その気持ちは恋だった
髪や肌を隠していた布は、走った勢いで落ちていた。彼はそれを拾い上げながら、俯く私に問いかける。
「屋敷を出てからどうしているかと心配していたが……何があった? どこか怪我をしているなら、手当を――」
「どうしてカイザックを殺したの……?」
優しい言葉を続けようとする彼の声を遮って、唐突に聞く。彼は一瞬だけ目を見開くと、すぐに細めた。
「それは……」
「言って。貴方は、嘘を吐かないのでしょう……?」
以前アダルヘルムが言ったことを掘り返すと、言い淀む彼の口がゆっくりと開きはじめた。
「……君のためだ」
「そんな言葉で濁さないで。私は真実を知りたいの」
拳を握り強く告げると、彼は掴んでいた腕を離した。私が、カイザックの嘘を知ったことに気付いたようだ。
「……あの男は、君の純情を利用して己の邪な欲を叶えようとした。そして最後には、君をおびき寄せて殺す計画を立てていたので、始末する他なかった」
「殺すつもりはなかったということ?」
「……いや、たとえあの男が君を殺す気がなかったとしても、君の心を弄んだことに怒りが抑えきれず、手にかけていただろう。君のためだと言ったが、結局は俺の自己満足だ」
……すまない、と初めて謝った彼は、綺麗にほこりを払った布を私の肩にかける。僅かに触れた彼の指先すら、優しい感触だった。
「どうして、言ってくれなかったの……? きちんと言ってくれたらよかったのに……」
問いかけてから気付いた。我も忘れ発狂し、彼の言葉を一切信じなかったのは私だった、と。彼が説明する前に心を閉ざしたのだから、言えないのも当然だった。けれど、彼はそれを指摘するでもなく答える。
「君が愛した唯一の男が、自分を騙していた事実など知らない方がいいと思ったからだ」
「……私のため、ということ? 知らずにいた方が、私の心が傷付かないと思って?」
言葉にして確認すると、眉間を寄せたアダルヘルムが小さく頷いた。
「……馬鹿みたい」
口から漏れ出た言葉に、アダルヘルムがまた「すまない」と謝罪をした。だからすかさず否定する。
「貴方じゃないわ。……私のことよ」
布をかけてから伏せられていたアダルヘルムの瞳が、静かに私を映した。
「憎むべき相手を間違えて、無意味な暴走で人々を困らせていたなんて、馬鹿すぎて笑えるわ……」
「ナサリー……」
「嘘の優しさを信じ、本当の優しさに気付けないまま多くの人を傷付けて、私は一体何がしたかったのでしょうね……」
滑稽だと笑ってほしくて、無理に笑顔を作ってみた。すると、笑みを向けられたアダルヘルムの方が苦しげに顔を歪める。
「君は悪くない。君を愛さなかった家族と、騙した男が全ての元凶のはずだ」
「そうは言っても、演技とはいえ他者を傷付けた歴史は覆らないわ。貴方が言ったのよ、私の歴史は変わらないって」
「だが――」
「優しい言葉はかけないで。余計に惨めになるだけだから」
慰めようとして声を張り上げる彼を制止する。彼は私の言う通りに口を噤んだ。
「なにが最低最悪の悪女よ……独りよがりな感情で他人に迷惑をかけただけじゃない……。終いには、こんなふうに情けない姿を晒して……自分のしたことが全部返ってきちゃったわ」
フフッ、とわざとらしい声を出してみる。すると、黙っていたアダルヘルムが勢いよく私を抱き寄せた。
「笑うな。君のそんな顔は見たくない」
「……ま、また……なんで優しくするの……」
「君を愛していると言っただろう。だから、君が辛い表情をしていると俺も胸が苦しくなる。俺が嘘を吐かないと信じてくれたなら、この気持ちも信じてくれ」
「だって……私、貴方に愛される理由なんか、ひとつもないわ……」
抱きしめる力は苦しいくらい強いのに、痛みも感じないほどのひたむきな想いが、彼の全身から流れ込んでくるようだった。その想いを素直に受け取れない私が、ずっと抱いていた疑問を呟くと、アダルヘルムはそのままの体勢で語ってくれた。
「……君は覚えていないだろうが、エルサード第五皇女のデビューパーティーで、俺は君とダンスを踊ったんだ。会場中の皆から白い目を浴びせられ、嘲笑される君を見て、最初はただ不快に思ってダンスの誘いをしただけだった。……だが、第五皇女の悪意ある言葉で走り去った君を探しに出た庭園で、君の本来の姿を見た」
語られたのは、私が思い出した記憶の裏側にある、彼の視点だった。
「ひとり泣き腫らした君は、噴水に顔を近付けて自分を見つめていた。そして暫くしたら、水に浮かぶ自分へ向かって愛を告げはじめた。愛している、誰よりも一番愛している……と自分を慰める姿が痛々しく、同時に健気だと思った。愛されない自分を自分だけは愛そうと、まっすぐに向き合っているのが、俺にはない純粋さだった」
彼の言葉で再び思い出した。確かに、あの頃の私は自分を認めることに必死だった。見た目が少し異端なだけで、家族からも忌み嫌われるのが、理不尽だと感じていたから。
否定されるたび、いつも私を可愛いと言ってくれた母の声を思い出しながら、自分を美しいと思おうとした。彼が見たのは、きっとそんな場面だ。
「……俺も、歳の離れた父とは上手くいっていなかった。若い母が俺を産んで愛人と失踪したのを、父は俺のせいだと恨んでいたからだ。だが男として生まれた以上、父の後は継がなければならない。時間が経つ事に父との関係は冷え切り、俺は何も求めなくなった。言われた通りに行動し、次期公爵として為すべきことだけを行う人間になっていた。……しかし君は、愛を諦めなかった」
体を少し離され、彼の大きな手が私の頬を撫でる。
「いつか報われるときがくる……そう言って自分を前に進めようとする姿に、何かしてやりたいと思った。だが何もしてやれず、エルサードへ寄ったときに君の姿を密かに見に行く程度しかできなかった。そうして君のことを見ているうちに、恋をしていた」
垂れた前髪から、僅かに熱を持つ赤い瞳が覗く。




