第31話強制入院とテリーの思惑
1. 晩秋の予兆
2025年11月。松戸の街を彩っていた紅葉は、冷たい北風に煽られてアスファルトを虚しく転がっていた。つい先日まで「アナクロニズム」の音楽で熱狂していたライブハウスの喧騒が嘘のように、豪志の周囲には重苦しい沈黙が立ち込めていた。
異変は、相棒であるシャンボの心身に現れた。
ライブツアーという強烈な光を浴び続けた反動か、それとも冷え込み始めた気温のせいか。シャンボの持病であるうつ病が、底なしの沼のように彼を飲み込み始めていたのだ。食事は喉を通らず、ギターに触れることさえできなくなり、ただ暗い部屋の隅で、異国の言葉で絶望を呟き続ける。
「goki……もう、光が見えないんだ。僕の心は、あの鉄格子の向こう側に戻ってしまったみたいだ」
シャンボの虚ろな瞳を見て、豪志は決断した。彼らが最も恐れ、そして避けてきた「医療システム」への接触だ。しかし、もはや個人の意志でどうにかなる段階は過ぎていた。
「大丈夫だよ、シャンボさん。一度、ちゃんと診てもらおう。クスリさえ合えば、またステージに立てる」
豪志は震えるシャンボの肩を支え、松戸駅前にある「松戸メンタルクリニック」の門を叩いた。
2. 小林先生の沈黙
クリニックの待合室は、消毒液の匂いと、行き場のない不安を抱えた患者たちの溜息で満ちていた。
診察室に通されると、そこには白髪の混じった初老の医師、小林が座っていた。彼は豪志が差し出した健康保険証も自立支援受給者証もないシャンボのプロフィールを一瞥し、眉をひそめた。
「保険証も、これまでの通院歴を示す書類も一切ない、か……。君、お名前は?」
「……シャンボです。ブラジルから来ました」
シャンボが消え入るような声で答える。
小林はペンを置き、眼鏡の奥の鋭い光で二人を射抜くように見つめた。
「ちょっと待っていなさい。照合が必要な案件のようだ」
そう言い残すと、小林は二人の返事も待たずに、重い扉の向こう側へと姿を消した。
診察室に残された豪志の背中に、冷たい汗が伝った。壁の向こう側から、低く、しかし緊迫した話し声が漏れ聞こえてくる。
「これは、やばいことになりそうだね、シャンボさん」
豪志がささやくと、シャンボは涙を流しながら豪志の腕を掴んだ。
「でも、僕はもう限界なんだ。脳が燃えているみたいだ……。クスリがないと、死んでしまう」
数分後、扉が開いた。しかし、戻ってきたのは小林一人ではなかった。彼の背後には、白い制服に身を包んだ、体格の良い数人の男性看護師たちが、壁を作るように立ちはだかっていた。
「……意味はわかるね?」
小林の声は冷徹だった。
「君たちには、以前収容されていた精神病院から『捜索願』が警察に出されている。脱走、そして無許可の転居。加えて、シャンボさんの現在の病状は極めて深刻だ。放置すれば自傷他害の恐れがある。この場をもって、二人とも『医療保護入院』の対象とする」
豪志は一瞬、逃走を考えた。だが、隣で震えるシャンボの指先を見て、その力を抜いた。
「……分かりました。抵抗はしません。特にシャンボさんを助けてください。このままでは彼は死んでしまう」
「話が早くて助かるよ、ponziさん。君も同じだ。君たちが『松戸の英雄』として巷を騒がせているのは聞き及んでいる。だが、表現者としての活動が君たちの精神を摩耗させた事実は否めない。今は、休息が必要だ」
小林は一枚の紹介状を書き上げ、地図と共に豪志に手渡した。
「幸いなことに、私は江戸川区にある『小岩クリニック』の院長と懇意にしている。あそこは松戸の施設よりも都会的で設備も整っているし、何より君たちは江戸川区にも縁があるようだからね。そこへ向かいなさい。車両は用意してある」
3. 悪魔の証明
ponziとシャンボを乗せた搬送車両がクリニックを出発した直後、小林は震える手でスマートフォンの画面をスワイプした。
発信先は、履歴の一番上にある名前。政治結社「日本愛国連合会」の幹部、テリーだ。
「……言われた通りにした。約束通り、孫娘を無事に帰してくれるな? テリーさん」
小林の声は、医師としての矜持を捨てた男の、惨めな懇願だった。
受話器の向こうから、冷たく、そして愉悦に満ちた笑い声が響く。
「ハッハッハ! 心外だな、小林先生。私を誘拐犯か何かと勘違いしていませんか? 私はただ、お宅の可愛いお孫さんと公園で遊んで、記念写真を撮らせてもらっただけですよ」
「写真を……撮っただけだと?」
「ええ。学校の登下校ルート、放課後に立ち寄る塾の場所、そして自宅の玄関。それらを少し特定させてもらった。それだけですよ。まあ、先生が余計なことをしなければ、その写真が『別の目的』で使われることはありません。……ご苦労様でした、先生」
小林は返事をする前に、通話が切れる音を聞いた。彼は机に突っ伏し、医師免許の証書を床に叩きつけたい衝動に駆られた。松戸の英雄を、自らの手で奈落へ突き落とした代償は、あまりにも重かった。
4. 小岩、再訪
JR金町駅から京成バスに揺られ、江戸川区の喧騒の中へ。
車窓から見える風景は、かつて豪志が自由を求めて彷徨った「小岩」そのものだった。
バス停を降り、紹介状に記された地図を頼りに、住宅街の合間に鎮座する「小岩クリニック」の巨大な門構えが見えてきた。
「gokiくん、僕……怖いよ」
シャンボが子供のように豪志の裾を引く。
「大丈夫だ。ここは小岩だ。僕たちの歌が生まれた場所じゃないか」
豪志は自分自身に言い聞かせるように言い、自動ドアをくぐった。
受付を済ませ、重苦しい空気が漂う待合室へ。周囲には、虚空を見つめる者、小刻みに震える者、何事かを独り言で呪う者たちが、等間隔で椅子に沈み込んでいた。
「紹介状をお持ちの、シャンボさん。中へどうぞ」
診察室の奥に座っていたのは、彫りの深い顔立ちに銀縁の眼鏡をかけた男だった。
「私が院長の青山道胤です。……紹介状を読みましたよ。さぞかし激しい日々を過ごされたのでしょう。ponziさん、そしてシャンボさん」
青山の眼差しには、小林のような冷徹さではなく、何らかの意図を隠し持ったような「不気味な慈愛」があった。
「さっそく入院の手続きに入りましょう。身の回りのものは? ……ああ、準備してきているようですね。覚悟はできていたということか」
診察室を出ると、再び屈強な男性看護師たちが待ち構えていた。彼らに取り囲まれるようにして、一行は1病棟へと向かう。
そこで待っていたのは、病棟長の若狭健二だった。
「はじめまして、ponziさん。私はここの病棟責任者の若狭です。君たちのことはネットで少し拝見しましたよ。……さて、役割分担をしましょう。シャンボさんは現在、精神的に非常に不安定だ。治療に専念するため、隔離室(保護室)に入ってもらいます」
「隔離室……? それはあんまりだ、せめて同じ部屋に」
豪志が抗議するが、若狭の無機質な視線に遮られた。
「これは医学的な判断です。ponziさん、君は比較的安定している。4名の大部屋で生活してもらいましょう。……さあ、案内してください」
シャンボは抵抗する気力さえなく、看護師たちに両脇を抱えられ、重い鉄扉の向こう側へと消えていった。
「……よろしくお願いします」
豪志は、去りゆくシャンボの背中に、そして自分を閉じ込めることになる病棟長に向けて、深く、長く、頭を下げた。
松戸の光が消え、小岩の闇が二人を包み込む。
テリーの仕掛けた蜘蛛の網が、今、確実に彼らの自由を絡め取った。
「アナクロニズム」の物語は、ここから最も過酷な、そして最も哲学的な試練の地へと足を踏み入れることになる。




