第20話伊勢崎市
2025年3月。松戸の街に春の風が吹き始めた頃、豪志のスマートフォンに、懐かしい名がLINEの画面に表示された。
星野さん。
群馬県伊勢崎市の精神科病院「原病院」で、豪志が唯一心を許し、哲学を語り合った、無二の親友だ。彼は、豪志より6歳年上で、茨城大学理工学部を卒業後、トヨタ自動車で20年以上エンジニアとして働き、世界初のハイブリッド自動車「プリウス」の発明にも携わったという、とてつもない経歴の持ち主だった。現在は、伊勢崎市のグループホームに在住している。
「ネギちゃん。久しぶり」
星野さんのメッセージに、豪志の胸は高鳴った。「ネギちゃん」は、原病院で星野さんが豪志につけたあだ名だ。彼だけが豪志をそう呼んだ。
「いま松戸でシャンボさんたちとミュージシャンとして活躍してるんだって?」
豪志は、自分たちの音楽が、遠く離れた星野さんにまで届いていることに、驚きを隠せない。
「今度、伊勢崎市でもライブやってみない?伊勢崎駅前のショッピングモール**『スマーク伊勢崎』の近くに『ギブミーラブ』**っていうライブハウスができたんですよ。そこの店長が僕の知り合いで、高橋さんっていうんだけど」
星野さんのメッセージは続いた。
「ネギちゃんたちがやってる音楽バンド『アナクロニズム』に、すごく関心があるらしくて。YouTubeやTikTokも観て、伊勢崎市でライブやってもらえないかって言ってます」
豪志は、そのメッセージを読んだ瞬間、胸の奥から熱いものがこみ上げてくるのを感じた。
「渡りに船で。すぐにでも飛びつきたい話です」
豪志は、興奮を抑えきれずに返信した。
彼らの音楽活動は、プロデューサー蘭率いる右派勢力や、テリー率いる政治結社に目をつけられ、いつ妨害されるかわからない状況にあった。そんな中、星野さんからのオファーは、まさに天の助けのように思えた。
「精神病院も、今ならもう、われわれに手出しできないでしょう?」
豪志は、かつて彼らが閉じ込められていた「原病院」のことを思い出しながら、メッセージにそう付け加えた。伊勢崎市は、彼にとって、希望と絶望が入り混じった、複雑な場所だった。しかし、星野さんの存在が、その場所を、再び彼にとっての「故郷」に変えてくれるような気がした。
「伊勢崎市は父上の故郷で、わたしも6年間お世話になった場所。原病院理事長の原淳子先生たち。懐かしい顔にも会えたらいいです」
豪志は、心の中でそう呟きながら、スマートフォンを握りしめた。
豪志とシャンボ、そしてスクリーン越しの湯澤さんとヒデオさんに、伊勢崎市でのライブの話を伝えた。
「マジか!星野さん、覚えてるぜ。あのトヨタのエンジニアさんだろ?すごい人じゃねぇか」
ヒデオさんが興奮気味に言った。
「そうなんです。プリウスを発明したって言っても、星野さん、全然自慢しないんですよ。本当に謙虚で、温厚で、それでいて聡明な人なんです」
豪志は、星野さんの人柄を熱く語った。
「彼、確か、かなりの資産家なんだろ?トヨタの退職金と、障害者年金も合わせて」
湯澤さんの言葉に、豪志は頷いた。
「ええ。でも、お金には全く興味がないんです。彼が興味を持っているのは、哲学と、そして…俺たちの音楽なんです」
豪志は、改めて、星野さんとの深い繋がりに、心が震えるのを感じた。
彼らの「アナクロニズム」は、松戸の街を飛び出し、群馬県伊勢崎市へ向かう。それは、単なるライブツアーではない。それは、豪志が過去と向き合い、未来へと歩み出すための、重要な旅路だった。そして、彼らが伊勢崎市で、どんな出会いを果たすのか、それはまだ誰にもわからなかった。しかし、その旅路の先に、彼らの運命を大きく変える、新たな出来事が待ち受けていることは、間違いなかった。




