第37話みんな怯えながら生きてるのだから
1. 「今」という名の特効薬
小岩クリニックの作業療法士棟に流れる空気は、もはや精神病院のそれではない。窓の外に広がる小岩の殺風景な街並みさえ、どこか別の惑星の風景のように遠のいていく。
『ウソ』の余韻に包まれ、静まり返ったホールに、ponziの爪弾くChillなイントロが優しく、しかし確かな体温を持って染み渡り始めた。
「……『今を生きる』」
ponziが囁くように曲紹介をすると、シャンボが魂の深淵から汲み上げたような声で歌い出す。
(歌:シャンボ)
わたしは誰かに何かを与えたり、誰かを評価したりできるような偉い人間であったろうか?
博愛がモットーのわたしではありますが、今を生きるのに精一杯で、誰かを思いやる余裕はない――
その歌詞は、病棟で日々「評価」され、「診断」され、社会的なヒエラルキーの底に置かれている患者たちの胸を直撃した。立派な経歴も、完璧な人格も持たない。ただ、呼吸を続けることさえ困難な夜を乗り越えてきた者たちにとって、それは「救い」そのものだった。
ponziはギターのコードを強く掻き鳴らし、マイクに向かって実存の叫びをぶつける。
「未来は全部『今』の積み重ねなんだ! 過去の自分も、あの苦しかった瞬間も、全部その時の『今』だった。だったら、今この瞬間をしっかり生きる。それ以外に、何ができるっていうんだ!」
(歌:シャンボ)
今を生きる、今を生きる
愛こそすべて、ジョン・レノンの哲学
今を生きろ、しっかり生きろ
みんな怯えながら生きてるのだから――
「みんな怯えながら生きてるのだから」
そのフレーズが繰り返されるたび、会場のあちこちで嗚咽が漏れた。強がっているテリーも、管理する側の青山院長も、そしてここにいる患者たちも、皆、得体の知れない不安に怯えている。ponziの哲学は、その「弱さ」を共有することで、冷酷な分断を溶かしていった。
2. 泥濘からのパラダイムシフト
曲の中盤、ponziは自らの人生を振り返るように言葉を紡ぐ。
「立派な人格とは無縁の、ゴミ溜めから始まった第二の人生。僕はいつだって甲斐性なしだ。でも、健常に動けるだけでマシじゃないか。脱構築的なインクルージョン……それこそが、僕たちの生きる道なんだ!」
シャンボの歌声は、ponziの言葉を音楽の翼に乗せて、さらに高く、さらに遠くへと運んでいく。
(歌:シャンボ)
彼女ひとり説得できない自分がいて
自己実現じゃない歴史的使命感
恋をしてはまたフラれの繰り返し
みんな怯えながら生きてるのだから――
「自己実現」という新自由主義的な呪縛から降り、もっと大きな、歴史の一部としての「今」を引き受ける。難解な哲学用語が、メロディという魔法を通じて、患者たちの生きる活力へと変換されていく。ホール全体の熱気は、もはやライブハウスの絶頂期を凌駕していた。
3. 終幕、そして約束の「方舟」へ
熱狂の渦の中で、ponziは穏やかな表情でシャンボと視線を交わした。
「……最後の曲です。『ノアの方舟』」
これまで披露してきた難解で鋭利な哲学の刃を、最後は包み込むようなポップな旋律へと変える。イントロが始まった瞬間、会場にはパッと花が咲いたような明るい空気が広がった。
(歌:シャンボ)
いつも決まった仕事、いつも決まった日常。いつも決まった帰り道。
古典は読む方、色褪せたルーティンを慰めてくれる数少ない魔法だから。
君と出会って距離を縮めて、本当は狙ってたんだ、このネタ――
エミへの想いを込めたその歌は、誰の心の中にもある「大切な誰か」の記憶を呼び起こした。病棟という、変化のない「色褪せたルーティン」を生きる彼らにとって、音楽こそが、そして誰かを想うことこそが、世界を鮮やかに塗り替える魔法なのだ。
(歌:シャンボ)
君がいるから頑張れるんだって。君がいるから生きていけるんだって。
神話のようにノアの方舟に乗って、like a history、ノアの方舟に乗って。
君の人生に光と神のご加護が! 君の未来に勇気と幸運を願う!
「哲学書が好きなんだ! 君との差異を埋めて、同一的になりたいんだ!」
ponziのバックコーラスが、シャンボのメインボーカルと美しく絡み合う。
「二人のおとぎ話。君のためだから頑張れる。どんな嵐が来ようとも、この『音』という方舟に乗れば、僕たちはどこへだって行ける!」
会場中が手拍子に包まれた。ヌシのオコノギさんも、佐藤くんも、久仁子ちゃんも、そして看護師のヒナちゃんまでもが、満面の笑みで体を揺らしている。
(歌:シャンボ)
神話のようにノアの方舟に乗って。
君の人生に光と神のご加護が!
君の未来に勇気と幸運を願う!
最後の一音が、冬の陽光が降り注ぐホールに長く、美しく響き渡り、消えていった。
一瞬の、完璧な静寂。
それから、建物全体が揺れるほどの爆発的な拍手が沸き起こった。
「……ありがとうございました」
ponziが短く告げ、ステージを降りようとしたその時だった。
「アンコール! アンコールしてください!」
作業療法士の小澤くんが、規律も立場も忘れて叫んだ。
その声に呼応するように、会場全体から「アンコール!」「アナクロニズム!」という地鳴りのような合唱が巻き起こる。
管理される側の「異常者」たちが、自分たちの意志で、自分たちの望む「音」を求めて声を上げている。
それは、テリーの支配も、青山の管理も及ばない、純粋な自由の獲得だった。
ponziは再びギターのネックを握りしめ、シャンボに向けて不敵に頷いた。
嵐の前の、最高に美しい反逆。
本当の「アンコール」は、今、始まったばかりだった。




