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第8話「教会の帳簿」

 春の霧が村の屋根を包んでいた。

 鐘の音が、まだ霞の向こうで鳴っている。

 その音は、まるで誰かの祈りを吸い込んでいくように遠くへ流れた。


 教会の前では、老女たちが膝をついて祈っていた。

 手の皺に埋もれたロザリオは、使い古されて黒ずんでいる。

 誰もが口を閉ざし、誰もが心の中で「明日の麦が実りますように」と唱える。

 だがその祈りの裏で、教会の鐘楼には新しい銅板が貼られていた。

 “神への奉仕”と呼ばれる金が、確実に何かを変えていた。


 その日、父は朝から正装していた。

 白い襟、深い青の上着。村長の印章を胸に差し、教会へ向かう。

 エメリクは後ろからついていった。

 十五歳の少年には重い空気だが、父は一言も喋らなかった。


 「今日の議題は?」

 「寄進金の使途報告だ」

 「神父は誠実な方では?」

 「誠実だ。誠実だからこそ、こちらも騙されないようにせねばならん」


 父の声には皮肉が混じっていた。

 それは嫌味ではなく、長年の経験から出る“疲れた知恵”だった。


 教会の扉を開けると、香と蝋の匂いが押し寄せた。

 祭壇の奥に座る神父の衣には金糸が輝き、

 まるで王国の役人のように威厳がある。

 修道士たちは三人、全員が帳簿を抱えていた。


 「村長殿、ようこそ。年度末の報告に立ち会っていただけるとは光栄です」

 神父の声は柔らかく、だがその抑揚には“主導権”があった。


 「この村は神の庇護にあります。

 皆の寄進によって、昨年は王都の神殿再建にも協力できました」


 修道士が帳簿を開く。

 ページをめくるたびに、インクの匂いが強くなる。

 「寄進金 総額二百三十銀貨」

 「修繕費 二十五銀貨」

 「布教費 百十銀貨」


 父は頷いて聞いていた。

 しかしエメリクは眉をひそめる。


 「布教費……多くありませんか?」


 神父が微笑む。

 「神の教えを広めるには、金も必要なのです」


 「けれど、旅費が毎月王都まで……」

 神父の目が一瞬だけ細くなった。

 「若い方は鋭い。だが、それは神の導きの旅です」


 「導き? 誰のための?」


 沈黙。

 修道士の一人が咳払いした。

 父が椅子を鳴らし、

 「エメリク、控えよ」と低く言った。


 だが少年の言葉は止まらない。

 「神のために金を使うなら、村人にも説明がいるはずです」


 神父は微笑んだまま、

 「説明が必要なのは、人の理では。神は理を超えています」と返す。


 「理を超えるなら、なぜ帳簿をつけるのですか」


 空気が裂けた。

 礼拝堂の蝋燭が、ひとつ、ぱち、と音を立てて燃えた。

 神父の声が低くなった。


 「理を超えても、秩序は必要なのです」


 「それは神の秩序ですか。それとも――あなた方の?」


 父が立ち上がった。

 その声は静かで、しかし一切の余地を与えない。

 「息子の無礼をお許しください。まだ、世界の重さを知らぬのです」


 神父は笑った。

 「誰もが若いころは神と議論したがるものです」


 そのまま、帳簿は閉じられた。

 会議は終わった。


 外に出ると、霧はすでに晴れかけていた。

 陽光が石畳に落ち、白い鳩が飛び立つ。

 だがエメリクの胸の中は、晴れなかった。


 「父上……」

 「もう言うな」

 「なぜ黙るのです。村の金が、神の財布に吸い込まれているのに」

 「黙らねば、この村ごと潰される」


 父の声には怒りも悲しみもなかった。

 ただ、現実の重みがあった。


 夜。

 父は机に向かい、書簡をしたためていた。

 エメリクはその後ろに立ち、問う。


 「本当に教会は、村を救っているのですか」

 「救っているとも。……“見た目”だけは、な」


 「ではなぜ従うのです」

 「従わねば、領主が見放す。領主が見放せば、王国の支援も消える。

 王国の支援が消えれば、教会の祈りすら止まる」


 父は羽根ペンを止めた。

 「つまり、この村は“祈り”で生きているように見えて、

 実際は“金の循環”で保たれている。

 それを壊すには、祈りも壊さねばならん」


 エメリクは唇を噛んだ。

 「それでも、正すべきです」

 「正せば、誰かが餓える」


 「父上はそれを許すのですか」

 「許す? 違う。選ぶんだ」


 父は息を吐いた。

 「政治とは、“誰を救い、誰を見捨てるか”を決めることだ」


 その言葉が、胸に刺さった。


 深夜、村は静まり返っていた。

 エメリクはひとりで教会へ向かった。

 扉の隙間から灯りが漏れている。

 修道士が帳簿を数えていた。

 棚の奥に置かれた麻袋。銀貨の音が微かに響く。


 「……やはり」


 その瞬間、背後から声がした。

 「若君、こんな夜更けにどうされました」


 振り返ると、先ほどの青年書記が立っていた。

 神学校から派遣されたという、穏やかな青年。

 彼は笑って言う。

 「真実を見た目で判断してはいけませんよ」

 「じゃあ、この金はなんだ」

 「希望の形です」

 「希望?」

 「金は祈りの形になる。祈りは人の形になる。

 だから形を壊すことは、信仰を壊すのと同じです」


 エメリクはその言葉に、何かを感じた。

 信仰も、税も、形。

 人々は形を信じて安心している。

 その形を壊せば、神だけでなく“秩序”も消える。


 だが――壊さねば、新しい形も生まれない。


 翌朝、父は珍しく外で村人たちと話していた。

 「祭壇の修繕に五銀貨を出そう」

 「神父様の祈りに感謝だ」

 村人たちは笑っていた。

 だがエメリクには、その笑いが空々しく聞こえた。


 父がこちらを見た。

 「エメリク、何を見ている」

 「形です」

 「形?」

 「この村の“信仰という形”が、どう崩れるのかを」


 父は笑わなかった。

 ただ、頷いた。

 「ならばよく見ておけ。その崩れ方を学べ」


 夜、村の鐘がまた鳴った。

 それは祈りではなく、

 補助金の再配分を知らせる鐘だった。


 羊皮紙の上で、銀貨の音が重なり合う。

 信仰と金。

 どちらが神聖で、どちらが汚れているのか。

 もはや区別などつかない。


 エメリクは父の机の横に座り、静かに呟いた。

 「誠実だけでは、この帳簿は読めないな……」

 この第8話は、「信仰」と「制度」がどう重なり、

 そして“父がなぜ沈黙を選んでいたか”を明確に描く章です。


 エメリクはまだ純粋すぎる。

 だが彼の純粋さが、やがて村を動かす原動力になる。


 次回、第9話「麦畑の炎」では、

 この“構造の歪み”がついに爆発し、

 信仰と生活が衝突します。


 ――政治の理屈が、感情に敗れる瞬間。

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