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「ヒッ……!!」
咄嗟に後ずさったことで、硬い窓に背が当たる。
「だ、誰……!? サミエルはどこなの!?」
声は上擦り震えていた。しかし男が足を止めたので、急いで武器になるものを探す。思い出した私は、ベッドの脇に置かれた自分の荷物を漁り、護身用のナイフを取り出すと、震える手で男へ向けた。
「こ、来ないで……!! サミエル!! サミエルはどこ!?」
必死に唯一の顔見知りを呼びかけると、返事のないサミエルの代わりに、無表情の男が答える。
「サミエルは来ない。俺が命じたから」
「……っ!? ま、まさか……貴方が……」
手の震えは増していき、ナイフを握る力が僅かに緩む。その拍子に数歩踏み出した男は、闇に包まれた位置から抜け出し、月明かりに照らされると、その姿を現した。
「俺はアダルヘルム・ディ・アッヘンヴァル……この屋敷の主であり、君の婚約者だ」
「――!!」
初めて耳にした婚約者の名に、ナイフを震わせる。
闇と同化してしまいそうな漆黒の髪、薄くかかった前髪から覗く鋭い眼光、立っているだけで威圧感のある体躯……そのどれもが、私を怯えさせるに十分なほど不穏な印象だった。
ど、どうしよう……! 傍若無人と言われている人にナイフを向けてしまうなんて……!
不快にさせてしまえば、何をされるか分からない。皇帝の言った通り殺されてしまうかもしれない。恐ろしさで震える手は自身で制御が効かなくて、息も少しずつ荒くなる。すると、彼が一歩足を踏み出した。
「!?」
たった一瞬の靴音すら、私の恐怖を煽る。
「怯えなくていい。君を傷付けるつもりは毛頭ない」
静かに近付いてくる婚約者は、やがて私の正面に立つ。震える手に握られたナイフは、彼の太くて長い指先にゆっくりと奪われる。
「……これは仕舞っておけ。ここでは必要ないものだ」
奪ったナイフをチェストの引き出しに入れた彼は、再び私を見つめる。恐ろしくて目を逸らすと、彼の手が私の頬に向かっているのが視界に映る。
武器を失った私は、身体中に力を込めて身構えた。
「嫌っ……」
震える口で無意識に呟いてしまい、頬に触れそうだった彼の手が止まる。
「……そんなに、俺との結婚は受け付けられないか」
「え……?」
僅かに悲しみが滲んだ声が、私の顔を上げさせる。月が隠れてしまったのか、彼の表情は読み取れない。目を細めてよく覗こうとすると、紅の瞳と目が合った。瞬間、恐怖は蘇る。
「……君が望まなくとも、これはエルサードの皇帝とヴァンガイムの公爵である俺が結んだ契約だ。君の意思に関係なく押し進めることは致し方ない。君は黙って従う他ないんだ」
「っ……!」
私の気持ちを無視した発言に、怒りが込み上げたはずなのに、喉が渇いて声は出ない。
「……式は半年後だ。それまでは好きに過ごしてもらって構わない。何か望みがあるならサミエルに言ってくれ」
「…………」
「……今夜は月が綺麗だ。気持ちが落ち着いたら、早く眠りにつくといい」
冷たい低音で告げると、振り返った彼は扉の方へ歩いた。そして立ち止まり、再び私をその目に映すと、何も言わず出て行った。安堵で力が抜けた私は、倒れ込むように膝から崩れ落ち、深く息を吐いた。
怖かった。声も顔も、仕草ひとつすら恐ろしく、息が詰まった。サミエルの話で想像した優しい人はいないのだ。
馬鹿馬鹿しい期待が見事に打ち砕かれて、視界がぼやけるのと同時に、怒りが込み上げる。
彼の口にした『望みがあるなら』という言葉が、追い討ちのようにどうしようもない現実を突きつけたから。
「望みをなんでも叶えてくれるって言うなら……私を……カイザックの元へ連れて行ってよっ……!」
強く握った拳に、溢れ出した悔し涙が降り注ぐ。
半年後、本当ならカイザックと結ばれるはずだった日に、私は結婚する。




