憎き救いの手
「あぁ、皇女様……いい香りだ……」
熱い息を吐き出しながら首筋を嗅ぐダンに、強ばった体は動かない。初めて感じる身の危険に、恐怖心が限界値を突破していた。その間にも、彼は私の身体を嫌らしく撫で回す。
「高貴な身分に相応しい強かさを持ちながら、純粋で無垢な香りをさせているとは……面白い人だ……」
「や、やめて……」
「フフッ、こんなに体を震わせて……もしかして、そういうプレイがお好みですか?」
決死の抵抗を口にしたにも関わらず、彼が怯む様子はない。それどころか、妙な勘違いでさらに盛り上がっていた。
「皇女様のお望み通りさせていただきますよ。私はこれまで、多くの女性の希望に応えてきましたから……」
「わ、私はそんなこと求めていないわっ……!」
震えながらもどうにかダンの体を押し返すと、彼は困ったように眉を下げる。
「私はこういうことを貴方としたかったわけじゃ……」
「皇女様は演じることが随分とお得意なようですね……何も知らない生娘が、本当に私を恐れているみたいだ」
演じてなどいない、真の言葉だった。しかし、ひとり盛り上がる彼には伝わらない。
「婚約者に行動や心を制限されたくない、と仰っていましたよね? つまり、今まで数多の男と関係を築いてきたということでしょう?」
「そ、そんなつもりで言ったわけではありません! 私はただ、誰にも縛られず自由に生きたくて――」
「ええ、勿論分かっていますよ……その気でないときに迫られても困りますよね。ですが、私を煽ったのは皇女様ではありませんか」
「煽ってなんかっ……!」
「こんなに柔らかな肌をさらけ出して、私の劣情を煽ってはいないと言うのですか? あぁ、もう……そんなに怒らないでください……すぐにその気にさせてみせますから……」
話が通じない。欲に溺れて拒否の声すら聞こえなくなっているダンに、私はただ恐怖した。飢えた獣に捕われ、悪女としての余裕もなくなる。
「い、嫌っ!! 触らないで!!」
演じることなど、忘れてしまっていた。心からの拒否なのだ。けれど彼は、スカートの割れ目から覗く素足に、手を這わせてくる。
「お願い、やめて!! 誰か……誰かぁ――!!」
瞼が熱くなるのを感じながらも、必死に叫んだ。僅かに人の足音が聞こえた気がして、もっと大きく助けを乞う。
――そのとき、突如としてダンの体が引き剥がされる。私の自由を奪っていた彼の体は、鈍い音をたてて殴り飛ばされた。顔に大きく痣を作ったダンは、怯えた様子でその原因を目にする。
「あ、貴方はっ……」
瞳に恐れを浮かべる彼に釣られるように、私も同じ者を見た。
「アダルヘルム……」
決してこちらを振り返ることはないが、見覚えのある大きな背中と艶のある黒髪で、その者が婚約者であると理解できた。
「なぜここにいるの……」
「…………」
答えはない。しかし、まっすぐ凛とした背筋から、彼の不穏な感情が読み取れる。
「こ、公爵様……! これは……これは違うのです!」
静かに睨むアダルヘルムに恐れ慄いたのか、ダンはその痛々しい顔を滑稽に歪ませ、言い訳を吐いた。
「私はただ、皇女様のお望みを叶えようとしただけでっ……貴方様の婚約者に手を出そうとしたわけでは決して……!」
何を問われたわけでもないのに、見苦しく声を張るダンに、アダルヘルムは無言のまま一歩踏み出した。靴が地面を踏みしめる音に更なる恐怖を感じたらしいダンは、私をひと目映すと新たな言い訳を重ねる。
「こ、皇女様が私を誑かしたのです! 大胆に肌を晒して、素脚を覗かせ、甘い言葉で煽ってきたのです! 淫らな格好で女性に言い寄られ、私は為す術もありませんでした……!」
チラリと見てきたダンと目が合う。すぐに目を逸らされ、私は彼の真の姿を知った。自分を守るためなら、私のような女は即座に切り捨てる。それが彼の逃げ方なのだろう。
「皇女様は公爵様のいない隙を狙って、自ら私に会いに来たのです!! この路地裏に誘ったのだって、彼女の方でした!! 私は彼女の求める通りに抱き寄せただけに過ぎません!!」
だからどうかお許しを――尻もちをついた状態で、そう頼み込むダン。私は、彼の嘘を指摘もできず黙っていた。
彼の言ったことは、確かに嘘もあったけれど、概ね事実だったからだ。淑女とは到底思えない大胆な格好で、男の欲望を煽ったこと。婚約者の見ていない隙を狙って、他の男との逢瀬に出かけたこと。
そのどれもが、浅はかな私の無謀な行いであった。婚約者を幻滅させたいが為に、自ら危険な行為に踏み込んだのだ。欲望に駆られた男性がどのようなことを求めてくるか、想像もしなかった私の落ち度である。
焦るダンの言い訳を聞きながら、何も言えず俯いた。恐怖心で溢れ出た涙を拭い、婚約者の声を待つ。自分の愚かさに気付いていたからこそ、涙するのは筋違いであると感じたのだ。
きっと、アダルヘルムは自業自得だとため息を吐くのだろう。……そう思っていた。
しかし彼は変わらず無言で、腰を抜かすダンの正面まで歩くと、いきなり襟元を握り持ち上げた。
「ヒィッ!?」と声を漏らし、情けなく上半身を片手で持ち上げられたダンは、再び彼の拳で容赦なく痛めつけられる。
整った顔を何度も、恐ろしいほどに何度も殴られ、見る影もなくなった。
やめてくれ、許して、ごめんなさい……可哀想にも思えてくるほど懺悔の言葉を口にするダンを、アダルヘルムはこれでもかと痛めつけ続ける。その手は暫く止まることはなかったが、やがてダンの意識がなくなったことで、ようやく落ち着いたようだった。
静かに振り向いたアダルヘルムは、怒りの滲む瞳で私の姿を捉える。そして乱れた体を上から下まで視線でなぞると、離れていても音が聞こえるほど、強く拳を握った。
「…………」
しかし、やはり無言で私の元へ歩いてくる。
「……怪我はないか」
へたり込む私の前で跪いた彼が、やっとのことで口にしたのは、怒りでも罵りでもないそんな言葉だった。
衣服を直されながら頬を撫でられ、思わず唖然としてしまう。
「……他に言うことはないのですか」
「…………」
思わず問いかけてみるも、返事はない。揺れる前髪に隠れつつある瞳を覗こうとするが、その瞬間、アダルヘルムの腕が私を包み込んだ。優しくも感じてしまう腕に体を支えられ、気付くと足は宙へ浮いている。
まるでただの被害者であるかのように、抱き上げられていた。密着する彼の体温からは、私を責める冷たさは感じられない。
「どうしてっ……」
「…………」
アダルヘルムのことが理解できず、小さく呟いた言葉にすら、返答はない。けれど、私の体を支える彼の腕が、僅かに力を込めるのを感じた。




