〜第一章〜2歳王者へ
ケンタッキー州レキシントン。
まだ夜の色が残る早朝の牧場では、世界全体が静謐に包まれていた。
濃い霧が草地を低く這い、馬房の屋根を淡く覆っている。
草に降りた夜露は月光を小さく受け、粒の一つひとつが星のように瞬いていた。
そんな静寂を破るように、馬房の奥で母馬 Nonna Bella が身じろぎした。
湿った藁の上に横たわるその身体は、長い陣痛の余韻にわずかに震えている。
厩務員の男がランプを掲げながら小走りで近づき、もう一人が毛布を抱えて駆け寄る。
「……くるぞ」
長年、多くの名馬の誕生を見届けてきた者だけが持つ直感が、その場を静かに支配した。
呼吸が止まるほどの沈黙ののち、湿った空気を切り裂くように、小さな産声が上がった。
──黒鹿毛の牡馬。
藁の上に現れたその身体は、まだ濡れた羊水に包まれながらも、美しい輪郭を描いていた。
父は City of Light、母は Nonna Bella。
名門の血統にふさわしい黒鹿毛の毛並みは、湿った空気の中でなお淡い光をまとっていた。
「……目を見ろよ。これは……」
最初に言葉を失ったのは、牧場で最も経験豊富な厩務員だった。
仔馬の瞳は生まれて数秒のものとは思えない。
怯えがない。戸惑いもない。
ただ、世界をまっすぐ見つめている。
その真っ直ぐさは“強さ”ですらあった。
「なんて目だ……生まれたばかりとは思えない」
別のスタッフも思わずつぶやく。
それは、のちに“フィアースネス”と名付けられる馬の本質を象徴する、一番最初の光だった。
⸻
数分後、仔馬は自力で立ち上がろうと身体を揺らした。
最初はぎこちないが、脚を伸ばすたびに関節の動きが驚くほど滑らかになっていく。
肩から臀部へと流れる筋肉のつながりが、他の当歳馬とは明らかに違った。
やがて、ゆっくりと立ち上がった。
「なんて自然な動き……」
厩務員は息を呑んだ。
身体のバランス感覚が異様に優れている。
まるで“立つこと”が本能ではなく、既に覚えていたかのようだ。
しかし同時に──
彼の耳は些細な音にもピクピクと動き、霧が揺れただけで敏感に反応した。
世界に対して研ぎ澄まされすぎている。
その過敏さは長所であると同時に、後に“最大の弱点”として姿を現すことになる。
この時点で、誰もまだ気付かない。
フィアースネスの全てを支配する本質──
自分のペースを守れた時は怪物、崩れると凡馬以下。
その両極端な個性はすでに芽を見せていた。
⸻
季節が流れ、フィアースネスが放牧地に出るようになると、彼の“異質さ”はより鮮明になった。
他の同じ年齢の仔馬たちははしゃぎ、群れで走り回り、じゃれあい、転げ回る。
しかしフィアースネスは違った。
彼はいつも少し離れた場所で、
一定のテンポで歩き、一定のテンポで草を食み、
休むときも、走るときも、驚くほど“リズムを崩さなかった”。
「見てみろ。みんなが騒いでても、あいつだけテンポが変わらない」
「呼吸も歩幅も、全部が一定なんだよ……」
「でも刺激には弱いな。風の揺れにすぐ反応する」
周囲の馬は砂埃を巻き上げてドタドタ走り回るのに、
フィアースネスだけは別の世界にいるように静かだった。
大らかな静けさではなく、“集中しすぎた静けさ”。
まるで世界の音を全部シャットアウトし、
自分のリズムだけで存在しているかのようだった。
⸻
1歳秋、セリの日。
フィアースネスがリングに入ったとき、場内の空気が変わった。
照明を受けた黒鹿毛の毛並みは他の馬より深く、光を吸い込むようでいて、その輪郭を柔らかく浮かび上がらせた。
歩き出した瞬間、観客のざわめきが止まる。
「……歩きが違う」
「肩の出が滑らかすぎる」
「一本の曲線が動いてるみたいだ」
目利きたちが口々に言う。
歩調は一定、ペースも一定、
周囲の音には一切反応しない。
“落ち着き”ではなく、“隔絶”。
彼は他の馬たちのように観客の視線や騒音に気を取られなかった。
外界を遮断し、ただ自分のテンポだけを刻んでいた。
「王様の歩き方だ……あれは」
調教師の一人がつぶやいたセリフは、後に語り草になる。
フィアースネスは高い評価と期待を背負って落札され、
新たな厩舎へと迎え入れられた。
⸻
厩舎生活が始まると、彼の才能と難しさが一気に露わになる。
まず、ゲートが苦手だった。
閉ざされた空間が過敏な神経に触れ、
少しでも物音がすれば体がこわばる。
しかし、いざ走り出せば──
すべてが別物だった。
「この馬……走ってるんじゃない。浮いてるようだ」
最初に跨ったジョッキーが言った言葉を、調教師は忘れられなかった。
手綱を軽く触れるだけでスーッと加速し、
フットワークは長く、軽やかで、
地面との接触時間が極端に短い。
ただし、ひとつでもテンポが乱れると噛みついたように反応が悪くなり、
脚も気持ちも一気にバラつく。
その極端さは、まるで
“完璧に調律された楽器が、少しの狂いで音を失う”
かのようだった。
「扱いづらい……でも、とんでもない素材だ」
調教師は手綱を持つ手に力を込め、
まだ見ぬ未来の姿に思いを馳せた。
⸻
そして迎えた2023年夏。
サラトガ競馬場、新馬戦。
パドックに現れたフィアースネスの姿に、会場の空気が張り詰めた。
周囲の馬が耳を動かしたり、落ち着きなく周りを見回したりしている中、
フィアースネスは驚くほど静かだった。
静かだが“無関心”ではない。
彼の内側に強烈な集中が漂っているのが分かった。
「この雰囲気……ただ者じゃねぇ」
馬を見続けてきた観客たちが息を呑む。
スタートが切られる。
フィアースネスはまるで矢が放たれたように飛び出し、
そのまま自然にスピードへ乗った。
向こう正面に入っても脚が緩むことなく、
鞍上はほとんど何もしていない。
ただ“走ること”が、彼にとって自然の行為であるかのように。
直線で勝負は決した。
伸びやかで、軽くて、力強い脚取り。
他馬を寄せつけず、余裕たっぷりにゴール板を駆け抜けた。
「怪物だ……」
観客の呟きは驚愕と畏怖を含んでいた。
⸻
だが、天才の影はすぐに現れる。
続く シャンペンステークス(G1)。
ここでフィアースネスは信じられないほどの惨敗を喫した。
ゲートでのわずかな物音に耳を揺らし、
スタート後すぐに他馬に寄られ、
テンポが完全に狂った。
折り合いはつかず、
前へ行きたいのか抑えたいのか判断がつかず、
直線では脚がバラバラに動き、
ズルズルと後退していった。
レース後、世間の反応は冷酷だった。
「一本調子なだけだ」
「強い馬には太刀打ちできない」
「気性が脆すぎる。クラシックなんて夢のまた夢」
「新馬戦はただの展開利だっただけ」
メディアもSNSも、手のひらを返すように評価を下げた。
陣営にとってそれは悔しさよりも、
“この馬の本質を理解できていない世界”への静かな怒りを呼んだ。
「違う。この馬はそんな安い馬じゃない」
調教師は誰にも聞こえないほど小さく呟いた。
⸻
ブリーダーズカップ・ジュヴナイルへ向けて、
立て直しの日々が始まった。
調整の中心は、ただひとつ。
フィアースネスの“心”を平らにすること。
単走でテンポを作る練習。
他馬が横に来ると乱れやすいので、併せ馬は最小限に。
ゲート練習は馬が落ち着くまで何分でも待つ。
気持ちが上下しないように、調教開始のタイミングも細かく合わせた。
徐々にフィアースネスは静けさを取り戻した。
以前のような過敏な反応が消え、
落ち着いた深さが戻ってきた。
「戻った……いや、強くなってる」
調教師は確かな手応えを感じていた。
⸻
そして迎えた
ブリーダーズカップ・ジュヴナイル(G1)。
しかし、世間の評価は冷たかった。
6番人気、17.4倍。
シャンペンSでの大敗が、彼の価値を完全に下げていた。
「買えない」
「一本調子で脆い馬」
「G1では通用しない」
そんな声ばかりが聞こえる。
だが、陣営は知っていた。
今日のフィアースネスは“戻ってきている”どころか、一段階上がっていることを。
⸻
パドックに現れたフィアースネスは驚くほど落ち着いていた。
周囲の喧騒を聞き流し、
歩様は一定、首の振りも一定、呼吸も深く安定している。
「今日……勝ちに来てるな、この馬」
ジョッキーはパドック一周目で悟った。
ゲート内でも珍しく静かだった。
緊張の兆候が見えない。
──スタート。
フィアースネスは鋭く飛び出し、
そのままハナへ立った。
彼は逃げた。
“勝ちに行った”のではない。
“自分のペースを守る”ために逃げた。
道中、フィアースネスはまるで風そのもののようだった。
他馬は後ろで動く影にすぎず、
彼の世界には存在していなかった。
向こう正面で鞍上が軽く抑えると、
フィアースネスはすっと呼吸を整えた。
「折り合ってる……完璧だ」
3コーナーでわずかに手綱が動いた瞬間、
フィアースネスの脚が弾けた。
後続が仕掛けても、差は詰まるどころか広がった。
直線。
観客の声が波のように押し寄せる。
「速い……!」
「もう誰も追いつけない……!」
6馬身1/4差。
完全なる逃げ切り。
17.4倍の“見限られた馬”が、
世界最高峰の2歳G1を独走で制した瞬間だった。
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レース後、厩舎に戻ったフィアースネスは静かに息をつきながら、
まるで何事もなかったかのように穏やかな眼差しを浮かべていた。
「お前は……本当に強い」
調教師は震える声で馬体を撫でた。
「ペースさえ守れれば、世界で一番強い馬だ」
ジョッキーも頷く。
「今日は……“本当のフィアースネス”が走った」
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この圧勝により、フィアースネスは
最優秀2歳牡馬(Eclipse Award) を圧倒的票数で受賞する。
選考委員の評価は揺るがなかった。
「歴史に残るジュヴナイル」
「負けたレースすら、この馬の個性の証明」
「来年のクラシックの中心はこの馬だ」
フィアースネスはケンタッキーダービー路線の
堂々たる本命として新年を迎えることになる。
馬房の薄暗がりの中、
彼は静かに佇み、
その瞳の奥には確かな光が宿っていた。
──彼にとって、競馬とは
“勝負”ではなかった。
ただ、自分のペースで世界をねじ伏せる行為。
それがフィアースネスという天才の、本当の正体だった。




