第42話伊東乾(いとうけん)
1. 旋律の父、知の巨人
「アナクロニズム」というバンドの核には、一つの巨大な知性が横たわっている。東京大学教授であり、作曲家・指揮者でもある伊東乾という存在だ。
そもそも、このバンドは豪志(ponzi)が伊東の著書や思想に強く触発され、その熱量をぶつける先としてシャンボを誘ったことから始まった。結成当初、豪志は本気で伊東に楽曲のプロデュースを依頼しようと考えていたほどだった。
2026年、春。グラミー賞へのノミネートという狂乱の中にいながら、豪志はふと足元が覚束なくなる感覚に陥っていた。
「僕たちの音楽は、本当に『正しい』響きを鳴らしているんだろうか」
そんな疑念が頭をもたげるとき、豪志が求めるのはいつも、かつて自分を暗闇から引き上げた「知の羅針盤」だった。
風の噂によれば、伊東は今、東京藝大の学生たちと共に、クラシック音楽を物理学的・数学的に解析する「音学」という新たな研究に没頭しているという。音楽を単なる情緒の産物としてではなく、物理的な振動と構造から再構築する試み。それは、豪志が掲げる「脱構築」というテーマを、より根源的なレベルで実践しているようにも思えた。
2. 「碩学のファインマン」と幻の楽団
伊東乾と豪志の因縁は、2014年にまで遡る。
当時、日本中を震撼させたテロ特措法にまつわる一大事件、通称「碩学のファインマン」事件。その騒乱の渦中で、二人は思想の共鳴者として出会い、深く意気投合した。しかし、時の流れと豪志の精神的な沈沈、そして度重なる入院生活の中で、その縁は徐々に疎遠なものとなっていた。
だが、豪志は孤独な病棟のベッドで、幾度もひとつの「夢」を見ていた。
それは、時代の寵児たちを集めた、究極の脱構築バンド「ソフィスト」の結成だ。
ボーカルに投資家の村田美夏、ベースにジャーナリストの津田大介、ドラムに起業家の堀江貴文、そしてギター・作詞作曲を豪志が務め、伊東乾がプロデュースとアレンジで全体を統括する。
それは、社会の既存の価値観を根本から揺さぶる、知性と毒に満ちた楽団になるはずだった。結局、その計画は豪志の病状や諸般の事情で立ち消えとなったが、その野心的な構想は、現在の「アナクロニズム」の土壌として確実に生き続けている。
3. SNSに漂う、奇妙な連帯
2026年の現在、豪志はかつての「ソフィスト」候補生たち、そして科学教育の権威である左巻健男を加えた5人と、SNSを通じて細く、しかし強固に繋がっていた。
彼らは時に論争し、時に励まし合い、リアルでも時折顔を合わせるという、奇妙な信頼関係を築いていた。世間からは「異端児の集まり」と見なされる彼らだが、豪志にとっては、自分の狂気と理性を同時に理解してくれる数少ない同志だった。
だが、今、豪志が本当に必要としているのは、情報の断片ではなく、伊東乾という男の「生の声」だった。
「シャンボさん、ちょっと上野まで行ってくる」
「上野? 藝大ですか」
シャンボは、豪志が何を求めているのかを即座に察した。
「伊東先生に、今の僕たちのエクリチュール(書かれたもの)を、物理的な振動として診てもらう必要があるんじゃ」
豪志は、古びたメッセンジャーバッグに、書きかけのセカンドアルバムの構想ノートを詰め込んだ。
自分たちが鳴らしているのは、ただの流行歌か、それとも世界という構造を組み替えるための「数式」なのか。
「困ったときの伊東乾」
そう呟きながら、豪志は松戸駅のホームに立った。
グラミー賞のノミネートという虚飾の鎧を脱ぎ捨て、一人の「音学」の生徒として、彼は再び、師と仰ぐ男の門を叩こうとしていた。新しい音楽のヒント、そして世界を変えるための次なるメッセージを掴むために。




