たった一つの好機
どれだけ待っても別れを告げてこないアダルヘルムに、痺れを切らしてわざわざ会いに行ったのは、パーティーから十日が経った深夜だった。
「どうして何も言わないんですか」
「……初めて寝室を訪ねてきたと思ったら、そんなことか」
薄手の寝巻き姿でアダルヘルムの寝室を訪れた私に、彼はため息をこぼして呟いた。
「王家が主催するパーティーであんな騒ぎを起こしたのに、まさかお咎めなしだなんて言わないですよね?」
「……君は俺に咎めてほしいのか?」
呆れたように聞き返されて、口を噤む。別れを要求していることがあまりに明確だった、と気付いたからだ。
「……確かに君のしたことは酷いものだ。しかし、君の行いには俺にも責任がある」
「……目の前で不貞行為を働こうとしたんですよ」
「それも俺の不徳の致すところだ。君ひとりを責め立てたところで、俺の責任はなくならない」
静かに、そしてまっすぐに告げてくる彼は、まるで真摯な男のようだった。しかし、本当に真摯であるなら、自身が殺めた男の恋人を、婚約者に留めるようなことはしないだろう。
「今更、心の広さでも主張しようというのですか……」
吐き捨てるように呟いて、まっすぐな瞳から目を逸らす。アダルヘルムはピクリと指先を跳ねさせると、強く拳を握った。
「君が俺と別れたがっていることは知っている。だが、この関係は君のためにも必要なものだと言ったはずだ。何をされても、俺から君に別れを告げることはない。……これは、心の広さでもなんでもない」
「では、私をずっと貴方の傍に縛り付けるおつもりですか」
「……今はまだ、そうせざるを得ない」
いつか解放してくれるかのような物言いに、苛立ちは募る。どうせそんなつもりはないくせに……。
「……貴方がどんなに寛容なフリをしても、私は貴方と別れるためならなんだってしますよ。この間のように、他者を傷付けることだって」
「……構わない。君のためなら、尻拭いでもなんでもする」
「っ……」
優しさをひけらかすような言い方に腹が立って、早足でその場を去った。背後から私を呼び止める声が聞こえた気がしたけれど、無視して突き進んだ。自室へ辿り着いたら、ついに我慢できず近くに飾られていた花瓶を持ち上げる。
感情のまま、花瓶を地面にぶつけてしまおうかと思った。陶器の割れる痛々しい音が響き、散らばった花を眺めたら少しはスッキリするかもしれない、と。
しかし花瓶を持ち上げて暫くすると、我に返って元の位置に戻した。この花瓶は、都で蹲る私を見つけ泣いたあの使用人が、エルサードの崩壊騒動で気を揉む私のために置いてくれた物だった。
とても、割ることはできなかった。割ってしまえば、あの子が再び涙してしまうような気がして。
「……今更、いい主人になんてなれやしないのに」
呟いた言葉は、自分の胸に突き刺さる。けれど負い目はすぐに振り払い、彼女の笑顔を脳内から追い出した。
私は悪女でなければならない。一番初めに私を受け入れてくれた、大好きな人を殺された……その悲しみはアダルヘルムの傍にいる限り続くのだ。
正式に夫婦となる前に一刻も早く彼と別れるため、悪女を演じるのだ。そう、鼓舞するしかなかった。そこから先のことなど、考える余裕もなく。
*
何もすることのない日常が戻ってきて、私は側仕えたちを虐める生活を続けていた。あれからアダルヘルムとはあまり顔を合わせておらず、屋敷ですれ違うこともなくなっていた。サミエルに聞いても、仕事や用事で出かけているという返答ばかり。
別れたがっている私の反抗ともとれる態度を、あえて見ないようにしているのだろうか……。
正直なところ、困っていた。彼がいなければ悪女を演じる意味がないからだ。
いくら側仕えたちを虐めようとも、彼が見ていないのでは、ただの虐めにすぎない。そんなことを続けても、彼を刺激することもできないのでは、何も気は晴れない。かといって、悪女として公の場で公爵家の名を汚そうとしても、そんな場に招待もされていなかった。
あのパーティー以降、元々良く思われていなかった私の評判が悪化したことを、使用人たちの立ち話で小耳に挟んだ。だからか、どこの貴族からも茶会の誘いがないのだ。悪女を主張する場がないことに、私は一抹の焦りを感じていた。
けれどそんな折、私宛に名無しの手紙が一通届いた。封蝋の紋章も見覚えはない。怪しみながらも開封し、誰にも見つからないよう一人で中を確認する。
『あの日、私の熱い眼差しに応えてくれた美しい貴女に、もう一度会えたなら……』
そう記された内容で、すぐにどこの誰が送った手紙か理解できた。
ダン、先日のパーティーで出会った、女性を誑し込む才能があるらしいあの男性だ。不遜な態度を惜しげもなく晒した私に引いてしまったかと思っていたが、どうやら思い過ごしだったようだ。
手紙には私の美しさを称える言葉や、嘘のような愛の言葉が長々と記されていた。そして、まさしくそれは私を惹きつけるための嘘なのだろう。
思わぬ好機に、彼を利用しない手はないと思った私は、即座に返事を出した。自分も同じ気持ちである、と。
先日の騒動の原因となった彼と懲りずに不貞行為を働けば、別れる気のないアダルヘルムでも、さすがに嫌気がさすはずだ。
そんな甘い考えで、私は嘘の愛を囁き合う手紙のやりとりを続けた。




