第10話エミのために
秋の夜風が、松戸の街の喧騒をいくらか和らげていた。クラブ「ベーカー」での仕事を終え、豪志とシャンボ、そしてエミとノリコは、いつものように店の裏口で雑談していた。豪志たちの音楽活動が軌道に乗り始めてから、こうした時間が、彼らにとって何よりも大切なものとなっていた。
しかし、その日のエミは、いつもと少し違っていた。彼女は、どこか寂しげな表情で空を見上げ、ぽつりと呟いた。
「なんか、ポンちゃんたちがどんどん遠い存在になっていくみたいで…わたしは、あんまり有名になってほしくないなぁ」
豪志は、その言葉に思わず息をのんだ。「ポンちゃん」とは、彼が作家やミュージシャンとして使う活動名「ponzi」のことだ。彼女の口からその名を聞くのは初めてだった。彼女は、豪志たちがただの用心棒ではなく、特別な才能を持つ人間だと知っていた。だからこそ、彼らが遠くへ行ってしまうことを、本能的に恐れているのかもしれない。
豪志は、彼女の不安を打ち消すように、少し照れくさそうに言った。
「最近、絶好調で。エミのために書いた曲があるよ」
エミは、はっとした顔で豪志を見つめた。
「マジで!?」
豪志はシャンボに合図を送る。
「シャンボさん、歌って!『僕のすべてと引き換えに』」
「All right!」
シャンボは、愛用のギターケースから、いつも「ギフテッド」で使っているアコースティックギターを取り出した。夜の街灯の下、豪志が奏でるギターの弦が、物悲しいメロディーを響かせた。
『僕のすべてと引き換えに』
(歌:アナクロニズム)
君の愛情に確信が持てなくて
ただ愛情を示して欲しかっただけなのに
大切なのは信じるということ
僕のすべてと引き換えに 君のすべてを手に入れて
僕のすべてと引き換えに 君にすべてを与えてきた
9年前から君を知っていたよ
日比谷のペニンシュラだったね
シャンボの歌声は、エミに語りかけるように優しく、しかし、どこか切なげに響いた。エミは、ただ静かに、その歌に耳を傾けている。彼女の瞳には、歌に込められた感情が、まるで映像のように映し出されているようだった。
世界中を敵に回しても
いつだって君のために生きてきた
君を手に入れたかった
いつの頃からか僕は自信を失っていった
ただ温もりを手に入れたかっただけなのに
大切なのは愛するということ
僕はすべてを失った
君はまだまだ貪欲だ
僕はすべてを失った
君はいつもの無愛想
9年前のこと君は覚えちゃいない
昨日のことのように鮮明に
歌が進むにつれて、エミの表情は少しずつ変化していった。彼女は、この歌が豪志の過去の、ある女性への想いを歌ったものであることを悟ったのだろう。しかし、その歌が、彼らの今の関係性を壊すものではなく、むしろ、豪志の心を深く理解するために必要なものだと感じていた。
世界中を敵に回しても
守らなければならないものがある
いつだってフェアじゃないんだ
僕のすべてと引き換えに
僕のすべてと引き換えに
僕のすべてと引き換えに 君のすべてを手に入れて
僕のすべてと引き換えに 僕はすべてを与えてきた
演奏が終わると、静寂が訪れた。エミは、言葉にならない感情を抱え、ただそこに立っていた。そして、ゆっくりと顔を上げると、彼女は満面の笑みを浮かべた。
「わぁーっ!(笑)」
そして、心の底から湧き上がるような、温かい拍手を送った。ノリコも、何も言わずに拍手をしている。彼女たちの笑顔は、豪志にとって、何よりも価値のある拍手だった。
「…ありがとう、ポンちゃん」
エミのその言葉は、彼が単なる「用心棒」や「ミュージシャン」としてではなく、彼女にとって大切な存在であることを示していた。
その夜、豪志は、エミの言葉と拍手が、彼の心の奥深くにまで届いたのを感じた。彼は、過去の恋愛や、精神病院での苦悩を歌にすることで、誰かにとっての「かけがえのない存在」になれることを知った。
しかし、豪志の歌が持つ力は、彼らが意図しない形で、かつての因縁を再び呼び覚ますことになる。彼の歌が、過去の愛を歌えば歌うほど、その歌声は、彼の元恋人である村田美夏のもとにも届くことになるのかもしれない。そして、彼らが築き上げてきた、ささやかな平和な日常が、再び嵐に巻き込まれることになるだろう。