私の報い
あの日の夜は、今のように風が冷たい時期だったのを覚えている。飾りもないドレスを着せられ、マナーも教えられないまま会場へ入った私は、どう振る舞っていいか分からず壁際に立ち尽くしていた。
彼はまだ爵位を受け継ぐ前で、男らしい端正な顔立ちというだけの令息だった。前公爵と共にパーティーに訪れ、前公爵の隣に黙って控えていたのを遠目から映していた。彼を含めて何人かを眺めると、私は異端な自分が場違いに感じて、殆どの時間を下を向いて過ごした。
しかし、主役である妹、第五皇女の入場で私は前に出なければならなくなった。
「お姉様も我が国の皇女なのだから、ご自由に殿方と踊ってくださいませ。あぁ、でも、お姉様と踊りたい殿方なんていらっしゃらないかしら?」
まだ十二歳だった妹は、既に嫌味が達者だった。ダンスの時間、私の相手になる人はいないだろうと皆が嘲笑い、私はどんどん下を向いた。
そのとき、彼が声をかけてくれたのだ。
「ナサリー皇女殿下、宜しければ踊ってくださいませんか」
「え……」
驚いて顔を上げると、垂れた黒髪から覗いた切れ長の瞳と目が合った。今と違い、肩まで伸びた長髪が、彼の男らしさを中性的に映した。けれど、ガッシリとした体躯なせいか、威圧感は強かった。
周囲の者は、アダルヘルムと私が会話する姿を無遠慮に見つめていた。私は彼に、まるで皇女とは思えない振る舞いをしている女を、ダンスに誘うだなんて何を企んでいるのか、と身構えた。だが彼は、仏頂面にも感じる顔で続けた。
「私もダンスの相手がいないので、お相手してくださると嬉しいのですが」
「で、でも私……ダンスなんて……」
「一曲でも構いません」
その無感情な声が、私を望んでいるわけではないと察するには十分だった。きっと、アダルヘルムも周囲の者たちからダンスを急かされたのだろう。都合よく相手のいない私がいたことで、早々に終わらせようと誘ってきたのだ。
密かに彼へ熱い視線を送っていた女性たちに睨まれ、断ろうかと思った。でも断れば、妹の言った通りになる気がして、結局私はその手を取ってしまった。
美しい音楽が鳴り響く中、見よう見まねで踊ったダンスは酷いものだった。ステップひとつすら上手くいかず、恐らく彼にリードされていたのだろうが、何も応えられなかった。流されるままに動き、彼の足を何度踏んだかも思い出せない。ダンス中も人々の嘲笑の声が耳に残り、恥の気持ちは大きく膨らんでいった。
それなのに、肝心のアダルヘルムは、何度足を踏まれても表情を変えることはなかった。繰り返し相当な痛みが走っているはずなのに、怒るどころか、眉を顰めることすらない。
そんな姿にどこか安堵してしまったが、ダンスが終わると同時に、妹の嫌味が炸裂した。
「お姉様、面白いダンスの披露をありがとう! 私含め、皆様も楽しめたようだわ。ところでお相手の方は、医務室にお連れした方がよろしいかしら?」
その発言で、会場内の皆が一斉に笑い声を溢れさせた。温もりも優しさもない声が、限界まで膨らみきった恥の感情を容赦なく刺激して、爆発させる。
そしてついに、私は会場を逃げ去った。踊ってくれた彼へ礼も言わないまま――。
思い出したアダルヘルムとの出会いに意識を飛ばしていたらしく、突如としてリラの呼ぶ声が耳に届いた。
「ちょっとお姉様! 急にボーッとしないでよ!」
「……あ、ごめんなさい」
「まさか本当に今の今まで忘れてたの?」
素直に頷くと、リラは信じられないとでも言うみたいに唖然とする。
「どうして私が覚えてるのに、お姉様が忘れてるのよ……。公爵も公爵だわ。これまでずっと、何も覚えていないお姉様を健気に守り続けるなんて……不憫な男ね」
アダルヘルムへの同情をボソリと口にした妹は、続けて私に対しても同情しはじめる。
「お姉様だって、再会した私に文句のひとつでも言えばいいのに、くだらない質問ばっかりだし……」
「……文句?」
「自分を虐げていた家族がボロボロになって目の前に現れたら、『天罰が下ったのね』って高笑いするでしょ、普通。それなのに、お姉様ったら怒りもしないんだもの」
だってそれは、貴女の命を危険に晒したのは私が原因だから……そう頭には浮かんでいたが、答えられなかった。
「思えば、お姉様っていつも私の言葉に反論しなかったわよね。あのパーティーだって、招待を断ることもできたのに、のこのこ参列して……」
「……たった一人の妹に招待されたんだもの。恥をかかせるつもりだって分かっていても、招待自体は嬉しかったわ」
「なによそれ。お人好しで世間知らずなんて、典型的な世渡り下手ね」
妹なりに反省しているのかとも思ったが、結局また嫌味を言われてしまう。さすがに反論しようかと口を開きかけたが、どこからか人の声が響き出した。
「リラ様――!! いるなら返事をしてください!!」
切羽詰まったような男の声だ。恐らく、リラと共に行動しているという騎士の男だろう。
「私は平気よ!! 今戻るわ!!」
姿の見えない男へ返事をしたリラは、再び私に背を向ける。
「私は彼のところへ戻るわ。お姉様はこのまま、せいぜい気楽に生きてちょうだい」
「え、ええ……気をつけて」
「……出来るなら、公爵のところへ戻った方がいいわよ。最近やっと皇族殺しの連中が捕まったけど、公爵の傍にいた方が安全だわ」
「え……もう捕まったの?」
「三日ほど前にね。それこそ、ヴァンガイムの兵士たちが手を尽くしてくれたそうよ。まったく……公爵も甲斐甲斐しいわよね」
「どういう意味?」
質問すると、リラは背中越しに深いため息を吐いた。
「お姉様、本当に察しが悪いのね。戦争を嫌う独立国家のヴァンガイムが、あの自分勝手なエルサード皇帝の弔いのためだけに、わざわざ皇族殺しの連中を捜索なんてするわけないでしょ。公爵がヴァンガイムの王に口添えしてくれたのよ。――多分、お姉様のために」
リラは背を向けたまま、顔だけをこちらに向けている。
「私の……ため……?」
「お姉様が今日まで殺されず済んでるのが、その証拠じゃない」
先程から衝撃ばかりで、頭が上手く働かない。けれどゆっくりと、アダルヘルムが言った『愛している』の声が蘇る。
「……フンッ、公爵と何があったか知らないけど、戻れるなら戻りなさいよね。お人好しで世間知らずなお姉様なんか、一人だとすぐに野垂れ死んでしまいそうだもの」
最後まで嫌味を吐いた妹は、あっさりした様子で手を振った。そして『じゃあね』とだけ言い残し、獣道を戻って行った。
愛する人の待つ場所へ戻る妹の背を見送った私は、やりきれない思いで暫く立ち尽くす。
「戻れるわけ……ないじゃない……」
もういない妹の言葉に、遅すぎる返事をして、来た道を振り返る。
アダルヘルムの屋敷はすぐそこだ。今戻れば、きっとサミエルがまた迎え入れてくれるだろう。
しかしそれはできない。なぜなら、私はアダルヘルムと別れるために多くの人を傷付けてきた。無関係の人に酷い暴言を吐き、トラウマさえも植え付けただろう。今となっては自分本位な行為だと思うからこそ、もう戻れない。
彼の優しさに気付けなかった、私の報いだ。
戻りたくなる足を無理やりに前へ進め、少しすると森を抜けた。同時に、登ったばかりの朝日がまだ光に慣れない瞳を刺激する。
行く宛てなどない。ただ、胸に巣食う罪悪感を誤魔化すように、足を動かすだけだった。




