおっしゃいましたが、貴方のその分析こそ、誰の得にもならない『自己満足』ではありませんか?」


「将来的なリスク回避だ。彼女の……ミナティの実務能力は未知数だが、少なくとも君のような『無駄』はない」


 アレックスが隣のミナティに視線を向ける。


 苦し紛れの反論だ。


 けれど、クロノは待っていましたとばかりに、懐から一枚の羊皮紙を取り出した。


「おや、まだ不確定な未来にすがるのかい? 残念ながら、そっちのデータも出ているよ」


「……データ?」


「森の賢者の情報網を甘く見ないで欲しいね。ミナティ男爵令嬢の、過去1ヶ月の消費行動リストだ。視覚魔法によって巧妙に改ざんされていたけど、おあいにくさま。ボクは、魔法が大得意なんだ。()()だから」


 クロノが羊皮紙を机に叩きつける。


 そこには、赤く光るインクで数字が羅列されていた。


「特注ドレスの購入費、金貨30枚。

 有名パティスリーでの貸切代、金貨15枚。

 気に入らない侍女への解雇手当及び口止め料、金貨50枚──」


 読み上げられる数字に、アレックスの顔色が青ざめていく。


「な、なんだそれは……私は聞いていないぞ」


「当然だろ? 君のポケットマネーではなく、彼女の実家のツケ……いや、一部は『次期王太子妃の必要経費』として、王宮予算に回されているからね」


 クロノは冷徹に告げた。


「リリアナの『無駄』は、少なくとも金を減らしはしなかった。だが、この女は息をするように国庫を食いつぶしている」


「……さあ、得意の()()()()()で答えてくれよ、王子。『無害な勉強家』を追い出し、『有害な浪費家』を迎え入れる。その経営判断の、どこに合理性があるんだい?」


 アレックスは、震える手で羊皮紙を手に取った。


 その目は、数字を追うごとに絶望の色を深めていく。


 隣でミナティが「やだぁ、必要経費ですぅ」と媚びた声を出すが、もはやアレックスの耳には届いていないようだった。


 彼はゆっくりと眼鏡を外し、机に置いた。


 それが、完全敗北の合図だった。


「……私の、ミスだ」


 蚊の鳴くような声だった。


「分析コストの超過……そして、比較対象の選定ミス……。私の計算は、根本から破綻していた……」


 彼は顔を覆い、深いため息をついた。


 そして、すがるような目で私を見た。


「リリアナ……すまなかった。やり直させてくれないか。君の学習意欲は、長期的に見れば有益な投資だったと、今なら再評価できるかもしれない」


 どこまでも上から目線の、最低の謝罪だった。


 彼はまだ、私を「投資対象」としてしか見ていない。


 私は扇をパチリと閉じた。


「お断りしますわ」


「な、なぜだ。計算上の最適解は復縁のはずだ!」


「殿下。貴方は一つ、計算に入れていないコストがありますのよ」


「コスト……?」


「『女の恨み』という、無限大のマイナス資産ですわ!」


 私は彼に背を向けた。


「貴方が私の心を計算式から除外した時点で、この取引は成立しないのです。……さようなら、哀れな計算機様」


 私はクロノの腕を取り、執務室を後にした。


 背後で、アレックスが「待ってくれ! 再計算を! 変数を修正するから!」と叫んでいたが、私たちは一度も振り返らなかった。




 ◇◆◇




 その後、アレックスがどうなったかは、風の噂でしか知らない。


 ミナティの浪費が公になり、彼自身の「調査コストの無駄遣い」も露見して、王位継承権を剥奪されたそうだ。


 今は領地の片隅で、経理係として数字と向き合う毎日を送っているらしい。


 皮肉なことに、国を背負う重圧から解放された彼は、そこそこ優秀な経理マンとして重宝されているとか。


 まあ、私にはもう関係のないことだ。


 私は今、迷いの森の庵で、クロノと共に暮らしている。


 彼は相変わらず偏屈で、研究熱心な賢者様だけれど、私の淹れた紅茶を飲む時だけは、とても穏やかな顔をする。


「……ねぇ、クロノ」


「ん?」


「私たちが一緒にいることの『費用対効果』って、どう思う?」


 私が意地悪く尋ねると、彼は古い文献から目を離し、眼鏡の位置を直した。


「計算不能だね」


「え?」


「君といる時間は、ボクにとって『コスト』ではなく『報酬』だからね。利益率が無限大すぎて、数式が追いつかないよ」


 さらりと、とんでもないことを言う。


 私は顔が熱くなるのを感じながら、彼の隣に座り直した。


「なにそれ、なんか言い方が硬っ苦しいんですけど」


「まあ、いいじゃないか。これもボクという人間の在り方さ」



 彼はそう言って私の髪をサラッと撫でて、口付けを落とした。


「あんなに情けなく泣いてたのに、何カッコつけてんの?」


「あまり過去のことを気にしない方がいいよ? ボクは未来を見る派だしねぇ」


「ぷっ。なにそれ?」


 数字では測れない幸せが、ここにある。


 論破王子の元婚約者(反転アンチ)は今、世界で一番賢くて、ちょっぴりキザな賢者様に、毎日論破(愛の囁き)され続けているのだった。

 

ここまでお読みいただきありがとうございました!


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【スカッとしたい方へ】

『その聖水、ただの麻薬ですよね?』

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『冷徹公爵様の心の声 (テロップ)がピンク色で大暴走している件について』

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【とろとろに甘やかされたい方へ】

『触れるもの全てを殺す『死神公爵』様、なぜか私だけ触れても平気なようです』

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他にも投稿済みの短編がございますので、作者マイページからお好みのものを見つけてご覧いただけると幸いです。

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― 新着の感想 ―
そもそも、業務ですらない『王妃教育の復習』を、費用対効果で計ること自体が見当違いですし、ミナティと特別な関係では無いと抗弁するのに、宰相と過ごした執務時間とミナティとの接触時間を対比させるのも無茶苦茶…
反転アンチというか当然の嫌悪では。 空虚な論理武装で好みの女に乗り換え様としただけなんだし。
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