騙された心
日も落ちた頃、屋敷に帰ったら、乱れた服の私を見たサミエルが仰天し、すぐさま使用人に湯浴みの準備を促した。いつも冷静な彼が、青い顔で私を気遣う様は珍しい。肩にブランケットをかけられて、アダルヘルムに寄り添われながら玄関を抜けると、あの使用人も現れた。
「ナサリー様ぁ!! ど、どうしたのですかぁ!!」
「こら!! やめなさい!!」
街で行方を眩ませた私に、心配したと涙を流したあの娘。あの日のように、彼女はまた目に涙を溜めて走り寄ってきた。
「どどどどうしてこんな酷いことを……!! お怪我はありませんかぁ!?」
「退きなさい、シェリー!! 湯の準備をするように、と言ったでしょう!!」
「だ、だって心配でぇ……」
サミエルに叱られても尚、私の傍を離れない彼女は、瞬く間に顔をグズグズにする。
「落ち着くんだ。彼女はどこも怪我をしていない」
見かねたアダルヘルムが私の代わりに答えると、よかったですぅ!! と彼女はさらに涙する。
皆して同じことばかり聞いてくるのが、私の良心を痛ませる。だからわざと顔を背けた。
「……もう、放っておいて」
そう言って、アダルヘルムから離れ歩きだす。理由の分からない優しさから、目を背けたかったのだ。突き放されたあの娘、シェリーという使用人と彼は、共に立ち尽くしていた。
*
丁寧な湯浴みを済ませ夜着に着替えたら、アダルヘルムの書斎へ向かった。馬車で告げられた言葉の真意を確かめるためだ。
小さくノックをするが、返事はない。そこへ、仕事中のサミエルが通りがかった。
「旦那様は湯浴みへ行かれておいでです。お話でしたら、寝室で待たれてはいかがでしょう?」
「……いいえ、寝室は行きたくないの」
「……かしこまりました。では、書斎に入ってお待ちください。私が旦那様にお伝えして参ります」
「勝手に入っていいの?」
「はい。ナサリー様がどこの部屋に入ろうと、一切の制限は必要ないと申しつかっております」
「そう……」
頭を下げたサミエルは、足早にアダルヘルムの元へ向かった。
信用されているのか、それともただの不用心か……。疑問がまたひとつ増えたことに頭痛がする。しかしそれも後で聞けばいい、と私は書斎の扉を開けた。
先程まで使われていたのか、小さく明かりの灯った室内は、暖かい色で私を出迎えた。均等に並べられた本がビッシリと詰まった棚は、部屋を囲うように存在感を醸し出している。机には仕事の痕跡と、他家から寄せられた手紙が残っていた。
世間では傍若無人と噂される人なのに、意外と整理された室内は、彼の本質を映し出すようだ。
そう思ってから、ひとり首を振った。……いや、そもそも彼の本質とは一体なんなのだろうか。
私を気遣う素振りを見せたり、危険な目に遭うと心配したり、私のことをどのように思っているのか、何度考えても理解できない。私を大切だと言ったのは、果たしてそのままの意味で受け取っていいのだろうか? もしかして、私を翻弄しようとしている?
彼の机を眺めながら、疑問に集中する。けれどいくら考えてもキリがないことに馬鹿馬鹿しくなり、溜め息を吐いて振り返った。そのとき、腕が当たって机に置かれた書類のいくつかが地面へ散らばってしまう。
紙の束が地面に落ちた音で下を向く。なぜか申し訳なく感じて拾いはじめると、散らばった紙の中に見覚えのある封筒が見えた。咄嗟に拾い上げ、封筒の宛名を確認する。
「こ、これって……!?」
堪えきれず声を漏らした瞬間、人の気配を感じた。扉の方を見ると、湯浴みを終えたアダルヘルムが立っている。
「……ナサリー?」
どうした、と続けようとする彼の言葉を待たず、私は彼に詰め寄った。
「どうしてこれがここにあるんですか――!!」
彼の胸元を掴み、封筒を見せつける。すると、彼はきまりが悪そうに目を逸らした。
「この……この手紙は……!! 私が城の離れで、カイザックに宛てて書き残したもの……!! これをどうして貴方が持っているんですか!!」
「それは……」
聞きたかったはずの全ての疑問を忘れ、ひとつのことに囚われた私は、激しい感情のまま容赦なく問い詰めた。
拾った手紙は、エルサードを離れる前、私がカイザックに見つけてほしくて机の引き出しに仕舞ったもの。封蝋もせず、恋しいカイザックの名を記したそれは、正しく私の書いたものだった。その手紙がなぜここにあるのか、訳が分からない私は、そのままの気持ちをアダルヘルムにぶつけた。
「これは私の気持ちを認め、大事に仕舞っておいたのに……どうして!! 仕舞った引き出しの中でも、亡きカイザックの手の中でもない、貴方の書斎にこれがあるのですか!! 答えてください!!」
強い言葉で問いただすと、彼は深く息を吐いて、私と目を合わせる。また、あの虚ろな目をして。
「……そのカイザックとやらの手の中にあったのを、俺が奪ったからだ」
「どうしてそんなことを――!!」
再び怒りに満ち溢れ、アダルヘルムの胸を叩いた。
「ナサリー……君はまだあの男が自分を迎えに来たと思っているのか」
「当たり前でしょう!? 彼はちゃんと約束を守ってくれたの……!! この手紙を読んで、私を探しに行こうとしてくれてたはず……それなのに!!」
「今日もそうやって酷い目に遭ったというのに……どうしてあの男のことをそこまで信頼できる」
「彼は私を初めて認めてくれた人よ!! 奪うことしか知らない貴方に、この気持ちは分からないわ――!!」
呆れた物言いをされて声を荒らげると、アダルヘルムは表情を歪め、苦痛を逃がすように目を逸らした。
「……君は、世間を知らなすぎる」
噛み殺すように呟かれた言葉。しかし私はそれを聞き流し、怒声を浴びせる。
「やっぱり……嘘だったのね!? 私を大切だとか言っていたのは!! ダンと同じように、私を謀ろうとしたんでしょう!?」
「……俺は嘘はつかない」
「もう信じないわ!! 貴方の言うことなんて、二度と!!」
強く胸を押し、距離をつくる。そしてカイザックを想い認めた手紙を握りしめ、彼の横を通り過ぎた。
「もう私を傷付けるのはやめて……!! カイザックを殺した貴方なんか……大嫌いよ!!」
そう吐き捨てて、書斎を後にした。走って自室に戻った私は、抑えの効かない感情に嗚咽を漏らす。
「ううっ……!」
締め切った扉を背に、ズルズルと地面へ膝を落とす。恋する人を殺した残忍な男に、一瞬でも心が揺らいでしまった……その事実が、どうしようもない罪悪感を引き寄せた。
「ごめんなさいっ……ごめんなさい、カイザック……!」
ぐしゃぐしゃになる手紙を胸に、天にいる恋しい人へ謝罪を口にする。何度も、何度も……。
やがて落ち着いた頃、私は改めて決意した。必ず、アダルヘルムと別れてみせる、と。
その数日後、誰からも社交の誘いのない私宛に、一通の手紙が届いた。差出人は、ヴァンガイムから遥か南側に位置する大国、ランドルオーネ帝国のカロリーネ・エクヴィルツ皇女と記されていた――。




