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最低最悪の悪女を演じたら別れてくれますか?  作者: 鈴木涼


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1-6

「ヒッ……!!」

 咄嗟に後ずさったことで、硬い窓に背が当たる。

「だ、誰……!? サミエルはどこなの!?」

 声は上擦り震えていた。しかし男が足を止めたので、急いで武器になるものを探す。思い出した私は、ベッドの脇に置かれた自分の荷物を漁り、護身用のナイフを取り出すと、震える手で男へ向けた。


「こ、来ないで……!! サミエル!! サミエルはどこ!?」

 必死に唯一の顔見知りを呼びかけると、返事のないサミエルの代わりに、無表情の男が答える。

「サミエルは来ない。俺が命じたから」

「……っ!? ま、まさか……貴方が……」

 手の震えは増していき、ナイフを握る力が僅かに緩む。その拍子に数歩踏み出した男は、闇に包まれた位置から抜け出し、月明かりに照らされると、その姿を現した。


「俺はアダルヘルム・ディ・アッヘンヴァル……この屋敷の主であり、君の婚約者だ」

「――!!」


 初めて耳にした婚約者の名に、ナイフを震わせる。

 闇と同化してしまいそうな漆黒の髪、薄くかかった前髪から覗く鋭い眼光、立っているだけで威圧感のある体躯……そのどれもが、私を怯えさせるに十分なほど不穏な印象だった。


 ど、どうしよう……! 傍若無人と言われている人にナイフを向けてしまうなんて……!

 不快にさせてしまえば、何をされるか分からない。皇帝の言った通り殺されてしまうかもしれない。恐ろしさで震える手は自身で制御が効かなくて、息も少しずつ荒くなる。すると、彼が一歩足を踏み出した。

「!?」

 たった一瞬の靴音すら、私の恐怖を煽る。


「怯えなくていい。君を傷付けるつもりは毛頭ない」

 静かに近付いてくる婚約者は、やがて私の正面に立つ。震える手に握られたナイフは、彼の太くて長い指先にゆっくりと奪われる。

「……これは仕舞っておけ。ここでは必要ないものだ」

 奪ったナイフをチェストの引き出しに入れた彼は、再び私を見つめる。恐ろしくて目を逸らすと、彼の手が私の頬に向かっているのが視界に映る。


 武器を失った私は、身体中に力を込めて身構えた。

「嫌っ……」

 震える口で無意識に呟いてしまい、頬に触れそうだった彼の手が止まる。


「……そんなに、俺との結婚は受け付けられないか」

「え……?」

 僅かに悲しみが滲んだ声が、私の顔を上げさせる。月が隠れてしまったのか、彼の表情は読み取れない。目を細めてよく覗こうとすると、くれないの瞳と目が合った。瞬間、恐怖は蘇る。


「……君が望まなくとも、これはエルサードの皇帝とヴァンガイムの公爵である俺が結んだ契約だ。君の意思に関係なく押し進めることは致し方ない。君は黙って従う他ないんだ」

「っ……!」

 私の気持ちを無視した発言に、怒りが込み上げたはずなのに、喉が渇いて声は出ない。


「……式は半年後だ。それまでは好きに過ごしてもらって構わない。何か望みがあるならサミエルに言ってくれ」

「…………」

「……今夜は月が綺麗だ。気持ちが落ち着いたら、早く眠りにつくといい」


 冷たい低音で告げると、振り返った彼は扉の方へ歩いた。そして立ち止まり、再び私をその目に映すと、何も言わず出て行った。安堵で力が抜けた私は、倒れ込むように膝から崩れ落ち、深く息を吐いた。

 怖かった。声も顔も、仕草ひとつすら恐ろしく、息が詰まった。サミエルの話で想像した優しい人はいないのだ。


 馬鹿馬鹿しい期待が見事に打ち砕かれて、視界がぼやけるのと同時に、怒りが込み上げる。

 彼の口にした『望みがあるなら』という言葉が、追い討ちのようにどうしようもない現実を突きつけたから。

「望みをなんでも叶えてくれるって言うなら……私を……カイザックの元へ連れて行ってよっ……!」

 強く握った拳に、溢れ出した悔し涙が降り注ぐ。


 半年後、本当ならカイザックと結ばれるはずだった日に、私は結婚する。

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