第36話彼らはわたしの昔の姿なのですから
1. 市場と道徳の境界線
「恋は小岩」の熱狂が冷めやらぬ中、豪志(ponzi)の指先が、流れるような軽快なイントロを奏で始めた。会場の空気は一変し、今度は何かに深く問いかけるような、知的な緊張感に包まれる。
「続いて……『お金では買えないもの』」
豪志のバックコーラスと厚みのあるギターに乗せて、シャンボの声が再び響き渡った。
(歌:シャンボ)
あらゆるものがカネで取引される時代。市場原理主義は正しいのか?
だが、やはり何かがおかしい。
民間会社が戦争を請け負い、臓器が売買され、公共施設の命名権がオークションにかけられる――
精神病院という場所は、ある意味で「効率」の極北だ。限られた予算と時間の中で、いかにして多くの人間を管理し、処理するか。そこではしばしば、一人の人間の「尊厳」という、市場価値のつかないものが削ぎ落とされていく。
豪志は、ギターを弾きながらマイクに向けて、哲学的なテーゼを投げかける。
「結局のところ市場の問題は、実はわれわれがいかにして共に生きたいかという問題なんだ! 大事なのは、出自や社会的立場の異なる人たちが日常生活を送りながら出会い、ぶつかり合うことなんだ。なぜなら、それが互いに折り合いをつけ、差異を受け入れることを学ぶ方法だし、共通善を尊ぶようになる方法だからだ!」
観客の目つきが変わる。病院という「隔離」された場所で、彼らは「出会い」を奪われている。社会から弾き出され、市場価値がないと見なされた自分たちの「善」とは何か。シャンボの歌声は、その問いに寄り添うように重なっていく。
(歌:シャンボ)
われわれが望むのは、何でも売り物にされる社会だろうか。
それとも、市場が称えずお金では買えない道徳的・市民的善というものがあるのだろうか――
演奏が終わると、会場には深い思索のあとのような、重厚な拍手が巻き起こった。患者たちの胸に、自分たちが失いかけていた「市民としての誇り」が、わずかに、しかし確実に再燃していた。
2. 弱き者のための「ウソ」
熱気をはらんだ静寂を破るように、豪志がアルペジオの穏やかな旋律を刻み始めた。
看護師の中川ヒナが、ハッとした表情でステージを見つめる。彼女が一番好きだと言っていた曲、『ウソ』の始まりだ。
シャンボの声が、先ほどまでの力強さとは対照的に、壊れ物を扱うような優しさを帯びて、物語を紡ぎ出す。
(歌:シャンボ)
子供って追い詰められるとウソをつくじゃないですか。
自分を守るためにギリギリのところでウソをつくじゃないですか。
私は子供たちのつくウソが大好きです。
彼らは私の昔の姿なのですから――
ヒナの目が、みるみるうちに潤んでいく。
精神病棟という場所は、「本当のこと」を言わなければならない場所だ。症状は? 気分は? 希死念慮は? 医師や看護師の問いに「正解」を答えなければ、外の世界へは戻れない。だからこそ、患者たちは、そして時にはスタッフさえも、自分を守るための切実な「ウソ」をつく。
豪志のマイクパフォーマンスが、鋭く核心を突く。
「政治や経済にウソを持ち込み、科学や宗教まで歪めて、人を出し抜こうとする。……そんな『支配のためのウソ』は、資本主義だなんだと開き直ったところで、絶対に許されないんだ。第一、自分自身にウソをついているじゃないか!」
豪志は、視界の隅でこちらを凝視している監視カメラ、そしてその向こう側で小林先生を脅し、自分たちをここに追い込んだテリーの冷酷な「ウソ」を、音楽の刃で切り裂こうとしていた。
(歌:シャンボ)
今を生き延びるための精一杯のウソ。
誰がそれを責められるんですか、ねえ?
サビに入ると、シャンボの声は祈るような高まりを見せた。
「今を生きるためのウソと、誰かを騙すためのウソ。似てるようでいて全然違うものじゃないですか!」
その叫びは、自分を「異常」という枠に押し込めて守ろうとした患者たちの、そして、テリーの脅迫に屈して孫娘を守ろうとした小林先生の、あの悲痛な選択さえも包み込むような包容力を持っていた。
3. 涙の共鳴
曲の終盤、豪志のギターが激しく掻き鳴らされ、シャンボの「ねえ?」という問いかけがホールにこだまする。
(歌:シャンボ)
自分を守るためのウソと、誰かを傷つけるためのウソ。
似てるようでいて全然違うものじゃないですか。
今を生き延びるための精一杯のウソ。
誰がそれを責められるんですか、ねえ?
演奏が終わった瞬間、一拍の沈黙。
それから、先ほどの『恋は小岩』とは種類の違う、魂が震えるような万雷の拍手が沸き起こった。
中川ヒナは、顔を覆って泣いていた。
彼女は看護師として、日々「正しさ」や「治療」という名の下に、患者たちの切実なウソや、自分自身の弱さを、無意識のうちに裁いてしまっていたのかもしれない。豪志とシャンボの歌は、そんな彼女の心の鎧を、優しく、しかし容赦なく脱構築していった。
オコノギさんも、佐藤くんも、久仁子ちゃんも。
みんなが、自分の「昔の姿」を思い出し、今この場所で生き延びている自分を、肯定されたような気がしていた。
「……ありがとう。本当に、ありがとう……」
誰かが呟いた声が、拍手の合間に漏れ聞こえる。
豪志は、ギターを抱えたまま、ゆっくりと深く一礼した。
音楽の持つチカラは、理屈を超えていた。
市場では買えない、そしてどんな権力も支配できない「魂の自由」が、今、この閉鎖病棟の作業療法士棟に、確かに顕現していた。
テリーの悪意によって閉じ込められたこの檻は、今や、彼らの「聖域」へと変わりつつあった。




