表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
松戸愚連隊  作者: ponzi
37/43

第37話みんな怯えながら生きてるのだから

1. 「今」という名の特効薬


小岩クリニックの作業療法士棟に流れる空気は、もはや精神病院のそれではない。窓の外に広がる小岩の殺風景な街並みさえ、どこか別の惑星の風景のように遠のいていく。


『ウソ』の余韻に包まれ、静まり返ったホールに、ponziの爪弾くChillなイントロが優しく、しかし確かな体温を持って染み渡り始めた。


「……『今を生きる』」


ponziが囁くように曲紹介をすると、シャンボが魂の深淵から汲み上げたような声で歌い出す。


(歌:シャンボ)


わたしは誰かに何かを与えたり、誰かを評価したりできるような偉い人間であったろうか?


博愛がモットーのわたしではありますが、今を生きるのに精一杯で、誰かを思いやる余裕はない――


その歌詞は、病棟で日々「評価」され、「診断」され、社会的なヒエラルキーの底に置かれている患者たちの胸を直撃した。立派な経歴も、完璧な人格も持たない。ただ、呼吸を続けることさえ困難な夜を乗り越えてきた者たちにとって、それは「救い」そのものだった。


ponziはギターのコードを強く掻き鳴らし、マイクに向かって実存の叫びをぶつける。


「未来は全部『今』の積み重ねなんだ! 過去の自分も、あの苦しかった瞬間も、全部その時の『今』だった。だったら、今この瞬間をしっかり生きる。それ以外に、何ができるっていうんだ!」


(歌:シャンボ)


今を生きる、今を生きる


愛こそすべて、ジョン・レノンの哲学


今を生きろ、しっかり生きろ


みんな怯えながら生きてるのだから――


「みんな怯えながら生きてるのだから」


そのフレーズが繰り返されるたび、会場のあちこちで嗚咽が漏れた。強がっているテリーも、管理する側の青山院長も、そしてここにいる患者たちも、皆、得体の知れない不安に怯えている。ponziの哲学は、その「弱さ」を共有することで、冷酷な分断を溶かしていった。


2. 泥濘からのパラダイムシフト


曲の中盤、ponziは自らの人生を振り返るように言葉を紡ぐ。


「立派な人格とは無縁の、ゴミ溜めから始まった第二の人生。僕はいつだって甲斐性なしだ。でも、健常に動けるだけでマシじゃないか。脱構築的なインクルージョン……それこそが、僕たちの生きる道なんだ!」


シャンボの歌声は、ponziの言葉を音楽の翼に乗せて、さらに高く、さらに遠くへと運んでいく。


(歌:シャンボ)


彼女ひとり説得できない自分がいて


自己実現じゃない歴史的使命感


恋をしてはまたフラれの繰り返し


みんな怯えながら生きてるのだから――


「自己実現」という新自由主義的な呪縛から降り、もっと大きな、歴史の一部としての「今」を引き受ける。難解な哲学用語が、メロディという魔法を通じて、患者たちの生きる活力モチベーションへと変換されていく。ホール全体の熱気は、もはやライブハウスの絶頂期を凌駕していた。


3. 終幕、そして約束の「方舟」へ


熱狂の渦の中で、ponziは穏やかな表情でシャンボと視線を交わした。


「……最後の曲です。『ノアの方舟』」


これまで披露してきた難解で鋭利な哲学の刃を、最後は包み込むようなポップな旋律へと変える。イントロが始まった瞬間、会場にはパッと花が咲いたような明るい空気が広がった。


(歌:シャンボ)


いつも決まった仕事、いつも決まった日常。いつも決まった帰り道。


古典は読む方、色褪せたルーティンを慰めてくれる数少ない魔法だから。


君と出会って距離を縮めて、本当は狙ってたんだ、このネタ――


エミへの想いを込めたその歌は、誰の心の中にもある「大切な誰か」の記憶を呼び起こした。病棟という、変化のない「色褪せたルーティン」を生きる彼らにとって、音楽こそが、そして誰かを想うことこそが、世界を鮮やかに塗り替える魔法なのだ。


(歌:シャンボ)


君がいるから頑張れるんだって。君がいるから生きていけるんだって。


神話のようにノアの方舟に乗って、like a history、ノアの方舟に乗って。


君の人生に光と神のご加護が! 君の未来に勇気と幸運を願う!


「哲学書が好きなんだ! 君との差異を埋めて、同一的になりたいんだ!」


ponziのバックコーラスが、シャンボのメインボーカルと美しく絡み合う。


「二人のおとぎ話。君のためだから頑張れる。どんな嵐が来ようとも、この『音』という方舟に乗れば、僕たちはどこへだって行ける!」


会場中が手拍子に包まれた。ヌシのオコノギさんも、佐藤くんも、久仁子ちゃんも、そして看護師のヒナちゃんまでもが、満面の笑みで体を揺らしている。


(歌:シャンボ)


神話のようにノアの方舟に乗って。


君の人生に光と神のご加護が!


君の未来に勇気と幸運を願う!


最後の一音が、冬の陽光が降り注ぐホールに長く、美しく響き渡り、消えていった。


一瞬の、完璧な静寂。


それから、建物全体が揺れるほどの爆発的な拍手が沸き起こった。


「……ありがとうございました」


ponziが短く告げ、ステージを降りようとしたその時だった。


「アンコール! アンコールしてください!」


作業療法士の小澤くんが、規律も立場も忘れて叫んだ。


その声に呼応するように、会場全体から「アンコール!」「アナクロニズム!」という地鳴りのような合唱が巻き起こる。


管理される側の「異常者」たちが、自分たちの意志で、自分たちの望む「音」を求めて声を上げている。


それは、テリーの支配も、青山の管理も及ばない、純粋な自由の獲得だった。


ponziは再びギターのネックを握りしめ、シャンボに向けて不敵に頷いた。


嵐の前の、最高に美しい反逆。


本当の「アンコール」は、今、始まったばかりだった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ