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視界はやけにはっきりとしていた。目の前の男は、目を逸らしたまま俯いている。
「……死んだ? ……カイザックが?」
「…………」
彼の口にした言葉を復唱しても、うんともすんとも言わない。けれどその代わりに、静かな頷きを返される。それが、答えだった。
「う……嘘よ……」
「…………」
「嘘よ――!! 私をここに縛るために……カイザックと結ばれないよう、デタラメを言っているんでしょ!?」
声を荒らげて否定する。しかしアダルヘルムは口を閉ざしたままだった。
「彼は……カイザックは、簡単に死ぬような人じゃないわ!! 約束したもの!! 必ず迎えに来るって……あの日約束したもの!!」
「…………」
「彼は約束を破るような人じゃないわ!! 私を置いて死ぬなんて……そんなこと有り得ない!!」
「……随分と、あの男を信用しているんだな」
やっと口を開いたかと思えば、求めているものではない言葉を投げかけてきた。余計に腹が立って、強く握った拳で思いきり胸を叩いた。
「当たり前じゃない!! 彼は卑怯な貴方とは違うの!!」
「……卑怯、か」
強く吐き捨てると、ようやくアダルヘルムの顔が上がった。その顔は、決意に満ちた男の顔をしていた。
「そうだ……俺は卑怯な男だ。君があの男に心酔していることを知っていて、わざわざその姿を見つけ出したのだから……」
「何を――」
「俺は嘘はつかない。あの男が死んだのは事実だ。それには揺るぎない理由がある」
私の瞳を捉えたアダルヘルムは、紅に染まった瞳を不気味に細める。そしてどこか悲しみを帯びた表情で、口を開いた。
激しい雷雨が彼の声を強調するように、音を潜める。
「俺が、殺したからだ」
――狙ったかのように、落雷の音が響く。屋敷の近くに落ちたらしい轟音は、私の耳を遠くした。
「……貴方が……殺した?」
「この手で確かに男を殺した。最後の瞬間も、光が消えゆくあの男の瞳を眺めたのは、俺だ」
「そ、そんな……じゃあ、彼は本当にっ……」
「この目でしかと見届けたのが、その証拠だ」
自分が今どんな表情をしているのか、分からない。頭の中を駆け巡る思い出が、あの約束が、私の感情を支配していくのを感じる。
優しいカイザックの声が、どこかで私を呼ぶ。あの軽々しい口調で、名を呼ばれるのが好きだった。けれどもう二度と聞けない。
アダルヘルムが、彼を殺したから。
唖然としながら彼の服に視線を移動させる。赤黒いシミが誰の血であるか気付いたとき、私は声を張り上げた。
「嫌!! 嫌ぁ――!! どうして、どうして彼を殺したの!! どこまで私を苦しめれば気が済むの――!!」
抑えの効かない感情と、悲鳴にも似た怒鳴り声は、アダルヘルムに激しい罵倒を浴びせかける。
「彼が何をしたって言うの!? ただ私を迎えに来ただけなのに、何が気に食わなかったの!? 貴方たちっていつもそう……私から奪うばかりで何の希望も叶えてくれない!! 夢を抱いたら打ち砕き、期待したら殺すというの!? 悪魔……貴方は私をここに縛り付けたいという自分の欲のために、たった一つの大事なものさえ奪い取る……醜い悪魔よ――!!」
我を忘れそうなほどの怒りと悲しみは、混じり合って私を私でなくしていく。屋敷中に響き渡るほどの金切り声にすら、アダルヘルムは無反応だ。
「カイザックを返して!! 私の大事な人を返してよぉ……!!」
彼の胸を何度も強く叩きながら、次第に小さくなる声は、ついに心を哀しみで満たしていく。
もう、いくら待っても彼は現れない……何の夢も希望もない未来に、私の心は限界だった。
しばらく嗚咽を漏らし涙して、ボタボタと地面を濡らしたら、少しずつ正気に戻ってきた。やがて震える口で呟く。
「もう……別れてくださいっ……」
それは、絶望に打ちひしがれた私の、最後の希望だった。
「お願いします……これ以上、私を傷付けないで……。彼を殺した貴方の傍で、一生を過ごすなんて耐えられない……」
「…………」
「私と別れてください……お願いです、アダルヘルム様……」
懇願して彼を見ると、その顔は悲痛に耐えるように歪んでいた。先ほどから何度も見た表情に、私はもはや疑問すら抱かない。
目を合わせてもう一度、別れて、と告げる私に、彼は歯を食いしばった。そしてすぐ冷静を取り戻すと、冷酷な声で告げてくる。
「別れない。君との結婚は必要なものだ。たとえ君がどんなに望もうと、それだけは決して叶えることはできない」
――三度目の絶望が、私の声を奪う。感情という感情、全てが心から抜け落ちて、私の視界を白くする。目の前の男はトドメのように、言葉を投げかけてくる。
「……すべて君のためだ。君は受け入れるしかない」
静かに歩き始める彼は、私を横切りながら、最後に告げた。あの男のことは忘れろ、と――。
足音が止み、人のいなくなった空間で立ち竦む私は、力なく地面に膝をつく。静かに頬を伝う涙は、地面に小さな水溜まりを作る。雷雨の音すら届かず、ただ液体を流すだけの私は、駆け寄る使用人たちが何を言っているか理解できないまま、意識を失った。
*
「皇女様……お加減はいかがですか?」
鍵を閉めた扉の外から、私を気遣う声がする。都の案内をしてくれた、あの使用人の声だ。
「…………」
「……何か必要なものがあれば、仰ってくださいね。すぐに駆けつけますから」
無言の私にそう告げると、彼女の小さな足音が去っていった。
あれから五日が経った。部屋に引きこもり、鍵を閉めて誰とも会わず、与えられた食事をただ飲み込むだけの日々。死にたくても死ねず、空腹は絶えず訪れるせいで、食事を拒否することすらできない。誰もこの部屋に強行突破してこないのは、自死なんてする勇気がないことを見抜かれているからだろうか。
カイザックのいない日々は、べつにいつもと変わらない。彼がいた日々も、ずっと独りだったから……。それでも、彼は確かに存在し、寂しく虚しい心の支えとなっていた。彼との約束があったから、この最悪な人生に一縷の希望が見えたのだ。
それなのに、たった唯一の希望すら、神は……アダルヘルムは、奪っていった。その上、別れることすら許さないと言うのだ。
心の中を巣食う闇が、私の絶望に道標を示す。それは、恋する人を殺した悪逆非道な男と別れるための、暗い道標。
「……あの男と別れるためなら、何でもするわ」
目覚めたときに物を投げて割った鏡の前に立ち、私は醜く汚らしい自分の姿を目に焼きつける。
死人のような白髪に、誰からも蔑まれる暗い肌、そして目の下を濃く色取る影が、私をこの世で一番の醜悪に映す。
「たとえ……最低最悪の悪女と言われても……」
置いたままの赤いリップを取り、荒れた唇を丁寧に謎る。そして歪な笑みを浮かべると、私の心に巣食っていた闇が堂々と顔を出す。
ナサリー・イーサンスデム皇女、恐ろしく醜い悪女として――。




