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カイザックが私を訪ねてくるようになって十日が経った頃、彼は帰りの日程が決まったことを教えてくれた。その頃には随分と彼に気を許していた私は、ようやくできた話し相手を失う寂しさに、胸を痛めた。
そんな私の心細さに素早く気付いたカイザックは、窺うように問いかけてくる。
「なぁ、どうして今日は笑ってくれないんだ?」
「……べつに、そんなつもりはないわ」
「昨日まではもっと楽しそうにしてたじゃないか。もしかして、俺が帰るのが寂しいのか?」
「…………」
「素直だなぁ」
なんでもなさそうに笑うカイザックに苛立って、小さく肩を叩く。彼は「いてっ」と嘘っぽく呟くと、私の頭を荒く、けれど優しい手つきで撫で回した。
「ちょっ、や、やめてよ! 髪が崩れるじゃない!」
「おーおー、赤くなって。頭を撫でられるのは初めてか?」
「初めてじゃないけど、すごく久々なのっ! もう、からかわないで!」
ハハハッ、と笑うカイザックは、頭を撫でる手を止めたかと思うと、途端に私の顔を覗いてくる。男らしくはっきりとした目鼻立ちの顔に至近距離で見つめられ、私は肩に力を入れた。
「……寂しいのはお前だけじゃないさ」
「そ、それって……どういう意味……?」
いつもと違う真剣な眼差しに、別の意味で身構える。カイザックは流れるように頭から移動した手で、優しく頬を撫でてきた。
「俺だって、ナサリーと別れるのは寂しい。せっかくこうして仲良くなれたんだ、何も思わず『はい、さよなら〜』なんて言えるわけないだろ」
「……変なの。貴方って、平気で別れを告げられそうな性格だと思ってた」
「いつもの俺ならそうだな。だけどお前は違うだろ?」
「……え?」
これまで経験したことのない動悸が、私の身体を小さく揺らす。彼は火照る私の顔を指でなぞりながら、笑みを浮かべた。
「ナサリーとの時間は、俺にとってもかけがえのないものだった。だから別れを惜しむのは当然だ」
「そ、そう……」
大きく包み込むようだった手が離れ、私は密かに息を吐いた。
このとき、自覚したのだ。カイザックへの恋心を。
数日後、カイザックはエルサード帝国を離れた。同時に、私の淡い恋心は夢のように散ったかに思われた。しかし、カイザックは最後の日、とある手紙を残していったのだ。
『またすぐに会いに行く』という一言と、私と同じ気持ちを綴った愛の手紙を。
*
カイザックとの出会いから一年が経つと、彼と過ごした日々を夢だったのではと不安になる日が増えた。変わらぬ冷遇が続き、一生分ほどかと長く感じる月日の中、十九歳の誕生日が過ぎると、余計に彼が幻だったのではと思えてきた。その度に彼のくれた手紙を見返して、夢ではないと自分を安心させる。
カイザックからの手紙は、あの一通のみ。エルサード帝国での私はいないもののように扱われているため、他国から手紙を送ることはできないのだ。そんな仕方のない事情を理解しつつも、姿の見えない彼の心を疑った。
本当は、私のことなんて忘れたのかも。たった数日、短い時間を共に過ごしただけの、不憫な女のことなんて……。
彼を信じたいのに、信じきれない自分がいることに、罪悪感を抱いた。その罪悪感を拭ってくれる本人が現れることもなく、孤独な日々はゆるやかに進んでいく。
やがて、二十歳の誕生日が目前に迫った頃、見覚えのない使用人から手紙を差し出された。
「第四皇女殿下宛てです」
「私宛て……?」
それでは、と渡すだけ渡して立ち去った使用人を奇妙に思いながらも、手紙を確認する。封蝋の紋章も見知らぬもので、差出人の名もない。普通なら怪しいと感じる手紙なのに、なぜか胸が期待感で満たされた。
封を開けると、一枚の便箋に見覚えのある文字が並んでいた。何度も見返して目に焼き付いた――カイザックの文字。
『もうすぐ会える。待っていてくれ』
短いけれど、恋しい彼の言葉だった。胸はじわじわと温かみを帯び、口元は恐ろしいほど制御が効かない。
私にこれを伝えるためだけに、彼はものすごく苦労しただろう。普通の郵便制度を使うわけにはいかないため、様々な人を雇って手紙をここまで運んだはずだ。きっと、先ほどの見覚えのない使用人も、彼に雇われた者に違いない。
そうまでして彼が私に手紙を送ってくれたことが、嬉しくて涙が出た。
『もうすぐ』とはいつだろう。早く会いたい。
彼を待つ心はふわふわと、そして雲のようにゆっくりと、時間の流れをさらに遅くさせた。
カイザックからの手紙が届いて数日、ついに私は二十歳の誕生日を迎えた。待ち焦がれる彼はなかなか現れず、もしかして、と僅かに期待した心は落ち着きを取り戻す。
誕生日に颯爽と現れて、私をここから連れ出してくれるのでは。そんな淡い期待は、夜が訪れたことで諦めとなる。
もうすぐ日付が変わるだろうか。明るく夜空を照らす月が雲に隠されたのを、寝巻き姿でぼんやりと見上げる。誰もいない、庭先に繋がる回廊で、一人ぼっち。
一人の誕生日はこれで何回目だろう。そんなことを考えたとき、雲が晴れた月夜に照らされる一人の男の姿が、塀の上に現れた。
「ギリキリセーフだよな、お姫様?」




