小さな歪み
次に私が行ったのは、食事の席でのマナー違反。それも、まともな貴族なら見るに堪えないほどの、酷いマナーだ。
「……ナサリー、食事しながらテーブルに腕を置くのは止めるんだ」
二人ではあまり使わない食卓に皇女を招いての食事中、隣に座る皇女との話に夢中な私へ、アダルヘルムが苦言を呈する。円卓のテーブルで互いの距離が近く、私の置いた腕はアダルヘルムの腕に触れていた。
「カロリーネ皇女殿下の前で、失礼だろう」
「あら、私たちもう随分と仲良くなったのですから、そのようなことお気にされませんよね?」
ニヤリと不遜な笑みを浮かべ皇女を見ると、彼女は困った顔で肯定する。
「は、はい。もちろんですよ、ナサリー様」
「ほら、皇女もこう言っているじゃありませんか」
まるで私に言わされたかのように気まずい顔をする皇女は、私よりも演技派だと感じる。そのおかげか、アダルヘルムも何も言えなくなっていた。そして皇女が許したことで、調子に乗った悪女の私はマナー違反を続けていく。
「……皇女殿下の体に許可なく触れるな、ナサリー」
「皇女様は許してくださいますわ」
「苦手な食材を端に避けるのも止めるんだ」
「食べられないのだから仕方ないじゃありませんか。ねぇ、皇女様?」
「フォークを皇女殿下に向けるな、不敬に当たる」
「だから平気だって言ってるじゃないですか。皇女様は寛大ですから」
「ナサリー……君のテーブルマナーは……」
「あー、もう! 煩いわね!」
執拗くマナーを指摘する彼の言葉を遮り、強くテーブルを叩くと、私は苛立った顔を意識して立ち上がる。
「まるで喧しい父親のようですわ。マナーなんて煩わしいもの、親しい人の前では少しくらい許容してくれたっていいじゃありませんか」
我儘を言う子供のようにアダルヘルムを睨む。彼は呆れた様子で、自分勝手な私を窘めた。
「彼女はランドルオーネの皇女殿下だ。たとえ本人が許したとしても、常に敬意を忘れてはならない」
「はぁ……貴方って本当に堅いのね。興がそがれたわ。後は二人で続けてちょうだい」
「ナサリー」
困惑するフリに徹する皇女にチラリと目配せをしたら、私は彼の呼び止める声を無視して部屋を退出した。けれど部屋の前から立ち去ることはせず、その場で中の声に聞き耳を立てる。サミエルとアダルヘルムの話し声が僅かに聞こえる。
「私が様子を窺って参りましょうか?」
「……いや、必要ない。彼女のことだ、きっと部屋で大人しくしているだろう」
私を追おうとするサミエルを引き止め、アダルヘルムは食事に戻ったようだ。黙々と食事を進める彼に、皇女が気まずそうに声をかける。
「あの、私のせいで空気を悪くしてしまって、ごめんなさい……」
「皇女殿下が謝る必要はありません。寧ろこちらの方が、皇女殿下の気分を害すような真似をしたことを謝罪します」
「そ、そんな……! 頭を上げてください、公爵!」
彼が頭を下げたのか、扉の奥から皇女の慌てた声が漏れる。
「私はナサリー様に心を許してもらえて嬉しいのです……。だから、公爵もあまり気になさらないでください」
「……ナサリーの失礼は、全て俺に責任があります。もし彼女が今より行き過ぎた無礼を働いた際は、遠慮なく申してください」
「ふふっ……公爵は本当に真面目な方ですね」
皇女は狙ったかのように、会話を広げていく。
「ひとつお聞きしたいのですが……公爵はなぜ、ナサリー様と婚約を?」
「…………」
「ナサリー様はエルサードの皇帝に、ずっと離れで隠されていたのですよね? 私も最近までその存在を知りませんでした。公爵はどこでナサリー様をお知りになったのですか?」
――暫しの無言。やがて、皇女からの質問だからか、彼の諦めたような声が語りはじめる。
「……ナサリーとは、随分前に一度会っているので、知ったのはその時です」
「まぁ、そうだったのですね」
速やかに納得した皇女だったが、扉越しに聞いていた私は、ひとり動揺していた。
アダルヘルムが、過去に私と会っている……? ヴァンガイムに来て初めて彼と出会ったと思っていたけれど、一体どこで彼と対面したの……?
忘れているのか、身に覚えのない情報に頭が混乱する。しかし、皇女はそれについて深く追及することなく受け流した。
「ナサリーとの婚約は、彼女の意思ではなく俺の個人的な感情で進めたものです」
「個人的な感情?」
「それについては皇女殿下にも言えません。ですが、少なくとも今の彼女には、この婚約は必要なものです」
「それはつまり……いずれは必要なくなるもの、ということですか?」
「答えられません」
皇女の引っかかりには答えず、当たり障りのない返答をするアダルヘルム。その中身が知りたい私としては、皇女にもう少し突っ込んで聞いてほしかった。しかし、皇女が聞き方を変える前に、彼の方が続ける。
「……皇女殿下、もしナサリーから妙な提案を持ちかけられても、手を貸すのはお止めください」
「妙な提案とはなんですか?」
見透かされたような発言に、心臓が跳ねる。そんな私と違い、皇女は冷静に笑声で問いかけた。惚ける皇女に、アダルヘルムは疑うような声で告げる。
「もう皇女殿下もお気付きでしょうが、彼女は俺と別れたがっています。先程までの無礼も、恐らく俺を幻滅させるために行ったものでしょう。貴女からしてみればいい迷惑でしょうが、彼女はそれだけのことで俺が幻滅すると信じて疑わない。……だから、彼女が何を企んで協力を促してきても、皇女殿下には理解した上で断ってほしいのです」
「……何を、理解するのですか?」
声に弾みがなくなった皇女に、彼はハッキリと告げた。
「――彼女に何をされても、俺は別れるつもりがない、ということを」
皇女の返事はない。私は、扉越しに歯を食いしばる。
こちらの考えが全て読まれていただけでなく、皇女に対して牽制のような態度までとられてしまったのだ。皇女の想いを知らずに放った言葉なのだろうが、その言葉は確実に皇女を抉ったはずだ。そして、私も……。
「……ふふっ、分かりました。ちゃんと理解しておきますね」
「……よろしくお願いします、皇女殿下」
暫し微妙な空気が漂っていたが、再び食器の触れる小さな音と、世間話の声が漏れはじめる。少女らしい感情豊かな声と、徹底して他人行儀な低い声が、二人の心の距離を表しているかのようで、やはり違和感があった。
けれど、この時の私は、皇女を利用した計画が上手くいかない未来を察して悩むばかりで、気付かなかったのだ。
皇女の声色から、恋する乙女の朗らかさが失われていることに――。




