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四十日に及ぶ険しい旅を終え、馬車はやっとのことでヴァンガイムの中心街にたどり着いた。道中もひたすらにカイザックを想い続け、罪悪感と寂しさで張り裂けそうな気持ちは日々増していった。
半年後、彼が離れを訪れたとき、私がいなければどう思うだろう。裏切られたと思われるかもしれない。そんなことを考えたらいても経ってもいられず、手紙を残してしまった。
ヴァンガイムへ嫁ぐことが決まったこと、結婚相手は傍若無人の公爵であること、行きたくなかったこと、そして――カイザックへの想い。
誰に見られるとも限らないけれど、もし彼が手紙を読んで、ヴァンガイムまで私を迎えに来てくれたなら……。バカバカしい期待だが、それくらい彼のことを信じていた。いつ、誰に捨てられるか分からない手紙を、彼が見つけてくれるはずだ、と。
見つからないよう机の引き出しに隠した手紙が、いつか必ず彼の元へ届くよう、馬車の中で祈った。
やがて揺れは収まり、馬車の扉を叩く音が鳴る。
「皇女殿下、到着いたしました。どうぞお降りください」
御者の男に呼びかけられ、少し躊躇いつつ扉を開ける。目の前に広がったのは、私の過ごした離れとは比べものにならないほど、豪奢で大きな建物。その姿は皇帝の住まう本城と大差ない。
「お待ちしていました、ナサリー・イーサンスデム皇女殿下」
「あ……」
私を出迎る身嗜みの整った老人の男は、丁寧な所作で歓迎を口にする。にこやかに笑みを浮かべ、深く頭を下げるその態度は、想像していたものと違って思わず戸惑った。
「私はサミエル・デュポンと申します。この屋敷の執事をしております。旦那様から皇女殿下のご案内を仰せつかっておりますので、お部屋までご案内させていただきます」
「は、はい……」
生まれて初めて他人から敬意を向けられ、返事に戸惑いの気持ちが表れる。促されて少ない荷物を手渡すと、黙って彼の後を追いかけた。
「旦那様は所用でお出になられておりますので、私が代わりにお出迎えさせていただきました。出迎えができず申し訳ない、との伝言を預かっております」
「そ、そう……ですか……」
「夜にはお戻りになられますので、湯浴みの後に奥様の部屋を訪ねるかもしれません。どうかご了承ください」
歩きながら事情の説明と主の情報を伝える彼は、きっとできる執事なのだろう。私への気遣いも感じられて、どうにも嫌な気分にはならなかった。怯えていた心が、少しずつ解れていく。
「こちらが奥様のお過ごしになる場所です」
そして扉を開けて紹介されたのは、広々とした空間に輝くシャンデリア、外の光を惜しげもなく差し込ませる大きな窓、豪奢でありながらもどこか落ち着きのある寝具やドレッサーが目立つ、美しい部屋だった。
「こ、ここが……私の部屋……?」
「お気に召しませんでしたか?」
「い、いいえ……! その……驚いてしまって……」
あまりの高待遇に、上手く言葉が出ない。そんな私の反応を不審に思ったはずなのに、サミエルは特に問い詰めることなく説明を続ける。
「奥様には、結婚の儀が終わるまでこの部屋でお過ごしいただきます。旦那様の寝室は、現在おります二階の突き当たりにございますので、結婚後はお二人で旦那様の寝室でお過ごしいただくようになります。もちろん奥様のご意思は尊重いたしますので、何かございましたら私の方から旦那様へお伝えさせていただきます」
「つまり……婚約期間中は一人で夜を過ごしてもいい……ということですか……?」
「はい、旦那様はいきなり見知らぬ土地へ嫁ぐこととなった奥様のお心を、お気遣いなさっておいでです」
不思議なくらい私の不安を拭うサミエルだが、これは全て主の命令なのだろう。もしかしたら、結婚相手の公爵はいい人なのかもしれない。そう考えたら、なんだか気持ちが軽くなった。
あまり怯える必要はなさそうだ。窓の外に広がる緑の多い景色を見て気が緩むと、肩からは力が抜けるのを感じた。
気付けば夜だった。知らないうちに着替えさせられた洋服と、柔らかいベッドの温もりが、まだ微睡む私の意識を覚まさせる。
一体いつ眠ったのだろう。長旅で溜まった疲労は驚くほど回復し、髪や肌のベタつきも解消されている。部屋に案内されて、サミエルが席を外したところまでは覚えているが、そこから深く眠ってしまったのだろうか。だとしたら、意識のない者を綺麗にしてくれた使用人に申し訳ない。
軽くなった体で起き上がり、月明かりの差し込む窓を覗く。昼間の穏やかさとは打って変わった星の瞬きが、恋する人を想う心を助長させる。
「カイザック……」
小さく彼の名を呼ぶと、背後から扉の開く音がした。サミエルかと思った私は振り向いて、室内に足を踏み入れる男に視線を向ける。
「……眠っていると聞いたが、目覚めたらしいな」
男は、闇夜に現れた豹のように、鋭い眼孔で私を捉えた。




