戒め
考えがまとまらず、シーツのシワをなぞっていたら、鍵をかけた扉にノックの音が響いた。
「ナサリー様、どうか開けてくださいませんか……?」
その子犬のような声で、あの娘だと察しがつく。
「…………」
側仕えや他の使用人なら追い払うところだが、あの娘ならば、少しくらいは中に入れてもいいかもしれない……。なぜなら、彼女に聞きたいことがあるから。そう考えて、ゆっくりとベッドを降りた私は、無言のまま内鍵を開けた。そのまま扉を少し開けて、顔は見せず、娘を中に招き入れる。
「……入って」
無愛想に一言告げただけなのに、部屋へ入った娘は大層嬉しそうな声を上げた。
「ナサリー様……お部屋に入れてくれてありがとうございます……!! 私、こんなに嬉しかったことはありませぇん!!」
目に涙を浮かべながら、過剰なほど歓喜の声を上げる娘は――シェリー。カロリーネ皇女との件で、アダルヘルム同様、私を信じてくれた使用人だ。
いつもいつも、使用人にキツく当たる私を気遣ったり、私のことを心配したりするこの娘に、なぜかと聞いてみたかった。しかし私が聞く前に、部屋の惨状を見た彼女は大きな声で驚愕を口にする。
「――うわぁ!? ナサリー様、お部屋が大惨事です!!」
カーテンを締め切った暗い空間と、しばらく換気をしていない空気が合わさった、物が散乱する汚い部屋。シェリーは部屋をぐるりと見回すと、最後に私を見た。
「すぐにお部屋のお掃除をいたしますね!! それから、ナサリー様の湯浴みをお手伝いします!!」
「……掃除も手伝いも要らないわ」
「いいえ!! させてください!!」
私の小さな声では押し負けるほどの声量で言うシェリーは、張り切った様子で窓まで歩き、カーテンを開けた。いきなり差し込んできた光に、私は思わず瞼を閉じる。
「お部屋が湿っぽいと健康にも悪影響ですよ。だからどうか、私にナサリー様のお世話をさせてください」
薄く目を開けると、光に包まれたシェリーの笑顔が視界に映る。まるで太陽そのもののような、天真爛漫さを醸し出す彼女の笑顔を前にしたら、拒否の言葉は言えなくなった。結局、黙っている間に掃除を始められ、彼女に促されるまま浴室まで連れられたのだった。
湯をたっぷり張ったバスタブに肩まで入れられ、柔らかい泡で髪を洗われる。そして丁寧に流してから、ブラシで香油を浸透させると、シェリーは髪を整えながら語りかけてくる。
「ナサリー様の髪、本当に綺麗ですねぇ。ふわふわの雪みたいです」
「…………」
「降り積った雪がいつか溶けるように、ナサリー様の今は辛いお心も、きっと晴れる日がやってきますね」
子供騙しみたいな下手な慰めだった。けれど、その柔らかい声色が妙に落ち着いてしまう。バスタブに体を預け、湯の温もりを感じると、気付いたら深い眠りに落ちていた。何日も眠れなかったのが嘘のように、心と体が癒されたのを実感した。
起きたときにはベッドの上にいて、体は清潔な服を纏い、物が散乱していた部屋は見違えるほど整理されていた。起き上がったら、サラサラと触り心地の良い髪が頬に触れる。私が眠った後も、シェリーが丁寧に整えてくれたのだろう。
周囲を見回してシェリーの姿を探していると、部屋の扉が開いて、花瓶を持つ彼女が現れた。
「あ、ナサリー様! 目が覚めたのですね!」
笑顔の彼女は、花を生けた花瓶をチェストに置く。
「隈が少し落ち着きましたね。よく眠ったからでしょうか?」
ベッドから降り、気分良さげに話す彼女の背後に立つと、彼女は呑気な顔を私に向けてくる。
「やっぱり、ナサリー様はとてもお綺麗です。またお世話させてくださいね!」
満足そうに笑いかけてくる彼女は、私が側仕えたちへするようにキツく当たるのではないかという不安も、一切ないようだ。それどころか、まるで信頼しているかのように朗らかな笑みを浮かべる。
そんな彼女に、私は漸く問いかけた。
「……貴女、どうして私を疑わなかったの」
「はい? 何の話でしょうか?」
「皇女様との騒動の時よ」
目を丸くして首を傾げるシェリーに、ずっと聞きたかった、あの言葉の意味を問う。
「貴女は、私が寂しいのだと言ったでしょう……? あれはどういう意味?」
「あ……えっと……」
「どうして、私を信じられたの。多くの使用人が、主人でもないのに横柄に振る舞う私を嫌っているはずなのに……」
言い辛そうに目を泳がせた彼女へ、追加で質問する。シェリーは少し迷ってから、困ったようにまっすぐ見つめてきた。
「……蹲り、怯えて震えるナサリー様を、この目で見たからです」
「……え?」
小さく聞き返した私に、彼女は続ける。
「王都で行方不明になったナサリー様を見つけたとき、何かを恐れるみたいに小さくなったナサリー様が、安心して涙する私に少し笑ってくれた瞬間、思ったんです。この方は、きっと人からの温かみを求めているのだろう、と」
彼女の言葉に、私は声を詰まらせる。
「想い人が亡くなられ、自暴自棄のように荒れてしまわれたナサリー様を見ても、その考えは変わりませんでした。ナサリー様の瞳の奥には、いつも助けを乞うような心細さが滲んでいたように思えたんです。だから、ナサリー様が真の悪女だとは思えませんでした」
「たった……それだけで……?」
信じられない気持ちをか細い声で吐き出すと、シェリーは私がおかしなことを言ったみたいに微笑んだ。
「『たったそれだけ』じゃありません。自分の勘を信じた故です。私の勘はよく当たるんですよ?」
えへへ……と照れくさそうにする彼女を前にして、心の奥底からじわりと何かが染みてきた。泣きたくなるほどの、温もりだった。
「あ、貴女は……とんだお人好しね……」
しかし私は、彼女から与えられた温もりを、そんなはずないと無理やりに冷やそうとする。
「たった数度、会話を交わした程度の相手に……そこまで情けをかけられるなんて……おかしいじゃないっ……」
「……ナサリー様?」
「例え私が温もりを求めていたとして、貴女の仕事仲間を虐めるような最低な女なんて、貴女が同情する価値もないのに……どうしてそこまで良い心であれるわけ!? 何のメリットもないのだから、皆と同じように嘲笑えばいいじゃない……!!」
ドン! とシェリーの肩を押せば、胸に針が刺さるような痛みが走る。
「私は貴女たちのことなんか考えず、自分のことばかり考えて行動しているのよ!? 他者を傷付けてまで自分の望みを叶えようとしている、物語じゃ典型的な嫌われ者……!! そんな私が、虐めているはずの使用人に守られるなんてあっていいはずがないわ!!」
「私はナサリー様に虐められたことはありません……!!」
「うるさい――!!」
醜く騒ぎ立て、さらにシェリーを押した。シェリーは体勢を崩し、地面に尻もちをつく。
「不幸な私に同情することで、自分の善性を象徴しているんでしょう!?」
「ナサリー様、私はそんなつもりは――」
「わざとらしく寄り添うフリなんかしないで!! 私のことなんて何も知らないくせに!!」
情緒が乱れた拍子に、彼女が先程置いたばかりの花瓶へ手を伸ばしていた。そのまま勢いに任せて花瓶を地面へ打ちつけようと、それごと腕を掲げたとき、私を見上げる彼女の表情が映った。
――彼女はまだ、私を信じる顔をしていた。目を逸らさず、見透かしたようにまっすぐ瞳を覗いてくる。同情らしき感情が垣間見える下がった眉は、彼女が善性を象徴しているわけではないと確信づける。
「……くぅっ!!」
彼女を否定するため腕を振り下ろしたいのに、体は言うことを聞かない。それどころか、強く震えた腕は花瓶から力を抜いてはくれない。
力んでいる間に、生けられた花の花弁がヒラヒラと落ちていく。
やがて、振り下ろす気力はなくなった。無気力に花瓶を下ろし、小さく彼女へ命令する。
「……もう、いいわ。……クビよ、貴女なんて」
「ナサリー様……」
「早く出ていって。私の見えないところへ行って、もう二度と姿を現さないで……」
「…………」
「もう一度言わせる気……?」
動かず黙っているシェリーに、再び静かな声で告げる。少しして、彼女はらしくない悲しげな返事をすると、足音も鳴らさず部屋を出ていった。
瞬間、私はユラユラと地面にへたり込む。
涙と共に、どうしようもない後悔が襲いかかった。胸を突き刺す痛みは針からナイフに変わったように、耐えきれないほどの激痛となる。
本当は分かっていたのだ、シェリーが私を気遣い、理解しようとしてくれていることを。しかし、愛を得られず恋を失った私は、それを正面から受け取れず、突き放すことしかできなかった。誰かを傷付けてしまった自分が、温かみなど受け取ってはならないと思ってしまった。
結果的に、私は彼女を傷付けた。今の何もない私を受け入れようとしてくれた、唯一の人を。これはきっと、私の一番の罪になるだろう。
花弁の数枚落ちた花瓶を眺め、そんなことを思った。




