第1話松戸に帰る
真夏の蒸し暑さがまとわりつくような、松戸の夜。アスファルトの照り返しが、まるで過去の熱気を蘇らせるかのように揺らめいていた。豪志は、群馬の精神病院を抜け出して着の身着のままで辿り着いたこの街を、茫然と見つめていた。10年ぶりだ。駅前の交差点は、見慣れない派手なネオンと、行き交う人々の騒々しさに満ちている。
隣には、患者仲間だったシャンボが立つ。豪志より一回り以上年下の青年だが、その瞳にはどこか達観したような光が宿っている。彼は豪志がこの街を「故郷」と呼んでいた頃の、喧嘩と煙草の匂いが染み付いた過去の遺物ではない。むしろ、豪志にとって、新しく歩み出すための道標のように思えた。
「よお、豪志さん。松戸も変わったなあ」
シャンボが懐かしそうに呟く。彼の肩には、脱走の際に病院からくすねてきた、安物のギターケースがぶら下がっていた。二人の所持金は、合わせても千円にも満たない。このままでは、今夜の寝床もままならないだろう。
「やるか」
豪志は、まるで自分に言い聞かせるように呟いた。頷くシャンボと、駅前のロータリーにある噴水の前、人通りの多い場所に陣取った。ギターケースを開け、一本のマイクとアンプを取り出す。そして、豪志がコードを鳴らすと、シャンボが歌い始めた。
一曲目はオアシスの“Don't Look Back in Anger”。彼らの声は、街の喧騒に負けないよう、力強く響いた。次いでレディオヘッド、ニルヴァーナ。豪志のギターは、彼らの感情の揺らぎを完璧に捉え、シャンボの歌声は、薬のせいで少しかすれているにもかかわらず、その魂を聴衆に伝えていた。人々は足を止め、彼らの歌に耳を傾ける。中には、無言で小銭を投げ入れていく者もいた。
二時間半が過ぎた頃、ギターケースの中は、小銭でずっしりと重くなっていた。二万円近くは稼げただろうか。その時、シャンボが周囲を警戒するように顔を上げた。
「おい、JASRACが来ると面倒だぞ。昔、渋谷でヤクザに絡まれたことあるんです」
シャンボの冗談のような言葉に、豪志は苦笑しながらも、すぐに片付けを始めた。路上ライブで稼いだ金は、彼らにとって、自由への小さな一歩のように思えた。
稼いだ金で、二人は駅前の路地裏にあるライブハウス「ギフテッド」の扉を開けた。昼間はカフェとしても営業しているらしい。中に入ると、若いバンドが演奏していた。その熱気に、豪志は10年ぶりに、生きている実感を覚えた。
カウンター席に腰を下ろし、豪志はシャンボに問いかける。
「ライブハウスなんて、何年ぶりだろうな」
「俺は時々、フラッと来てたんです。ここで演奏して、昔の感覚を思い出したかったんです」
シャンボの言葉に、豪志は何も答えなかった。彼には、10年間という空白が重くのしかかっていた。
その時、二人の隣に座っていた女性二人組が、ふと彼らに話しかけてきた。一人はボブヘアでクールな雰囲気のエミ、もう一人は長い髪をなびかせる、どこかほんわかした印象のノリコ。
「あなたたち、さっき駅前で歌ってた?」
「よく分かったな」
豪志は少し驚いて答える。エミは、くすりと笑って続けた。
「あのギターの音、なんか忘れられなくて。あなたたち、ミュージシャンなの?」
「ま、そうですね。ただのヤンキー崩れですけど(笑)」
豪志は冗談めかして言った。彼らがただの路上ミュージシャンではないことを、エミとノリコは薄々感じ取っていたのかもしれない。
「よかったら、ここで歌ってみない?マスターに話つけてあげようか」
ノリコが、にこやかに提案する。豪志は一瞬迷ったが、疲労感が彼を押しとどめた。
「いや、いいです。もう疲れたんで」
「じゃあ、一曲だけ。サービスだと思ってさ」
シャンボが、豪志を横目で見て笑った。彼は豪志の手からギターを奪うと、再び席に座り、レディオヘッドの“Creep”を歌い始めた。彼の声は、しっとりと、そして切なげに響き、豪志の心を深く揺さぶった。
"I wish I was special, so fuckin' special"
だが、サビに入った途端、シャンボの声がかすれ、高音が出なくなった。そして、ギターの弦が、パチンと音を立てて切れた。シャンボは、気まずそうに笑いながら、小さく呟いた。
「ダメだ、クスリのせいですよ」
精神病薬の副作用は、声帯にまで影響を及ぼしていた。エミとノリコは、その言葉に一瞬戸惑ったが、すぐに笑って拍手をしてくれた。彼らの純粋な笑顔が、豪志の心を温かく包み込んだ。
ライブハウスを出た後、行くあてのない二人を見て、エミが口を開いた。
「ねえ、行くところないんでしょ?よかったら、うちにこない?寝る場所ぐらいなら何とかなるから」
その言葉に、豪志は戸惑った。見ず知らずの男二人を、家に泊めるというのか?しかし、シャンボは迷うことなく頷いた。
「行こうぜ、豪志さん。こんなチャンス、二度とないですよ」
二人は、エミとノリコの後をついて、彼女たちのアパートに向かった。2DKの部屋は、女性らしい可愛らしい雑貨や観葉植物が飾られていたが、驚くほど整然としていた。
「こっちの部屋を使って。今、お布団敷くね」
エミが、豪志とシャンボに優しく言った。その声に、豪志は安堵を覚えた。10年間、見知らぬ場所を彷徨い続けた二人の心は、まるで故郷に帰ってきた子供のように、安らかに眠りについた。